今夜は雨が降るらしいけど
「あ」


次の日。
背の高いいかつい男性が持ってきた本の中に入っていた"人魚姫"という本。金の髪をなびかせた、私と同じような見た目の女の子が表紙に描かれたそれを私は早速開いた。


(ひと、さかな、ひめ)


くろのさんが一足先にこのタイトルの漢字を私に教えてくれていたのだった。それをもう一度自分の中で確認するように唇の中で復唱しつつ、ページを捲っていく。水槽の枠に肘をかけ、ゆらゆらと尾鰭を揺蕩わせながらふむふむと読み進める。それから暫くして物語が佳境へと入ったころ、部屋のドアがぎぃと開いた。


「かいさん」


入ってきたのはかいさんだった。

かいさんはマスクから覗く目で私を一瞥すると、中へと進んできた。こつこつと靴の音が部屋に反響する。彼は私とは目を合わさずにテーブルに備え付けられた簡素な椅子を引いた。


「オヤジがお前の様子を心配してるんでな。玄野が毎日通ってるんだから、わざわざ今日また見に来る必要なんてないと、俺は思うんだが。どうだ、ここでの暮らしは」
「は、はい。毎日楽しいです」


椅子に腰かけ、指を組んで私を正面から見つめて言うかいさんにちょっと緊張しながらも答える。初めて会ったときは私とそう年も変わらないと思ったものだが、こうしてみるとずっと落ち着いていて見た目の年齢よりも大人のような少年だと思う。
と、そこではっとして私は水槽の縁まで泳いだ。「かいさんかいさん」


「なんだ」
「これ、くろのさんが届けてくださった本なんです」
「"人魚姫"…?」


水槽から伸ばした手で本を渡す。それを受け取ったかいさんは表題を見て、その目元を顰めた。
ぱしゃぱしゃと水の中を泳ぎまわりながら私は話しかける。


「今ちょうど読み終わったところなんです。主人公の人魚姫が、最終的に王子様を助けて泡になってしまうんですよ。まさかそんなことになるなんて思わなくて」


興奮気味に内容を解説すると、かいさんは本をばさりとテーブルに置いた。置いた、というよりは厳密には落としたというほうが正確な感じの動作だった。
なにか気に入らなかったのだろうかと彼の顔を見上げる。


「あ、あの…?」
「俺はこの本が好きじゃない」


はっきりとした口調で言い放たれ、「え」と言葉に詰まる。どうしようと困惑する私に、かいさんは懇々と話し始めた。


「この王子は人魚に助けられて恋をしたんだろう?なのに自分を助けた人魚と別の国の王女とを間違えた。好きな相手を取り違えるなんて馬鹿な話があるか?人魚も人魚だ。なぜ助けた女の見わけもつかないような男の為に命を捨てたんだ?全く意味が分からない」


そしてガタリと椅子から立ち上がった。


「こんな話が世間では切ない、良い話だともてはやされる理由が理解できない。馬鹿な男に恋をした馬鹿な女の話じゃないか」
「…」


まさかそんな言われたかたをすると思っていなかったから、話そうとしていたこの物語についての感想やときめいたポイントの言葉は口から出せなかった。楽しかった気持ちもなんだかしおしおと縮んでいくようだ。
言うことがなくなって沈黙が部屋に落ちたが、かいさんはそれに気を留めることなくドアノブに手をかけてまた私を振り返った。


「この部屋は中からは開けられない」
「…」
「俺は不潔なものは嫌いなんだ。オヤジがお前を引き取ると言うからこの部屋に住まわせているが、外に出られてほっつき歩かれたら堪らない」


そう言った手袋に包まれた彼の手には、銀色に光る小さな鍵があった。


「人魚は今日も変わらず健康そのものだ、と。そう報告しておく」


ばたん、とドアが閉まった。部屋に静寂とともに一人残される。部屋の天井に光る白色の電灯が、きらきらと水面を輝かせる中を、手持ち無沙汰になってしまった私はまた、ゆらゆらと一人で、その中を泳ぐしかなかったのだった。
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