傷のない清教徒
「廻と仲良くできなかったのか」


次の日。
いつものよう部屋へやって来たくろのさんは椅子に腰かけながら水槽を泳ぐ私に話しかけた。ゆらゆら、水の中を左に右へと移動しながらうん、と少し憂鬱な気持ちで頷く。


「かいさんは、私のことを嫌いみたいです」
「まあ、廻は潔癖症だからな。水槽の水とかが嫌なんだろうよ」
「けっぺきしょう?」


初めて聞く言葉に首を傾げると、くろのさんは説明してくれた。けっぺきしょう、というのはとても綺麗好きな人のことであり、かいさんは特にそれが強いらしい。くろのさんが言うには、彼は少し人に触れられたくらいで肌にじんましんなるものが出るらしい。


「はあ。大変なんだね」
「ああ。だから、昨日はお前にそんな態度を取ってしまったんだろう。…だけど、あいつは悪い奴じゃないんだ。許してやってくれ」


そう言うくろのさんの横顔に、「それは別にいいけど…」と返す。そうか、外の世界にはそういう人もいるのか。私はやっぱり、本当に知っていることが少ないんだな。
泳ぎながら思うことは先日のかいさんの態度に傷ついたことよりも、この世のには人に触られるのを嫌がる人がいるということに対する驚きだった。


「私はいつも水槽から出られなかったから、あまり人と話したことがなかったの。私も皆みたいに外を歩き回ったりしたいっていつも思ってたなあ。だから、そういう人もいるのかあって思うと、不思議」
「そうだな」


自分の足に視線を落とす。腰から下は、くろのさんのようなふたつの脚じゃなくて魚のようになっている。きらきらと水面に七色の光を反射させる鱗。薄い尾鰭。これが生まれたときからの私の脚だ。私が暮らしていた見世物小屋には蛇頭の男の子や蝶の羽をもつ女の子などがいたからこういう見た目であること自体は珍しくはないのだが、いかんせん私は歩けないから水槽暮らしなのだ。いつか外の世界を歩いてみたいと思っていた自分にとって、かいさんのような考えを持つ人がいるのはとても不思議なことのように思えた。


「くろのさん、今日は漢字を教えてほしい。くろのさんの名前ってどう書くの?」


水槽越しに話しかけると、くろのさんは椅子を寄せて鞄から何冊か本を出した。ぺらぺらとページを捲り、シャーペン("えんぴつ"ではないらしい)で書き出しながら「そういえばなまえ、なんで俺のことは苗字で呼ぶのに廻のことはさん付けなんだ」「え、廻さんって年上じゃないの?」「俺と同い年だよ。だから多分、お前とも年が近いんじゃか」「えー」
その後、くろのさんが教えてくれたことによればかいさんは"廻さん"らしい。廻の字には生き物の命の循環(くるくる回ることらしい)などの意味があるらしかった。綺麗な名前だと思った。
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