月の心臓
「治崎、なまえはどんな様子だ」


テーブルに重なった書類の束を整理していた治崎は、自身の親のような存在でもある組長の言葉に顔を上げた。なまえ。放たれた名前に一拍おいて、その名の持ち主の顔が頭に浮かんだ。べつに、と書類を渡しながら治崎はかぶりを振る。


「何も変わったことはない。アイツのことは玄野が毎日ちゃんと面倒を見ている」
「そうじゃねえ。治崎、お前はあの子と仲良くやっているのかって話だ」


組長の言葉に、治崎は顔を顰めた。


「なんで俺があの人魚と仲良くしないといけないんだ」


全く意味不明だというように言い切った、殆ど自分の子供のような、まだあどけなさが残る少年から受け取った書類を捲る。中身は、なまえを所有していた違法組織についてだった。
数代前の組長がここと何度か取引をしたことがあった。そのころはまだ警察が黙認しているグレーゾーン内で活動しているだけだったが、組織のトップが変わってからは麻薬の密売やら子供を攫って見世物にするなどということを始めたのだった。今回は組織と手を切るための金を渡しに行ったのだった。
治崎には行くなと言っていたのだが、どうしてもと聞かなかった。そしてとうとう組長のほうが折れて、古株の衆らとともに向かわせたのだった。


「あの子はお前と同い年だろうが。ちったぁなんか喋ったりしてもいいんじゃねえか」
「あいつは人魚だぞ?あの鱗で覆われた脚。あの部屋に近づくのさえ嫌なのに、これ以上関わり合いをもつのはたとえオヤジからの頼みでも御免だ」


治崎はそう言ったが、なぜ組長が自分にそんなことを言うのかは分かってはいた。

治崎には玄野以外に友人らしい友人はいない。

それは治崎本人の性格によるところも大きいのだが、家がこのご時世に極道であることが、余計に彼とクラスメイトたちの間に溝を作っていた。
組長はなまえが治崎と同じ年ごろなのもあって、もしかしたら友人のような関係を彼と築いてくれるのではないかと考えていたのだ。また、まだ小さな彼女のような子供があのような場所で暮らしているのはひとりの大人として心が痛んだのだ。だから、組長はなまえをこの屋敷へと住まわせたのだった。


「…まあ、お前が嫌がるなら無理強いはしねえけどな」
「ああ、そうしてくれ。まあ気が向いたらまた話しかけに行くさ。それよりもオヤジ、前に話していた立花組との会合のことだがー…」


治崎は、よく働く。きっと、恩義を忘れない類の人間なのだろうと親代わりの組長は考える。

すぐに仕事の話に戻った治崎を見ながら、それでも組長は彼を案じる気持ちを感じずにはいられなかった。幼少から誰にも心を開くことができず、治崎の心には自分と玄野以外がいない。しかし、それでは駄目なのだ。外に出て、少なくても良いからもう少し他人との心の触れ合いを体感して、絆を結んでいく経験を彼は詰まなくては駄目なのだ。そうでなければ、この先の長い人生を治崎は渡っていけないだろう。

心の中で考えた言葉は治崎には伝えず、急須の中の苦みが強い玉露茶と共に呑み込んだ。この子も、いつかは外の世界に出て行かなければならないのだと思いながら。
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