結婚詐欺師の鈴川聖弘さんを連行しながら芦別に向かうと白石さんが、陸軍に捕まったという悪い知らせが入り、私達は急ぎ足で旭川に向かい、鈴川さんの協力の元白石さんを奪還する事となった。
「白石が旭川第七師団の兵営のどこにいるのか…中に潜入して探らなければならない」
「東京の架空の上級将校に成りすますとかは?」
杉元さんがそう提案すると、尾形様が無理だと却下する。
「いや…軍は上に行くほど横のつながりが強いから架空の上級将校はバレる」
そう言った尾形様の目は何かを見つめているようで、見つめていない。何かを考えているんだろうが、その表情からでは何も読み取ることが出来ない。
「お…っ、尾形様は第七師団の方だったんですね」
伯父に変装しますか?と声を出しそうになり、慌てて違う言葉を選んだ。
尾形様は私が違う言葉を言おうとした事が分かったのか、目を細めて私を射抜く。
「犬童白郎助はどうだろうか」
鈴川さんは網走監獄の典獄である犬童さんに化けると言ったが、犬童さんを知っている人達は似てないと一蹴する。
「誰か実在の人物に成りすますってのは、その人物と似てない部分を減らすって事だ」
これでどうかな。と言った鈴川さんの顔を見て、本当の犬童さんを知っている人達は息を飲んだ。
犬童さんに寄せた鈴川さんの完成度は、周りの人の反応を見れば直ぐにわかる。
実働隊として鈴川さん、杉元さん、そして尾形様が行く事になって、私達は待機する事になったのだが銃声が聞こえ、何かが起こったのだと理解した。
アシリパちゃんが馬に跨り、空に浮かんでいる気球船を見る。恐らく彼処に杉元さん達がいるかもしれない。と思って馬で追いかけようと言うのだ。
「アシリパちゃん!私も行く!」
「雪子馬乗れるのか?!」
「教わったからね!」
アシリパちゃんの跨っていた馬だと少し小さいので大きな馬に跨り、アシリパさんを後に乗せ空に浮かぶ気球船目掛けて馬を走らせる。
途中アシリパちゃんが弓を射て、走る馬から木に飛び移り、何故か気球船から縄一本でぶら下がっている白石さんに更に飛び移る。
無事アシリパちゃんと白石さんは大きな気球船に乗り込む事が出来たが、問題はそれだけじゃなかった。
森に銃声音が響く。気球船に向かって撃たれたのかと思ったが、次の銃声音が聞こえた時、肩から羽織っていた二重まわしに銃弾が掠る。幸いな事に馬には当たらなかったようだが、驚いた馬が驚き前脚を高く上げ我武者羅に走り出す。
銃声はその後も何度も続き遂には崖にまで追い詰められた。
何処から撃ってきているのかも分からないこの状況を打破するにはどうしたらいい。
皆が乗っている気球船は、馬が我武者羅に走った所為でとっくに追い越してしまった。
「雪子!木に登れ!」
アシリパちゃんの声が耳に入り、空を見上げると、白石さんのように今度はアシリパちゃんが気球船から縄を垂らし、それにぶら下がっている。
気球船から出来るだけ身を乗り出して銃を構えている尾形様の姿も見える。
「撃たないで!!」
そう叫んで近くの木に飛び移り、出来るだけ上に登る。すると運良くアシリパちゃんが私の頭上を通り、手を伸ばしてくれたから、それに掴まりもう片方の手を伸ばして縄を掴む。
尾形様も私を狙っていた人も撃つことをやめたのか、銃声は聞こえてこない。そして、私達は無事気球船に乗れたのだが、不時着した気球船を捨て、徒歩で逃げる事になった。
私でも追える速度で空中を浮いていたんだから、陸軍の人なら余裕だよね。
途中崖があったとはいえ、これだけ大きな機体ならすぐに見つかる。私達は旭岳を含む大雪山連峰に向かって進み、山を登っている最中、望遠鏡で追っ手が来てるかを注意深く見張ってた尾形様が焦ったように声を上げた。
「見つかった!!急げッ、大雪山を越えて逃げるしかない」
「マジかよ。この山を?」
大雪山は北海道で一番の標高を誇っており、旭岳を含み二十の山々が連なっている。標高が高いと言うことはそれだけ気温が下がるってことだ。
「寒い…風が冷たい……っ!」
「我慢しろ!」
二重まわしを羽織っていてもまだ寒い。桜が咲いたとはいえ、北海道の春の山にはまだ雪が残る所が多い。それくらいにまだ山の上は寒いのだ。
白石さんが燃やす木がないのなら下山しようと言ったが、尾形様が追っ手が来てると言って、それを却下すると、杉元さんが声を出した。
「残雪に穴を掘って避難するか?」
「無理です!いくら寒いとはいえこの時期の雪は触っただけで水に溶けてしまいます!」
「それに身を隠せる程雪が残ってない!」
そう、寒い癖にこの時期の雪は辛うじてこの寒さで残っているだけで、穴を掘ったりかまくらを作る事さえ出来ない。
何処か身を隠せる所を早く見つけないと、低体温症で寒さの感覚がなくなり暑さだけが残り、感覚が狂って最後は死に至ってしまう。
「ユクだ!杉元雄を撃て!大きいのが三頭必要だ!」
アシリパさんの指示に真っ先に従ったのは尾形様で、彼は一発で二頭の鹿を同時に撃ち抜き、残りの一頭を素早く撃った。
「二頭同時に……ッ!」
「急いで皮を剥がせッ!大雑把でいい!!」
横に倒れる鹿に近づき手早く鹿の皮を剥ぐ。鹿の皮を剥ぐのも手馴れたもので、迷うことなく皮と肉の間に刃物を差し込むことが出来る。
尾形様の教育の賜物だ。
白石さんを無理やり鹿の中に入れて、一番大きな鹿の中に私と、尾形様が一緒に入ることになった。
鹿の外に出てる脚に、剥いだ皮を被せて冷たい風を凌ぐ。向き合うように寝そべるが、兎に角鹿の中が血と獣の臭さがあり、気を抜くと吐きそうになる。二重まわしを口元に持っていくが、臭いが混ざり合い完全に臭さが消えることはない。
「吐くなよ」
「……はい」
首を縦に振ったが、私が限界に近い事を尾形様は知っているのだろう。
尾形様は私の腕を掴み引き寄せ、自分の外套の中に私を閉じこめる。すると匂いが尾形様のものになり、鹿の臭いが幾らか薄らぐ。
「お前、あの時なんて言おうとした?」
「あの時…私、言っちゃいけない事を言おうとしました」
「なんだ」
「…伯父に変装したら如何ですかって」
白石さんが必要だからね、自分に出来ることを提供しようと思い、言いかけたけどそれは出来ないと思って言葉を控えた。
「お前は分かっているんだろ。上級将校である伯父に狙われている事を」
撃たないで。と言った時に私を狙って狙撃してた人たちも撃たなかった。その時にもしかしたらとは思った。
いつかこんな時が来るんじゃないかと感じていた。伯父が私に掌よりも小さな木箱を渡してきた。母に聞くとそれは身分を証明するものだと悲しい顔をして話してくれた。
「千代さんに何か聞かされたんですね」
「牽制されただけだ。あの婆さんはどうやら俺が雪子をとって食わねぇか心配らしい」
牽制…?なんで千代さんがそんな事を?
私の話よりもそっちの話が気になり、尾形様の胸元に埋めていた顔を上にあげるが、真っ暗な鹿の腹の中では尾形様の表情はわからない。
否、例え見れたとしてもあの真っ暗な瞳からはなんの感情も読み取れないだろう。
「千代さんはなんて言ってたんですか?」
「気にしない方がいいんだろ?俺は気にしてないぜ」
「私が気になりますけど」
詰め寄るも尾形様は私をあしらい、自身の胸元に私の顔を押し付け、話は終わったと言わんばかりに黙らせる。
鹿の温度なのか、尾形様の温もりなのか分からないが、陸軍に追われ寒さに震えているのにこんなにも安心する。
こんな時だと言うのに私はすんなりと意識を手放した。
どれくらいの時間が経ったのか分からないが、尾形様の私を起こす声で起きた。何やら鹿が何かに揺らされているようで、得体の知れないものに混乱していると、尾形様がゆっくりと外に出たので私も鹿の外に出ようとしたが、尾形様が掌を私に見せて動くなと無言で指示をする。
「おぎゃあっ」
白石さんの赤子の泣き声の真似する声が聞こえると、鹿が揺れなくなり獣か何かの呻き声に似たそれが聞こえた。
鹿の中から出ると羆の後ろ姿が見えて、無意識に身体がすくみ怯んだ。
「ゆっくり移動するぞ」
網走に直接行くよりは、十勝方面に寄り釧路に寄ろうという杉元さんの提案で、私たちは釧路に向かった。
途中途中で小さな鼠を捕獲して下山していたが、麓に近づくにつれ取れなくなってきたが、アシリパちゃんが石で潰れた小さな鼠を掴み、火で炙り毛皮を焼き落として丸焼きにしたものを尾形様に渡した。
それを無言で受け取り、丸焼きされた鼠を口に含む。アシリパちゃんはヒンナはぁ?と首を傾げ仕方ないと言ったように鼻から息を出す。
「尾形はいつになったらヒンナ出来るのかな?好きな食べ物ならヒンナ出来るか?尾形の好物はなんだ?」
ヒンナと言わない尾形様に、どうしてもヒンナと言わせたいらしいが、それよりも私は気になるものがある。
「アシリパちゃんいいなぁ」
「ん?何でだ?」
杉元さんが私の呟きが聞こえたようで、首を傾げる。偽アイヌを容赦なく殺した男とは思えない程の愛嬌があり、つい笑ってしまった。
「あっ、雪子ちゃんひどーい」
「ごめんなさい。杉元さんが可愛くて」
口はそう言いつつも、目だけはしっかりとアシリパちゃんと尾形様の姿を映していた。
初めて会った時、尾形様は私か作った料理をこんなに素直に受け取って食べてはくれなかった。先ず私に毒味をさせて異常がなかったら自分も食べる。
「雪子ちゃん?」
「何でもありません。先に進みましょうか」
こうして私たちは釧路を目指して歩みを進めた。