網走近郊のアイヌの集落にて私たちは夕飯をご馳走してもらうことになった。
トンネルは明日には開通されるとの事で、網走監獄でのっぺら坊に接触する日はいよいよと近づいてきた。
「アイヌにとって主食だった鮭はシペ“本当の食べ物”と呼ばれ、川に鮭が極端に少ない年は餓死するものが出た程重要なものだった。だから私たちは鮭一匹を余すことなく利用する」
アシリパちゃんがよくするチタタプとは、本来鮭のチタタプを表しているらしく、鮭の氷頭とエラをチタタプする為に土方さんが連れてきた若い男の人から順に回して行く事になったのだが、若い男は杉元さんに、ちゃんとチタタプ言え夏太郎。と言われ杉元さんの圧に冷や汗をかきながらも、チタタプと言いながら食材を刻んでいく。だが、夏太郎さんは何故か頻りに私の顔を見ては逸らしている。
何かついているのか?と首を傾げながらも両手で頬を挟むように触るが何も付いていない。
「尾形様、私何か顔に付いてます?」
「あ?」
「土方さんについて来た夏太郎さんがチラチラ見てくるので…」
真っ暗闇の瞳が揺れることなく私を射抜く。そんなに見つめられると照れてしまい体中の体温が上昇する。無遠慮に見つめる尾形様の視線に耐えられなくなって、私の方が先に顔ごと目を逸らしてしまった。すると尾形様は私の顎を掴み無理矢理向き合わされる。
「何で顔を逸らす?それじゃ何が付いているか見えねぇぜ」
「そんなに見つめられたら照れます!」
顔を逸らした時、視界の端にチカパシくんが土方さんの膝の上に乗り、刀で鮭を刻んでいるように見えたのだが、それに驚いている場合じゃない。目の前には厭らしく笑う尾形様の顔があり心臓が早鐘のように動く。手に汗をかき喉が異様に乾く。私の顎を掴んでいた彼の手は三つ編みにしている髪の束を緩く手の中に収める。
この男は意地悪だ。私の反応を見て揶揄い遊んでいる。
「尾形様もチタタプしないと!アシリパちゃん、次尾形様でもいいかな?」
「わかった。今持って行く」
この状況を打破しようとアシリパちゃんを呼ぶと、彼女はチタタプの道具を持って来てくれた。これで助かった。なんて忙しなく動く心臓に上から手を当て、静まってくれるように深呼吸を何回かしていると何となく落ち着いてくれたような気がした。
アシリパちゃんに包丁を二丁渡された尾形様は無言でまな板の上にある鮭をチタタプしていく。
「尾形〜〜〜。皆チタタプ言ってるぞ?本当のチタタプでチタタプ言わないなら、いつ言うんだ?皆と気持ちを一つにしておこうと思ったんだが」
そう言っても尾形様は無言のまま、無表情でチタタプする。それを見たアシリパちゃんが私を見て、雪子も何か言ってやれ。と視線で訴えかける。私が言っても彼はチタタプと言わないと思うが、アシリパちゃんに視線を向けられるとやらないといけないような気がしてくる。
「気持ちを一つにするのは大事な事だと思いますよ」
と当り障りのないことを言うも、尾形様は無言のままチタタプをし続けている。私の説得ではだめだったようです。とアシリパちゃんに視線で訴えると、本当に小さな声で、チタタプと言った低い声が聞こえた。その声は紛れもなく尾形様のもので、彼の方を見ると無表情のまま私に包丁を渡す。
「ありがとうございます」
渡された包丁で鮭をチタタプしている最中、何故か尾形様が胡坐をかいて腿に肘をついて頬杖をつきながら私の事を見ていた。普段ならなんてことなくチタタプと言えるのに、こうも見つめられるとチタタプと言いづらい。
「視線が…痛いです」
「お前の自意識過剰だろ。俺はただ指を切らないか心配してるだけだぜ?」
絶対に嘘だ。と唇を尖らせながらチタタプをし終えて皆で食を囲む。ヒンナヒンナと頬を緩ませながら頂く食事は美味しくて頬が落ちそうになる。鮭の切り身の串焼きも身に脂がしっかりのっていて甘くて美味しい。どれを食べても美味しい料理に舌鼓を打つ。こんな美味しい料理をこの時期になったら食べられるなんて羨ましい。なんて思いつつお腹を満たしていると、牛山さんがインカラマッさんに話しかける。
「インカラマッさんって言ったかね?あんたいい人はいるのかい?」
いい人はいるのかと聞かれたインカラマッさんは答え辛そうにしていると、チカパシくんが谷垣さんの手から食べかけのお椀を奪い、それをインカラマッさんに差し出した。
「女が男の家に行ってご飯を作り、男がそれを半分食べた器を女に渡し、女が残りを食べたら婚姻が成立する」
「アイヌにとっての求婚のようなものか」
成程、チカパシくんは谷垣さんとインカラマッさんを家族だと言って笑っていた。だから本当の家族になって欲しかったのだろう。だけど、谷垣さんはチカパシくんに器を返すように言って、受け取った器を床に置いて家から出て行ってしまった。インカラマッさんも谷垣さんを追いかけて外に出て行ってしまう。
「いいな…自由で」
「お前…結婚願望あったのか。そっちの方が驚くぜ」
「結婚、と言うよりは自由な恋愛がいいなって」
どうしてか、小樽にいたあの頃よりも自由を求めるようになった気がする。特にここ最近は伯父の事を考える時間が長くなっているような気がする。
「自由に出来るだろ。雪子に相手がいたらな」
どうでも良さげに言ったその一言に口角が上がる。だって尾形様といる限り私は自由だ。伯父に囚われなくていい。笑いたい時に笑い、寝たい時に寝てお腹が空いたらご飯を作ってお腹を満たす。好きになった人と婚姻関係を結べたらきっと幸せだろう。
それがこの人だったらそれ以上の幸せはない。
翌日、杉元さんたちが懸命に掘っていたトンネルは開通され、土方さんの協力者である看守の門倉部長の宿舎に繋がった。その門倉さん曰く、のっぺらぼうは毎日監房を移されているらしいのだが、門倉さんには次はどこに移されるのか正確にわかると言い、新月の夜に動けるよう作戦を立てる事になったのだが、何故か関係ない私までも土方さんに呼ばれ、トンネルを通って宿舎に上がった。
尾形様は関係ないだろ。と言って反対していたのだが私の好奇心が上回り結局お邪魔する事になった。と、言っても本当に部外者なので、皆が座っている背後の開通された穴の横に座る事しか出来ない。
「制服を着ているが、警備増強のために裏金で雇ったモグリの看守も大勢いる。夜中でも看守は樺戸監獄の二倍はいるだろう。侵入して見つかれば、容赦なく撃ってくるぜ」
「もし…のっぺら坊がアシリパさんの父親だとして…連れ出すのは難しいのか?」
「片足の腱を切られているので、いつも看守に支えられている。連れて逃げるのはかなり困難だが、不可能ではない」
杉元さんはのっぺらぼうを連れて逃げたいようだが、アシリパちゃんは無理して連れ出す必要はない。と断言する。彼女は本当にのっぺらぼうが自分の父親なのか確認したいだけなのだろう。
「……そこで盗み聞きしとらんで上がって来い」
土方さんは今までの話を遮るように、自身の背後にあるトンネルの方に視線だけ寄こして尾形様に話しかけた。すると、尾形様は徐々に顔を出した。
「キロランケと谷垣からお前の事を聴き出したぞ。尾形百之助は自刃した花沢第七師団長の妾の息子であるというのは、師団内の公然の事実であったそうだな?ただの金塊目当てで軍を脱走したにしては、出自が厄介だ」
「俺が何か軍をどうこうする為に動いているとでも?冗談じゃねぇよ、面倒くせぇ。テメェらだってお互いに信頼があるとでも言うのかよ」
穴から上半身だけ出した尾形様は、また穴に引っ込んでいく。
土方さんの言葉が本当なら、私は彼に聞かないといけない事があるのだ。何処に行くかは知らないが、話を聞いて欲しくて尾形様に向かって手を伸ばすよりも先に、私の視界に影が出来、気が付いた頃には土方さんに胸倉を掴まれていた。
「きゃっ!」
「オイ!じいさん!!」
土方さんは、衿の袷を乱して誰にも晒したことのない肌を軽く暴く。
このままだと掌よりも小さな木箱が外に出てしまう…!
咄嗟に木箱を握ると、その手を後ろに回され喉元には刃物が近づいていた。刃物は銃剣でそれを握っていたのは尾形様で向き合っている。土方さんが私を盾に出来るようにと、銃剣を持った尾形様に向かって突き出したのだ。
喉元寸前でピタリと止まった刃物に息を飲む。少しでも動くと喉から血が出る。そんな想像が容易く出来るこの状況は私にとって恐怖ではあるが、同時に尾形様に助けを求めてしまうものだ。
「ジジィその手を離せ。殺すぞ」
「やってみるか?」
木箱を握っている手を土方さんに強く握られ、痛みで顔を顰める。喉元にあった刃物は土方さんを狙っていて殺気立っている尾形様を前に震えてしまう。
遂に痛みに耐えれなくなった私は握っていた木箱を床に落とした。木と木がぶつかる音が小さく響く。それに気が付いた杉元さんが低い声で、なんだそれは。と土方さんと私に確認する。
木箱を落とした事で私は用済みになったようで、土方さんは尾形様の方に私の体を緩く押す。その力に抵抗しようと思えば出来たが、敢えて抵抗することなく尾形様の胸の吸い込まれるように倒れ込んだ。
「やはり、華族だったか。夏太郎が小樽にいた頃噂を耳にした。洋館のお嬢さんがいなくなったとな」
「家族…?」
「アシリパさんは知らないのか、華の族で華族。貴族の事だよ」
土方さんによって乱された袷を整え、尾形様に寄りかかったまま何も言わないでいると白石さんが状況に付いていけていないようで困惑した声色で、どういう事だ?と声を出した。
「雪子ちゃんお金持ちの子なの?だから金塊に興味がないわけ?」
「梅鉢の家紋か…小樽では噂になっていたそうだぞ。洋館のお嬢さんは加賀に連れ戻された、とな…尾形よりもこの子猫の出自が厄介だ。一体何を企んでいる?」
「私は、自由が欲しいだけです」
紛れもない真実だ。
私は母と同様に自由に恋焦がれ、それを求めてここまで来た。それでもこの木箱を手放せなかったのはどうしてだろうか。それは自由を半ば諦めていたからだろうか。この木箱を伯父に渡されたその日から自由は私になかったのかもしれない。
「私は自分の意志で行動したい。だけどあの家ではそれは許されない。生きたまま感情が死んでいく…笑って伯父のいいように動くことでしか価値がないのなら、人形がやればいいっ!私は人として生きていきたい」
私の悲痛の叫びは一体誰に届いたのだろうか。