聞こえていますか






 尾形様に寄りかかったまま、私は静かに自身の生い立ちについて語った。自分の伯父はそうろう侯爵の陸軍上級将校である事、伯父の追っ手に追われた際に尾形様と契約を結んだ事。

「それからは皆さんが知るとおりです」
「雪子ちゃん、この木箱は何の意味があるんだ?」
「あの家が血族と認めた女には、家紋入りの木箱を渡されます。身分証と言えば聞こえがいいですが、単純に“利用する価値がある人間”だと言う意味です」

 そうろう侯爵である伯父からすると姪の私は都合のいい手駒だ。都合のいい時は好きなように扱い、悪くなれば簡単に切り捨てる事が出来る。
 その事に気が付いた時から更に自由を求めるようになった。
 だけど、自由を欲しがる癖に私はあまりにも無力だ。女は家にこもり家を守るのが仕事だと、そう教えられ学校でも女としての嗜みを学んできた。私が学ぶべきはこの世の生き方だったのに。

「雪子黙ってろ。此奴はコタンに戻す。土方のジジィの用も済んだだろ」

 私は土方さんに背を向かていたので、彼がどんな表情をしていたのか分からないが、尾形様は舌打ちをし、胸糞悪ぃ。と低い声で言った。
 私を抱え込んだ尾形様はトンネルの中に潜り、仮小屋の方に行くよう促す。それに従いトンネルを通って仮小屋に出る。昼間は鮭漁で鮭の切り身をぶら下げているようだが、今は一匹も残っておらず、夜という事もあり誰もいなくて胸を撫で下ろす。知らない間に頬に雫が伝っていた事に今気がついた。

「雪子」
「尾形様…ありがとうございます」

 囲炉裏の火がゆらりと揺れている。
 トンネルから仮小屋に上がってきた尾形様に向かって、不自然にならないよう顔を俯かせながらお礼を言うも、私が泣いている事に気が付いていたのか、尾形様の手が私の頬に伸びて親指が目元を拭う。目元だったからか普段の力強さが感じられず、逆に労わるような触れ方にまた涙が溢れる。

「優しくされると…辛いです」
「酷い扱いをされたがるとは、とんだ変態だな」

 頬に当てられた手が後ろに回り、ゆっくりと引き寄せられる。トンネルの中を通ってきた所為で尾形様の外套は土の匂いがするが、その中に僅かながら白檀の匂いを感じる。
 ただ、片腕で抱き締められているだけで、心がこんなにも尾形様に向かっていく。

「おら、泣けよ。か弱い侯爵のご令嬢殿」
「ふ…っ、ぁ…」

 もう自分で自分の感情を制御出来るところにいなかった。何が悲しくて泣いているのかも分からない。胸を僅かながらでも晒された事なのか、伯父の存在がバレたからなのか、自分は人形と同じ価値しかないと自覚してしまったからなのか、こうして尾形様に優しくしてもらっているからなのか。
 ただ、胸の奥が強く軋み苦しくてとめどなく涙を流した。

「…ありがとう、ございます」

 最後の雫を自分の指で拭い、顔を上げて尾形様にお礼を言った。すると顔に影がかかり唇が暖かくて柔らかいものに触れた。至近距離で真っ暗闇の瞳と見つめ合い、頭の後ろに大きな手が回り視界がぐらりと傾く。腰から背中、最後は頭がゆっくりと床に触れ合い、体が尾形様と重なり熱を生む。一度重なった唇は少しだけ距離を空けている。

「尾形様…なんっ…ん、」
「黙ってろ」

 もう一度重なった唇はさっきよりもしっかりと重なっている。啄むように重なるそれは数回口を吸いゆっくりと離れていく。重なっていた身体に距離が出来、尾形様の大きく硬い手が私の頬を撫でて人差し指が首筋をなぞり、僅かに乱れた袷に指をかける。尾形様によって乱された袷から肌が見えている。
 正面にあった彼の顔が下にずれて、露になった肌に唇が落とされる。

「擽っ、たい…」

 そう言っても尾形様は胸元に唇を落とすのを止めてくれない。それどころか強く吸い付いて微かな痛みを与えてくる。何度か僅かな痛みを受けると尾形様が私の上半身を起こしてくれた。露になった肌には赤い吸い跡が付いていて尾形様を見ると、彼は垂れた前髪を撫であげて私の肌に自分でつけた吸い跡を、温度のない目で見る。

「なんで…こんな…」
「数日で消えるから安心しろ」

 そうじゃない。そんな事を聞いているんじゃない。なんでこんな事をしたのかと聞きたいのだ。
 それをわかっているのに敢えて答えてくれない彼にやきもきする。

 尾形様はいつもそうだ。自分の中で物事を考えて自己完結させて周りを置いて先に進むところがある。こうなった尾形様は何を言っても答えてはくれない。
 これは私が諦めるしかないのだ。と早々に理由を聞くことを諦めた。

 乱れた袷を整えつつ、尾形様の肩口に額を置くと彼は私の頭に手を置き撫でてくれる。さっきの行動が尾形様なりの慰めだったのか、はたまた私に対する僅かな独占欲だったのかはわからないがそれでも嬉しかった。それこそ、さっきまでの気持ちが何処かに行ってしまう位には。

 我ながら現金な女だ。

「っきゃ…!」
「コタンに帰るぞ」

 尾形様が私を持ち上げて仮小屋から外に出た。服越しに触れる体温が混じり合って体温が上昇する。取り込む空気は火照った体には冷たく感じる。俵のように抱えられ網走川の対岸に行く為二つある船の一つに乗り尾形様の両手で櫂を持って対岸を目指して漕ぎ出す。その間、無言が続くのかと思っていたが意外にも尾形様は口を開いた。

「雪子、お前は監獄に近づくな」
「…ちゃんと生きて帰ってくれると約束するなら」
「あの言葉を反故にするつもりはねぇよ」

 監獄に行けるとは最初から思っていなかったから、それについて何か言うつもりもなかった。ただ尾形様が生きて戻って来てくれるならそれでいい。あの約束は私と尾形様を繋ぐ契約であり鎖であり重石であり、始まりだ。
 それを持ち出したと言う事はちゃんと生きてくれると、私の所に帰って来てくれるという事だろう。

「尾形様って花沢第七師団の息子さんって事は、花沢勇作さんはご存知ですか?」
「……俺を兄様と呼ぶ、空気の読めない愛されて育った義弟だが」
「成程…女将さんの紹介でお名前だけ拝見した事があります」
 
 それを伝えると、尾形様は私の顔を見て溜息を吐いた。そう言えば前に尾形様は女将さんが怪しいと言っていたっけ?なんて記憶を遡っていると、彼は気をつけろよ。と忠告してくれた。

「あの女将はお前の伯父と繋がっているぞ」
「……そうだったんですか」

 信じていたからこそ、裏切られたという感覚があるが、落ち込む程ではない。それは尾形様と一緒にいれるからだろう。この人といれば大丈夫。私は何があっても乗り越えていける。

 そして新月の夜、のっぺらぼうに接触する日がやって来た。網走監獄潜入組と待機組に分かれ、アイヌの集落で皆の、尾形様の帰りを待って暫く経った頃、インカラマッさんが家から出て行った。何をしに行ったのかと私も後を着いて行くと、網走川に架かっている橋に向かって歩いている所で、咄嗟にインカラマッさんの名前を叫んだ。

「何処に行くんですか?」
「…谷垣ニシパから小樽へ偽名の電報が届くと、私は彼らに教えていました」
「彼らって…」

 インカラマッさんは私の手を掴んで監獄の方に走りだす。走っている最中橋の遥か向こうから幾つかの光が見えた。インカラマッさんは私の手を掴んだまま網走監獄の塀を平行するように仮小屋を目指して走りっている。その間にも鐘の音が鳴り響いている。潜入組の誰かが見つかってしまったんだ。とすぐに察しがつき、塀を見るも中が見えるわけがなくて不安だけが募る。
 インカラマッさんが谷垣さんと夏太郎さんを見つけ、谷垣さんに逃げようと説得している時予想外な事が起こった。

「橋が…爆発した!」

 なんでこんな事に…。と回らない頭で考えるも答えなんて出てこない。

「杉元さんたちは失敗しました。こうなった今、のっぺらぼうとアシリパちゃんを無事にここから連れ出せるのは、鶴見中尉だけです」
「でもそしたら、アイヌの金塊は第七師団に渡る。お前はそれでいいのか?」
「金塊なんて誰が手に入れようが、私にも谷垣ニシパにも関係のない話でしょう?」
「二人には関係なくとも、あの人には関係のある話です!」

 監獄の中にいる人たちはどうなってしまうだ。と詰め寄るもその声は轟く音に掻き消された。その音を響かせていた正体は駆逐艦で、谷垣さんが仮小屋の中のトンネルに入るように押し込む。トンネルに入って門倉さんの宿舎に向かっていると、耳を塞ぎたくなる程の爆音が強制的に耳入り、トンネル自体が揺れる。

 大砲を撃っているんだ…。

 門倉さんの宿舎に出て、夏太郎さんが宿舎から出るように私の背中を押し、勢いのまま外に出ると、繋がっている隣の宿舎は完全に大砲に当たり全壊してしまっている。
 谷垣さんがインカラマッさんがいない事に気が付き辺りを見ると、建物に挟まれていて何処から来た牛山さんが助けてくれた。流石牛山さんと感嘆の声を上げずにいられない。

 頼りない明かりしかなかった視界に強烈な光が射し刺さる。
 空を見上げると三つの光が空に上がっている。

「日露戦争でも使われた証明弾だ」

 照明弾はここまで地上を明るくさせるのか、と感心する程に辺りを照らす。
 牛山さんの案内で周りを警戒しながら、正門に向かっていると白石さんとアシリパちゃんの姿が見えた。そこにキロランケさんが合流してのっぺらぼうは教誨堂にいるとの事で、インカラマッさんが雪下ろし用の梯子に手をかけて上って行く。すると屋根の上からインカラマッさんがアシリパちゃんを呼んだ。
 夏太郎さんと牛山さんは土方さんの所に行ってしまったし、キロランケさんはアシリパちゃんと一緒に上って行ってしまった為、この場には谷垣さんと白石さんと私しかいない。

「本当にのっぺらぼうなんでしょうか?」
「それはあの子だけが知っている」

 のっぺらぼうがアシリパちゃんだったら、あの子は大丈夫なんだろうか?と心配してしまう。のっぺらぼうがアシリパちゃんのお父さんじゃなきゃいい。なんて他人事のように心配していると、一発の銃声が響く。続けざまにもう一発銃声が聞こえ、するとアシリパちゃんの杉元さんの名前を叫ぶ声が聞こえた。

 杉元さんが誰かに撃たれアシリパちゃんの気が動転し、キロランケさんが杉元さんの所に行かせまいと俵のように抱えている。それを見た谷垣さんが飛び出し、その間にも銃声が聞こえる。
 何となく、本当にただの直感なのだが、杉元さんを撃ったのは尾形様の気がする。気が付けば私は谷垣さんを追いかけるように走り出していた。

「雪子ちゃん!!」

 白石さんの私を止める声が聞こえるが、それを振り切って杉元さんの元に行くと谷垣さんが必死に倒れている杉元さんと、のっぺらぼうを正門の陰に隠れながら引っ張っている。

「谷垣さん!」

 声をかけるとほぼ同時に谷垣さんの腕が撃ち抜かれる。それを見て私の直感は確信に変わった。こんなに正確に撃ち抜く技術を持っているのは恐らく尾形様以外にいないはずだ。

「雪子来るな!」

 私は谷垣さんを撃ったであろう方角に向かって立ち、三人の盾になった。すると私の足元に一発の銃弾がのめり込む。谷垣さんの腕を撃ち抜く事が出来る程の腕を持っている人物なら、ただ立っている私を撃つことなんて簡単だろう。なのに足元に撃ったって事は私をこの場から退けたいからだ。

「谷垣さん早く二人を!!」

 踏ん張っている声が聞こえ、雪子こっちに来い!と呼ぶ声が聞こえた。もう建物の陰に入ったのだろう。私は見張り台にいるであろう尾形様に向かって叫んだ。

「私は!忘れませんから!!」

 だから、生きろと。
 なんでこんな行動を起こしたのかはわからない。だけれど私にとって大事なのは尾形様が生きていてくれる事だから。

 その後私達は正門に行き、お腹を刺されたインカラマッさんを発見し鶴見中尉に見つかった。

「谷垣源次郎一等卒」

 谷垣さんは目を見開いて鶴見中尉の名前を振るえる声で呼んだ。この人は敵なのかと判断し、鶴見中尉の正面に立った。真っ直ぐ見据え衿の袷の中から木箱を取り出し、鶴見中尉に家紋を見せる。これを自分が使う日が来るとは思いもしなかった。血だらけのこの軍隊は多分杉元さんたちを殺すのも厭わない。

「私の家に免じこの者達の手当てを早く」
「これは侯爵令嬢殿。それは侯爵家からの命令と受け取るべきですかな?」
「…受け取り方は任せます」

 そう言うと、血だらけの鶴見中尉は傷ついている杉元さんたちを運ぶように指示をした。
 私は鶴見中尉によって保護され、女将さんに渡した手紙で伯父に居場所が特定され加賀に連れて行かれることになった。

「杉元さん!お願いします!尾形様を殺さないでください」

 アシリパちゃんを取られて殺気立っている杉元さんに向かって何度も頭を下げる。
 彼は私の言葉に何の返事も返してくれない。それは殺さないと言う約束が出来ないからだろう。

「私の約束をあの人が守るその時まで!お願いいたします!」

 加賀に連れて行かれる最後の最後まで私は頭を下げ続けた。

 私達の終わりは突然で、掛けたい言葉も伝えたい想いも何もかもをを伝えられないまま、見えない壁が二人の間を隔てる。必死で手を伸ばしても、あの暖かい手が触れる事がない。涙を零しても拭ってくれる指も、抱きしめてくれる腕も体に感じた温もりも、私の名前を呼ぶ低い声ももう何もない。

「手紙を託そう」

 これからの私は、ただの人形に成り下がるだけだ。
 

- 18 -
(Top)