北の大地で繰り広げられた金塊の奪い合いが終息を迎えた、その数年後。男は北鎮部隊にいた。
第七師団として軍人として働き北海道を守護している。上等兵より階級が一個ばかり昇格したのだが、それはとある女の温情だと言う事は知っていた。男は言わば女を連れ去った身でありながら、女の必死の懇願により生かされていた。
これが出世払いって話じゃ洒落になんねぇぜ。
尾形は何の因果か雪子と出会った土地である、小樽で軍人としての務めを果していた。そんなある時かつて殺し合った顔に傷のある男と再会を果たした。
「尾形か」
「なんだ。俺を殺しに来たか?」
立ち寄った蕎麦屋で温かい蕎麦を啜っていた時のことである。杉元の隣には最後に会った時よりも幾らか成長したアシリパもいる。軽口ついでに尾形が垂れた前髪を、後ろに撫で付けながら挑発すると、杉元はそれを無視して尾形と向き合うように座る。
此奴も少しは成長したか。
昔ならば幾らかは反応を見せていたはずだが。と尾形は表情を映さないその瞳で杉元とアシリパを見据える。
「お前雪子ちゃんに会ったのか?」
「あ?あいつなら石川にいるだろ。俺は北海道から移動してねぇから会ってねぇぜ」
随分懐かしい名前が杉元の名前から出た。雪子こそが尾形の命を自身の伯父に懇願し、階級を上げるという出世払いを果たした女だ。網走監獄で別れてから一度も会ったことがなければ、北海道に来たという噂も聞いたことがない。
雪子からは手紙を杉元経由で渡された以来、何の音沙汰もない。それはお互いがお互いの居場所を特定出来なかった為か、はたまた二人の間を隔てる壁があまりにも高すぎたからだったのかは、今となっては分からない。
懐かしいと思えるまで雪子の存在は尾形の中で馴染み、浸透し、そして記憶の奥底に押し込め続けていた。
「雪子ちゃんの旦那さん…豪商なんだけど、ヘマしたらしい」
杉元の語る情報に尾形は何の反応を示さない。ただ蕎麦を啜る音だけが返ってくる。杉元はそれを話しを続けてもいいと判断し、雪子について語り出す。
「なんでも全国各地で詐欺をしていたみたいで、北海道に逃げて来たんだと。雪子ちゃんは必死で旦那さんを止めようとしてるんだけど…暴力を振るわれるみたいで…」
「あ?」
大概、杉元もアシリパに何かがあるとキレやすいが、尾形にもその節がある。その事を本人は兎も角周りの人間は薄々気がついていた。金塊を見つける旅をしている最中、滅多な事じゃないと雪子の側を離れない上に、尾形という箱に仕舞うように大事にされていた。
現に今、雪子が暴力を振るわれていると聞いただけで、蕎麦を食べていた手が止まり、杉元の事を冷たい目で見据えている。
「私達は数日前に雪子に会った。その時に尾形に渡して欲しいと手紙を預かったんだ…」
「雪子ちゃん、最後に会った時よりも痩せてて見ていて辛かったよ」
尾形はアシリパから四つ折りの白い紙を受け取り、すぐさま中を確認した。
拝啓 尾形百之助様
寒い冬が明け、漸く春の花たちの息吹を感じるようになりましたね。
突然のお手紙御容赦ください。尾形様にどうしてもお願いしたい事があって、杉元さんたちにお手紙を託しました。
杉元さんから聞いているかもしれませんが、私が嫁いだ先の主人が経営が傾くや否や、詐欺をしてお金を騙し取り始めたのです。私がそれに気が付くのがあまりにも遅すぎて、既に手の施しようがありません。噂では主人を殺す為にくりからもんもんを雇ったという声を聞きます。
恐らく私は主人と共に殺されてしまうでしょう。だからその前に、約束を貴方に守って頂きたいのです。
もう、尾形様の中では忘れてしまった女であるとは承知の上です。それでも私は貴方がいい。どうせ忘れた女の一人や二人、殺すのに何の抵抗もないでしょう。
これで尾形様は本当の自由を手にする事が出来ます。次の満月の夜、あの丘の洋館にてお待ちしております。 雪子
次の満月。それはまさに今日の夜だ。尾形は手紙を読み終えると、また四つ折りにして弾薬帯の中に仕舞った。そして尾形は立ち上がり二人に何も言わずに蕎麦屋を後にした。後からは二人の声が聞こえてくるが、一切合切それに反応せずに歩いて遠ざかっていく。男の表情は、昔好いた女の仇を打つ決意のような表情でもなければ、知った所ではないと涼しい顔をしているわけでもなかった。ただそこには明確な殺意だけが映されていた。
北海道は冬と春の中頃まで間は太陽が日を差している時間よりも、月が昇っている時間の方が長い。
雪子が何度も尾形を縋って強く握っていた外套を頭からすっぽり被る。
正直雪子の声も顔も覚えていない。それ程残酷にも月日は流れ二人の間を裂いて行った。それでも一度胸の内に咲かせた情だけは、意図も簡単に蘇る。枯らしたはずの、信じられないと言った情が、何も持たない雪子の手紙一つで湧き出てくる。
雪子の主人は詐欺を働いて手に入れた金を遊郭に注ぎ込んでいると、情報を手に入れた尾形は、軍服と顔を外套ですっぽりと覆い隠したまま、花園にあるとある妓楼に足を踏み入れた。
尾形のただならぬ雰囲気に圧倒された、楼主はつい口を滑らせ雪子の主人の部屋を教える。尾形は楼主に人払いを頼むと、楼主は顔を青くさせたまま何度も頭を下げ、命だけは勘弁したくだせぇと命乞いをし始めた。
「安心しろ。殺すのは一人だけだ」
楼主にデマカセを言い、雪子の主人が寝静まった頃に部屋に侵入した。それ迄は隣の部屋で待機していて、遊女に寝たら呼びに来いと頼んでおいたお陰で、寝静まってから直ぐに行動に移すことが出来た。
雪子は自分の夫が遊郭に行っている事を知っているのか?いや、知っていなくとも問題はねぇ。どうせ此奴は俺が殺す。
そこからというものの、尾形の動きは素早く的確だった。男の口に布を当て、頭の後ろで解けないように確り結び、腕も足も暴れられない様に布で縛り、雁字搦めにした。酒を浴びるように飲んだのだろう。雪子の主人はなかなか起きなかった。
「おい、起きろ。クズ野郎」
「ん、もう時間かい…?」
「ハッいい気なもんだなァ?雪子はお前の為に死にそうになってるってのに」
布で塞がれているとはいえ、音としては小さくも聞こえる。尾形は芋虫のように雁字搦めにされている雪子の主人に近寄り、しゃがんで寝そべる主人を見下ろす。
「雪子って…どうして君が妻の事を……、それに何だこれは?!外してくれ!」
「お前みたいな奴が雪子を……楽して死ねるとは思うじゃねぇぜ」
尾形は座布団を男の顔に押し付けながら、銃剣で何度も何度も身体を刺す。激痛が男を襲うが、雁字搦めにされた体では抵抗も出来ないうえに、叫び声が全て座布団に吸収され誰にも届かない。
尾形は戦争経験で知っていた。人間の急所はどこなのか、何処を刺せば人が死ぬのかを。敢えて急所を外せば人間は簡単には死なない事を。
男からしてみれば地獄よりも地獄の時間は長く感じただろう。遂にピクリとも動かなくなった男を見て、尾形は漸く刺すのをやめた。雪子がよく掴んでいた外套には返り血が飛び散っている。
「雪子は、アイツはお前にも俺にも勿体ねぇぜ」
北海道の夜は長い。今日は満月の夜だ。
尾形は二階の窓から外に飛び出した。春の花が咲き始めたとはいえ、除雪で積み上げた雪は未だに残っている。尾形はその雪めがけて飛び降りて、見事に雪が尾形を包み込むように受け止めた。
花園から雪子家はそう近くはない。小樽は海と山に囲まれた地形で、雪子の洋館に行くには山の中を通った方が早い上に誰にも見つからないと判断して、山の方を目掛けて走った。
満月の夜ともなれば、山の中も昼間のように明るい。歩兵銃を肩から下げ、尾形は雪子の元に目掛けて走った。
雪子が待っているからなのか、尾形自身が会いたいと思ったからなのかは、分からない。ただ、あの洋館に早く着けば着くほど雪子の寿命は縮まるばかりだ。
それをわかってもなお、尾形は走った。一心不乱に雪子がいる洋館に向かって走った。
丘の上に立つ洋館に着く頃には、月は真上に昇っていた。
尾形は玄関の前に立ち、ドアノブに手をかけて回した。鍵がかかっていない玄関の扉は少し前に押すだけで、いとも簡単に開く。肩で息をしながら玄関に足を踏み入れ、土足のまま雪子を探す。この洋館は女が一人住むには広すぎる。それに尾形自身この家に足を踏み入れたのは、雪子と共に小樽を旅だった時以来で、どこに何があるかは朧気にしか覚えていない。
見覚えのある扉を開けると、閑散とした空間が広がっていた。
確かここには雪子の両親の遺品があったはずだが…。
朧気な記憶を引っ張り出して、今の光景と照らし合わせても、どうにもものが少なくなったように感じたが、尾形はそれよりもと、雪子を探した。
家の山側から海側に向かって探している最中、不意に浜唄が耳に入った。その曲は雪子がニシン漁の時にやん衆が歌う歌だと尾形に教えた歌だった。
「鰊来たかとかもめに問えば、私しゃ発つ鳥波に訊けちょい」
近づけば近づくほど雪子の歌声が鮮明に聞こえる。遂に尾形は雪子の姿を捉えた。雪子は海の見える大きな窓の前に立ち、月が照らす海を見ている。
満月の月明かりは雪子の姿を照らしている。あの時は地味な色の袴を着ていたが、今の雪子は鮮やかな色の華やかな着物を身に纏わせている。最後に網走であったあの時よりも痩せ細り今にも消えていきそうな姿の雪子を誰が想像出来ただろうか。
「雪子」
数年ぶりに会う雪子に向かって、名前を呼んだ。存外その名前は口に馴染み続けているようで、つっかえる事なく雪子の名前を呼べた。
「っ!尾形様!」
雪子は自身の名前を呼ぶ声に反応して、弾かれるように振り返り尾形をその目に映してゆっくりと笑った。その笑みは安心したような笑みで、旅の途中何度も尾形が目にした笑い方と同じだった。
「待ちくたびれてしまいました」
「…いきなり呼びつけておいてソレか。流石陸軍上級将校で、侯爵議員の令嬢殿だぜ」
「ごめんなさい。そんなつもりで言ったわけじゃ…」
尾形が軽口を叩くと、雪子は申し訳なさそうに眉を下げて謝ると、尾形が鼻で笑う。それを見て雪子は揶揄われたと気が付き、尾形様!と諌めるように声を上げた。
ここ数年間会いたくとも会えなかった人が、今目の前にいる。それだけで雪子の胸は満たされ、自然と口角が上がる。
「尾形様は私の事なんて忘れてしまっていたと思ってました…約束の事も、全て」
「忘れてたぜ?雪子が手紙を書かなきゃ思い出すこともなかったさ」
嘘だ。雪子を忘れようと記憶に蓋をし続けた。その努力は欠かさなかった。元々身分が釣り合わない自分達が繋がるわけがない。だから忘れようとした。
「それでも思い出してくれたんですね。尾形様、私ねお手紙に綴たように尾形様の事をお慕いしていたんです。でも時間が経つにつれ、次第に尾形様の声を、温もりを姿を忘れ始めてきたんです」
それが堪らなく嫌だった。と雪子は叫ぶように言った。そしてその感覚は尾形にも分かるものだった。人は人を忘れる時は少しずつ忘れていく。何かを忘れたのは分かるのに、それがどんなものだったかを思い出せないのは恐怖でしかない。
「でも、貴方との約束を忘れる事はなかったんです。それが私の生き甲斐になりました」
「…今だって守りきれねぇワケじゃねぇ、だろ」
そんなことは無いと尾形だって分かっていた。雪子が逃げた所で、詐欺に雪子が関与してないとは言ってもその単語が付いて回る。恐らく雪子の伯父も雪子を受け入れない。それは侯爵家の名に傷がつくからだ。そしてそれを雪子自身が望んでいない。
雪子は首を緩く横に振って、尾形に近づく、尾形はその場に縫い付けられたかのように動かないでいた。
正面に立った雪子は尾形の頬に手を伸ばし掌で触れる。すると尾形の鼻に白檀の香りが通り抜ける。
「私は死ぬなら愛した人の手で死にたい」
「…嫁いでも我儘は健在なもんだな」
「尾形様にだけですよ」
雪子は知らないのだ。尾形がどれだけ雪子を大切にしていたかを。雪子と言う存在にどれだけ惚れ込んでいたかを。
自分といても血の道しか待っていない。そう判断した尾形は網走監獄で雪子を突き放した。執念深いと自覚してる尾形が雪子の幸せの為に手放した。
愛を教えてくれた女をこの手で殺せと言う、その残酷さを雪子は何も知らないのだ。
「私を殺した後はこの家に火を放って下さい。両親の遺品は全て千代さんに託してますので、安心してください」
雪子は尾形の両頬を挟むように、柔らかく優しく両手で触れる。距離が埋まれば外套に付着した返り血が自分につくというのに、そんな事は気にしていない。
「それからもう一度だけ言わせてくださいね。私は尾形様の事を心の底からお慕いしておりました。私の名前を呼ぶその声も、私を映すその瞳も、暖かいそのぬくもりも…っ」
「もう黙ってろ」
「ん、…っ」
尾形はこれ以上は聞きたくないと、雪子の唇を自分の唇で塞ぐ。何度も角度を変え深く重なる唇。隙間なく触れ合う身体に喜びの涙を流したのはどっちだっただろうか。
雪子の息が切れる前に尾形が唇を離すと、雪子は幸せそうに笑った。この女の顔をずっと見ていきたいと願ったはずなのに、今日それを終わらせる。
「愛してます」
「あぁ、俺も愛してる」
雪子が数歩後ろに下がり、尾形は肩にかけていた歩兵銃を雪子に向かって構え銃弾を装填すると、甲高い金属音が静か過ぎる空間に広がる。
尾形は歩兵銃の標準を雪子の心臓に合わせる。
今まで何度もこの歩兵銃を人や獣に向かって撃ってきた。だが、今この瞬間は何よりも、どんなものよりも尾形の指に引き金が重く感じる。
じんわりと汗ばむ手で引き金を引いた。
銃声が響き、雪子の身体が後ろに倒れていく。
尾形は雪子を撃ったと同時に、歩兵銃を捨てて雪子を支えようと飛び出す。尾形の腕が倒れゆく雪子の身体を受け止め、抱き締めた。
「雪子、雪子…!」
何度雪子の名前を呼んでも、雪子は穏やかに笑ったまま体温をなくしていく。まるで冬に降る雪のようだ。それなのに胸から溢れる血は暖かい。
雪子との間に結んだ契約は果たされ、尾形は自由になった。雪子は自分との約束は鎖で重石で足枷だ、と感じていたからこそ尾形には自由になって欲しかった。
「雪子、これが自由だ…」
自由は孤独で苦しい。切なくて心臓が抉られるように痛む。
雪子が尾形との約束が生き甲斐であったように、尾形も雪子との約束が生き甲斐だった。
雪のように冷たい雪子の唇にもう一度口付けをして、尾形は雪子の遺体を持ち上げ、両親の遺品があった部屋に連れて行き横たわらせる。
そして、尾形は雪子に言われたように、洋館に火をつけた。パチパチと小さな火種が時間と共に大きく、燃え広がっていく。庭に植えていた蝦夷桜が時期を勘違いしていたのか、早めに花を咲かせている。薄い色素の花が燃え盛る炎に照らされ、鮮やかな程赤に染まっている。
尾形は屋敷全体に火が回った事を見届け、森に入っていった。
その後、男は時代の波に飲まれながらも生き続けた。雪子が“自分の寿命をあげるから強く生きて”と祈りを込めた、白色の匂い袋が汚れ黒色になっても生涯離す事はなかった。