必死で逃げている最中、走り続けた所為で喉が渇きそばを流れている川に両手を突っ込んだ。掌を窪ませるように柄杓を作る。それで水を掬って飲もうと口元に持って行くが、水が流れる水面が水飛沫をあげたと同時に銃声が響く。
「ひゃっ…!」
此処にいては危険だと、両手で掬った水をその場で落とすように捨て、木々を縫うように銃から逃げるように走る。
なんで、なんでこんな事になったんだっけ?
始まりは鈴川さんが私達から逃げた事だろう。鈴川さんが隙を見て逃げたために、皆が獲物を囲うようにじわじわと追い詰めた時、私が逃げ切れそうにないな。とぼやいたら、尾形様が逃げ切れるか試してみるか?と怪しげに笑ったのが運の尽きだったのかもしれない。
「え?いや…流石に…」
「確かに雪子は敵から逃げる知識がないからな」
「え?本当にやるの?」
アシリパちゃんがそれはいいと、尾形様の提案に肯定してそれに続くように、これから先何があるかわからないからという理由で、私は山に連れて行かれ、迫りくる皆から逃げる事になった。キロランケさんがいるアイヌの集落にあるお家が目的地で、そこまで自力で行かなくてはならない。私が小樽出身で山育ちだからと言っても初めての山を最短距離で動けるわけがない。始まった時から泣きそうになったが、さっきの銃声で更に泣きそうになる。
本当に撃ってくるし、もう居場所がバレたんだ…。
どうしよう…兎に角山を下りないと集落に辿りつかない。だけど、尾形様が先にいるかも知れない…。
八方塞がりでどうしたらいいのかがわからない…。
「分らないままだったらダメだよね…」
わからないと諦めるんじゃなくて、やってみて学んでいかないといつまでも、尾形様の足手纏いになってしまう。もし間違った行動をしたら後で皆が教えてくれる。もしこれが本当の敵だったら間違った行動をとった瞬間に殺されてしまうが、今は殺されない。だから、行動に移す。
集落を目指し、山を木を盾にしながら山から下りる。成るべく草やぶに身を隠して進んでいると、また銃声が聞こえた。尾形様は威嚇射撃をするような人じゃない。私の居場所が分かったって事だ。草やぶの中にいては危険だと飛び出して走って行くと、今度は一本の矢が目の前の木の幹に刺さる。後ろから矢が飛んで来たって事は、私は今アシリパちゃんに無防備な背中を見せている事になる。矢が刺さった木に回り込んで自分の背中をその幹に預ける。これでこの木がアシリパちゃんの持つ弓矢の盾になってくれる。
何人が私を狙っているのかがわからない。キロランケさんは参加していないとして、土方さんや永倉さん、家永さんに牛山さんと杉元さんがいる。尾形様とアシリパちゃんが参加している事が分ったけど二人とも遠距離の武器を持っているから離れていても安心が出来ない。
「はぁ…っ、はぁ…やっと見えた…」
木を縫うように山から下りると木々の間から集落が見え、ほっと息を吐き出す。キロランケさんがいるお家まであと少しだ。でも気は抜けない。もしかしたら何処かの家の陰に潜んでいるかもしれない。と家の陰に注意しながら笹で出来た壁に手を付けて、キロランケさんを目指す。すると不意に腕を掴まれ動けないようにと背中に手を回され固定される。動くたびに肩が痛むがそんな事よりも、この拘束を解くのが先だ。
叫ぼうにも口を手で塞がれて声が思うように出ない。
「ふ、…んんー!!」
「ごめんね雪子ちゃん、でもこれで雪子ちゃんの負け…っ」
私を拘束していたのは杉元さんで、彼は申し訳なさそうな顔をして何度か私に謝る。
捕まってしまった今、私の負けなんだろう。と体の力を抜くとまた銃声が集落に響く。それに気を取られた杉元さんの力強い拘束が解けて、私はその隙にと、弾き出されるようにキロランケさんを目指して走り出した。なんで尾形様が撃ったのかはわからないが、私からすると好都合でこれで目的地に行く事が出来る。
「キロランケさんっ!!」
「おぉ!無事に着いたか…ってオイ!後ろ!」
「え?…っきゃ!」
やっとキロランケさんの所に辿り着いたと思ったのに、最後の最後に後ろから拘束されてしまった。土と火薬の匂いは嗅ぎ慣れた匂いだ。いつもなら安心して傍にいれる人だけど、今は一番怖い人だ。
尾形様は私の腕を捻り背中に回され、固定したまま、自分の上半身を押し付けるように体重をかけた。
「残念だったな」
「…本当にあと少しだったのに」
聞きたい事はいくつかあるが、それをまず置いておき最後の最後に気を抜いてしまった事に項垂れていると、尾形様の人を馬鹿にしたような笑い声が耳元に聞こえた。腕の拘束が解けると、力の入っていない私の腕はだらりと下に垂れる。私の背中にかかっていた尾形様の体重もなくなり、体が軽くなった。
「尾形お前…」
「あ?なんだよ」
キロランケさんは酷く意外そうな顔をして、私を尾形様の顔を交互に見る。何かあったのかと、首を傾げるが尾形様がキロランケさんを睨んだ為に、キロランケさんは呆れたように笑った。二人の間では何かが通じているのかもしれないが、私にはわからなくて苦笑いしていると、笹で出来たこの家に杉元さんやアシリパちゃん達が帰って来た。
杉元さんが尾形様になんで撃ったんだ。と食ってかかるが尾形様はそれを全て無視して私の肩に手を置く。
「痛むか?」
「え?俺力入れすぎちゃった?!雪子ちゃんごめんね!」
「痛くないので大丈夫ですよ」
必死に謝る杉元さんに気にしないでというと、彼は安心したように息を吐く。尾形様の手は私の肩の形を確かめるように軽く掴み離れていった。
「俺の傍から離れるなよ」
「…頑張ります!」
そう言うと、尾形様は隠すことなく溜息を吐いて私を軽く睨む。真っ暗闇の瞳が私を憎らしく見ているが、睨まれているのに今は何故か怖くない。尾形様は私に怖い思いをさせないと知っているからだ。なんだか尾形様が可愛らしく見えて肩を震わせて笑っていると、照れたのか尾形様が私の顔をその大きな手で鷲掴んだ。
その日の夜、尾形様の隣で体を横たわらせていると、不意に温もりが近づいた。重たい瞼を閉じたままでいると頬に指が撫でる。擽ったいようなそれでいてまだ撫でていて欲しいような、そんな感覚に目を覚ます。
「ん、尾形様…?」
「寝てろ」
「尾形様も寝てくださいね」
指の腹で頬を撫でていたが、次第に掌で頬を覆うように撫で、人肌がまた眠気を誘う。
あの時尾形様は逃げ切れるか試してみるか?と言っていたが、きっと逃がすつもりは最初からなかったのだと思う。尾形様に聞いたわけじゃないから、はっきりとはわからないけれど、私に触れるこの手の優しさに、時折見せる穏やかな表情にそう思わずにはいられない。
ずっと、この人の傍にいたい。夜がもっと長くなればいいのに。
そしたらもっと、この人の温もりを感じられるのに。