丘の上に聳え建つ洋館は御殿と言われるに相応しいもので、一体俺の外套を掴んで震えている女はどんな金持ちなんだと、視線を彷徨わせる。この家に入ってから人の気配が全く感じられない。大方この女以外に誰も住んでいないんだろう。
……女は、雪子はこの家で一人で暮らしているのか。
俺は誰かに感情移入できる程、感情が豊かじゃないうえに、そもそも他人に興味がない。この女を助けたのもたまたま俺があの林の中にいたからで、この女が死のうが死なないでいようが興味がない。
まぁ、銃から逃げていたあの様子を見ている限りは、敵から逃げる為の知識が雀の涙程度にしかない、箱入り娘なんだろう。両親が死んだか、置いて行かれたか…恐らく前者だろうが、この家もその両親の遺産で働いている所を見ると、対して苦労しないで今迄生きてきたんだろう。
愛されて生きてきたんだろう。人を見る目が擦れていない。
俺を兄様と呼んでいた、正妻の弟と名乗る男を彷彿させる。
気まぐれで雪子の用心棒を引き受け、家を空ける為の準備と称し、出かけた先で俺を思わぬ情報を耳にした。否、この婆さんは態と俺に聞かせたんだろう。この世間知らずで苦労知らずの箱入り娘を俺という、男から守る為に。
「高貴なる方なのですから」
婆さんは確かにこう言った。そして雪子に畳みかけるように言葉を発する。大旦那様はこの事を知っているのですか?と。最初俺はこの言葉を聞いた時、この婆さんは向き合っている小娘の両親は既に他界している事を知らないのかと思ったが、雪子は首を横に振って答えた。
「伯父様は知りません…言うつもりもありません」
「大旦那様は雪子お嬢様の身を心配しておられますよ」
「だったら尚の事言えないわ」
大旦那様は、此奴の親戚の事か。雪子の前に座っている婆さんはその大旦那様とやらに雇われ、雪子の家に奉公していたが、何かがあって暇を出されたんだろう。その何かは恐らく両親の死だ。雪子は自分で働かないといけない程で奉公してくれる人間に支払える給金はなかった。だが、今回家を空けるからその間の留守を頼む。その為に家中から金をかき集めて話を持ち掛けたってところか。
雪子の伯父とは何者だ。小樽の豪商で出てくるのは、鰊業で栄えている青山だが、雪子は父親の親戚が鰊漁をやっていると言っていたが、この婆さんは青山の家のモンなのか。
「千代さん、席を外すわ」
「出て右手御座います」
雪子が用を足す為、席を立つと婆さんは雪子を通す事をせず、俺に直接話しかけ牽制してくる。その目は敵意で後ろめたさを隠しているように見える。
「お嬢様は…先の戦争で活躍された方の血筋に当たります」
外套を頭からすっぽり被せて、俯けばこの婆さんに顔を見られる事はない。脛まである外套は俺の服装をしっかり隠してくれる。だから婆さんは警戒しながらも脅すように情報を喋ってくれる。
「恩賜の軍刀を拝受された方の姪に当たります。努々お忘れなきように」
恩賜の軍刀を拝受されると言う事は軍の軍学校で、成績が優秀だったって事だ。雪子の伯父は軍の人間という事だ。今も軍人をしているとしたら、低く見積もっても鶴見中尉と同じ、普通に見積もれば鶴見中尉よりも上の人間。婆さんには悪いが、雪子の血縁者がそれだけの人間だと分かれば利用価値が幾らでも上がる。
俺を守る盾にする事が出来る。あいつは自分の価値をわかってないようだが、これからの地獄を生きやすくなるかもしれん。
「お待たせしました!千代さん取り敢えずは一年間お願いしますね」
「畏まりました」
「帰りましょうか」
雪子はいそいそとこの家を出る準備をしている。俺は何時でも出れる状態だったから、それを目を細めながら見ると、視線に気が付いた雪子は頬を染めて困ったように笑う。
しまった。見過ぎもよくないか。
年頃の女というのは扱いが面倒だな。だが、これは俺の盾だと思えばそんな面倒くささも少しは和らぐ。
この小娘は本当の意味で世間知らずのお嬢様だ。自分の伯父が軍の階級持ちだと知っていれば、一介の上等兵である俺を、伯父の名前を使って好きに使う事が出来るのに、そうしないのは自分の伯父がどんな人物か知らないから。だから出世払いなんてくだらない事を思いついたんだろう。
「お邪魔しました」
婆さんの家から出た後、俺は行と同じように距離を空けて歩こうとしたが、女は俺が距離を空けようとすると止まるし、気づかずに距離が空けば引き返して俺に近寄ってくる。犬かお前は。と言いたくなるが、今は女の好きにさせてやると、女の歩幅に合わせてゆっくりと歩くと、不意に雪子が小声で話しかけてきた。
「千代さんに何か言われましたか」
「何も」
「……千代さんの話は聞かなくて大丈夫ですから。私には関係ありません」
こいつは何もわかっていないガキだ。お前は関係ないと拒んでも世間は、俺はお前に利用価値を見出し使い切るまで使うつもりでいる。大事なのはお前の意思じゃない。それが分ってないから俺みたいな奴に利用される。
「私は私です」
いつまでそれを言っていられるんだろうか。大方今日此奴の身が狙われたのも雪子の伯父の差し金だろう。そして旅館の女将も一枚噛んでいるな。給金の事言え、唐突に改装を始める辺り雪子の行動範囲を狭めたんだろう。旅館と家の往復よりも家の中に閉じ込めてしまった方が、ずっと攫いやすい。狙撃の腕はないようだが、世間知らずの小娘一人相手だったら、それで十分だろう。
隣を歩く雪子は真っ直ぐ前を見つめていたが、俺を見上げて下手くそな作り笑いを見せる。
「もし、どうしても私を守れない時は、その時は尾形様が私を殺してくださいね」
そんな未来は来て欲しくないですけど。と付け加えながら下手くそに笑う雪子は俺の外套を掴んでいる。その手は僅かに震えている。この女は何もわかっていない。俺にそれを頼むとはどういう事なのか。
俺は幾らでも人を殺せる。それに罪悪感はない。多分母を殺したあの日だって罪悪感はなかった。あったのは母への気持ちと父への希望だけだ。殺鼠剤を混ぜて殺したあの日も、自刃に見せて殺したあの日もなんの感情も湧かなかった。俺は何かが欠けた人間だから、人並の感情は持ち合わせていない。雪子は自分を狙っていた人が殺されたと聞いた時、顔を青くさせていた…俺とは大違いだ。
何もかもが違う。此奴は人を殺す事に抵抗があって、この先もわかり合う事はない。
そんな女が俺に殺してくれと頼む。俺が罪悪感に塗れながら殺すとでも思ってそうだ。そんなわけがない。
「言われなくとも…殺してやるさ」
女はその言葉を聞くと、下手くそに笑ったまま、また前を向いて話題を変える。茨戸まで何で行くのかとか、何を持って行った方が良いかとか、そういうこれからの話をし始めた。それに一々答えるのは面倒で適当に相槌を打っていると、それが雪子にバレて、小言を言われる。
「ちゃんと話聞いてください」
「聞いてる」
「聞いてないでしょう…尾形様は嘘つきな軍人さんですね」
嘘つきな軍人か…強ち間違ってはいないな。なんて空を仰ぐ。小樽の春はまだ肌寒く吸う息は暖かい身体を冷やす。桜が咲いたとは言え、年によっては雪が降ることもある。雪子が羽織っている二重まわしは若い女にしては暗い色合いだ。恐らく母親の形見か何かだろう。
「そう言えば、私一文無しになりました」
「は?」
「これからどうしましょうか」
どうしようも糞もねぇだろ。
金がないなら何も買えない。当面は山で獣を狩って毛皮を剥がしてそれを売っていくしかないか。このお嬢様に毛皮を剥がす方法を教えないといけないが、これから先絶対に必要になる。毛皮を剥がした事なんてないだろうから、暫くは顔を青くさせるだろうが、俺には関係ない。
「…小刀は持ってるか?」
「母のものなら持ってます」
「それを持ち歩け」
「わかりました」
俺の言葉に素直に頷く雪子は、指を折りながら小言で持って行くものを確認している。俺に一々確認する事を諦めたらしい。その方が俺も楽だ。ガキの子守りは性にあわねぇんだ。
丘の上に建つ洋館についてすぐ、雪子は飯を作り始めた。手際良く食材を切る姿は中々様になっているように見え、俺は勝手場に立つ雪子の後ろ姿を見ていた。時折鼻歌が聞こえてきた。しかもそれは浜唄で海のものでも出てくんのかと思いきや、出てきたのは肉料理で、この女の感性を疑った。
食事をする部屋は、洋館には似合わない畳ばりの部屋で、雪子は部屋の真ん中に置かれた座卓に料理を並べていく。
一汁三菜。育ちの割に素朴な味付けの雪子の料理は、意外にもしっくりきた。
雪子は食事を済ませ、洗い物をして早々に母の形見を置いてある部屋に行き、俺はその後をつけた。十九時を過ぎている今は明かりがないと、部屋の中が暗く、手持ち行灯であたりを照らさねば、窓から月明かりが薄暗く差し込むだけだ。今の時代電気でランプを灯すことも出来るが、この家の大きさだと工事をするのにも一苦労なんだろう。と酷くどうでもいい事を考えている内に、目当ての部屋に着いたのか、雪子は持って来たマッチで燭台に火を灯す。
「この部屋に両親の形見を仕舞ってあるんです」
この洋館にしては狭い八畳程の広さの部屋には、扉を背にして正面には窓があり、一階故に裏の林の木の幹が見える。これが二階だったらもう少し空が見えそうなもんだが、残念な事に地面と太い幹しか見えず、更に残念な事に、その窓を隠すように鎧が鎮座している。
「もう少し何とかならんかったのか」
「鎧と刀一式は、母が持って来た物みたい何ですが、いざと言う時に売り飛ばす用だと言ってたので…」
これこら先、鎧なんて重たい物を背負って戦争に行く馬鹿は何処にもいない。これは価値がないものと決め付けて、適当に売り飛ばすには確かに丁度いい。
部屋の中を見渡すと、掛け軸やら、打ち掛けやらと随分な物が飾られている。この部屋にあるものを売り飛ばせば、それなりの値になるだろうが、この女はそういう事はしないんだろう。
箪笥の中から一本の小刀を取り出し、俺に見せる雪子は何処か、憂いている表情だ。
「この懐刀は母の家の女性に受け継がれるものだそうで」
まさか使う時が来るとは思ってなかったです。と気の抜けた笑い方をした。雪子から差し出された刀を手に取り、刀身を鞘から抜くと、刃こぼれや錆は無いようで、今すぐにでも使えるものだった。
「使えそうだな」
「よかったです」
小樽の春夜は肌寒く、火鉢がなければ凍える程だ。冬に比べれば日照時間は長くなったが、夏に比べれば依然として短く、心做しか空もまだ遠い。