恐怖と優しさのバランス



「可愛がってあげるぜ」

 汚らしく笑う男の手が私の首筋に触れた。それを見た友達が、触らないで!と叫ぶと、彼女の肩を掴んでいた男が、口を掌で塞いだ。

「やめて……んん!」
「デカい声出すな。萎えんだろ」
「んん!ふがっ!」

 私の首を締めるように掴み、空いているもう片方の手で私の口を塞いだ。身体を暴れさせ藻掻くと、今度は後ろから頭を殴られる。
 雲雀さん程ではないとはいえ、男の人の拳が振り上げられたら、涙が出るほどに痛い。でも、ここで抵抗しないと男達に良いようにされてしまう。

 そんなのは絶対に嫌!

 気持ちばかりが不安や焦燥や恐怖にかられ、頭は冷えているのに身体が震えて止まらない。泣きたくなんかないのに、涙が出て止まらない。

 怖い……!怖い、怖い!
 誰か……助けて……!!

 浴衣の中に侵入してきた男の手の感覚に、目を固く瞑った。全身に鳥肌立って気持ち悪い。

「ひば、……」

 頭の中に浮かんだのは、黒い学ランを肩から羽織り、風に靡かせながら颯爽と、圧倒的強さで己の武器を振り翳すその人だった。

「ねぇ。何してるの?」

 凛としたその声は、私を触る男の荒い息や嫌な音を立ててなる私の心臓の音よりも、クリアに私の耳に入った。
 姿なんて見なくても分かる。その声だけで誰が来たかなんてすぐに分かる。それくらいに、雲雀さんの声は私の耳に馴染んでいるのだ。

 涙でぼやける視界にはしっかりと雲雀さんが映っている。

 助かった……。

「何だっけぇ? ヒバリ、だっけか?」
「おめぇムカつくんだよ。ガキのくせしてよー」
「この人数なら俺達に叶わねぇだろ」

 男達の会話に気付かされた。
 私は雲雀さんのこと無敵の存在だと無意識に思っていたが、彼だって人の子だ。大の大人複数人と、高校生1人だったら確かに雲雀さんの方が不利だ。

「並盛の風紀を乱した罰を受けてもらうよ」
「調子乗るんじゃねェよ!!」

 男達は複数人で雲雀さんに殴りかかったが、ものの一瞬で呻き声を上げながら地面に倒れた。倒れた中の一人は友達を拘束していた男だったようで、拘束が解けた今、緊張の糸が切れたのか体の力が抜けその場に座り込んでいる。
 雲雀さんはというと、倒れ込んで動かない男の一人を蹴り、自分の歩く道を作ってこっちに向かって歩いてくる。
 それが恐怖で堪らないのだろう。私を拘束している男の腕は震えている。

「次は君だよ」
「こっちに来んじゃねぇ!! この女がどうなってもいいのか!」

 男は折りたたみナイフを所持していたらしく、私の頬に刃を添えた。少しでも動けば赤い線が出来て血が滴る事だろう。男は私を人質にして、雲雀さんを脅しているつもりなんだろう。

 だけど、私という存在は雲雀さんにとってなんの価値もない人間だ。

「その小動物がどうなろうと僕には関係ないよ。ただ君たちは並盛の風紀を乱した。罰を受けてもらうよ」
「来んじゃねぇ!!」
「……っ!」

 ピリッとした痛みが頬を刺激した。ナイフの刃が僅かに当たったのだろう。血こそはそこまで出ていないが、代わりと言わんばかりに恐怖心が、漏れ出てくる。目に溜めていた涙が遂に頬を伝った。

 雲雀さんはしっかりとした足取りで、私たちに近づいてくる。私を拘束している男は、その姿が怖いのだろう。雲雀さんが近付けば1歩足を後ろおいやる。

「来んじゃねぇ!!」
「その台詞は聞き飽きたな」

 歩幅で言うときっと三歩分あるかないか。雲雀さんの武器は超近接型のトンファーだ。雲雀さんが近付けば近付く程、男は後退する。埋まらない距離に焦燥ばかりが募る。
 早く助けて欲しい…!
 そんな気持ちだけが心の中にあった。

「……ぐぁっ!!」
「え……?」

 一瞬だった。私が見ていたのは雲雀さんが腕を振り上げ、空にトンファーを振り翳しただけ。それなのに、次の瞬間には私を盾にしていた男の呻き声と、硬い何かがぶつかった音だけが聞こえた。
 拘束されていた身体は解放され、気持ちの悪い男の温度はもう感じない。

「何ぼさっとしてるの」
「ひば、りさん……?」
「何君、目まで悪いの?」

 何があったのかが分からない。だが、唯一分かるは、私は雲雀さんに助けられ、危機を脱したということだ。
 その事を理解すれば、身体と心を支配していた恐怖が消え去り、強ばっていた身体から急激に力が抜ける。
 浴衣が乱れたまま地面にへたり込む私を見かねた雲雀さんは、私を見下ろし冷たい視線を送っている。

「君ね……」
「委員長! こちらでしたか!」

 草壁さんの声が聞こえた。彼はきっと雲雀さんを探していたのだろう、私の視界に入った時には、軽く息を上げていた。
 草壁さんは私たちの状況に気が付くと、顔を驚かせたあと、すぐに真剣な表情になり、委員長……。と低い声で雲雀さんに指示を仰ぐ。

「適当に始末しておいて」
「分かりました」

 始末とはどういったものなのか。それを聞く気力も体力も、関係性も私にはなかった。

 安心感から涙が流れていたが、それも落ち着き乱れた浴衣を整える余裕は出来た。

「雲雀さん……ありがとう、ございます」
「ふん」

 用は済んだとばかりに雲雀さんは学ランを靡かせながら、お祭りの会場の方に足を向け歩いていった。

 その後数人の風紀委員の人たちと、騒ぎを聞き付けたツナくん達がやってきて、私たちを家まで送ってくれた。気心知れた中の方がいいと、皆が気を利かせてくれた結果だ。

 翌日、私は書類整理の為に学校に向かう為、制服に身を包み鏡の前で身嗜みのチェックをしていると、ナイフで掠った頬の傷に気が付いた。薄皮一枚で繋がっているようなもので、血がギリギリ出ていないようなものだ。この何もせずに放っておいても大丈夫だろう、と判断し、そのまま学校に向かい、いつもの様に応接室の前に立ち、数回扉にノックした。

「入っておいで」
「失礼します」

 雲雀さんの声が中から聞こえて、扉を開けると、雲雀さんはソファに座って寛いでいた。数ヶ月ここを出入りしているが、仕事をしてない雲雀さんを見るのは初めてだ。
 スラリと長い足が組まれ、男の人らしく片腕が背もたれに回されている。

 こんな寛ぎ方をする人なんだ……。

「おはようございます。昨日はありがとうございました」
「僕は並盛の風紀を正しただけだよ」
「それでも、助かりましたから」

 頭を下げてお礼を言うと、雲雀さんはフンと鼻で笑い、人差し指を軽く立てて小鳥が乗りやすいようにした。
 すると、雲雀さんの人差し指にあの時の黄色の小鳥が止まり、ヒバリ、ヒバリ。と甲高い声で鳴いた。

 そういえばこの小鳥の名前は何なのだろうか。今度ツナくんに聞いてみようか。なんて、呑気に雲雀さんと小鳥が戯れている様子を黙って見ていると、雲雀さんが私の方に視線を向けた。

「何見てるの」
「……いえ、なんというか……穏やかだなと」
「君の頬は穏やかじゃないみたいだけどね」

 なんの事だと首を傾げると、雲雀さんは心底呆れたような表情で私の顔を見ながら、軽い溜息を吐いた。

「怪我」
「……?あぁ、お祭りの」

 腫れてたか? と頬を触ると普段はない肌触りで、心做しか皮がめくれている気がする。今朝見ても何もなかったと思っていたが、人から見ると注目が集まるのかもしれない。何か絆創膏等貼った方が良いのも。と考えるも、私のポーチの中には普通サイズの絆創膏しかなくて、この傷の具合はそれよりも少しばかり大きい。

「救急箱、あるから使いなよ」
「ありがとうございます」

 そっぽ向いて黄色の小鳥を見ている雲雀さんに、お礼を言った。
 私は彼を絶対恐怖政治の支配者。天上天下唯我独尊の人間だと思っていたが、そんなことはないかもしれない。と思い始めた。

 この見積は甘いのかもしれないが、今はそれで問題ない。