星の流れを知る
暴君王は唯一の友を失った。「緑の人」とウルクの民から慕われていた粘土で出来た人形は、大地に還っていった。
王は悲しんだ。悲しみ、悲しみ、何度も何度も涙を流した。ユーフラテス川の水位が増したと誰かが言うのであれば、それはギルガメッシュがユーフラテス川の畔で涙を流したからだ。
ウルクに戻ったギルガメッシュの心は今もエルキドゥが壊れた日のまま動いてはいない。
ギルガメッシュは己で己の時間を止めてしまったのだ。心臓がいくら鼓動し、血液がどれだけ身体を循環しようと、ギルガメッシュの時間を進めることは出来ない。
心があの時間で止まってしまったのだから。
シドゥリの目から見て暴君であるギルガメッシュは何かが変わった。
平たく言えば、去勢手術を受けた狂犬のような、不意に雲の上に意識を向けているような。心ここに在らずの王にシドゥリは内心同情した。シドゥリもエルキドゥと交流があったのだから。
王とは名ばかりの暴君に成り下がったギルガメッシュ。人とも神とも違う孤立した存在に、エルキドゥは常に寄り添ってくれた。ギルガメッシュに本来の自由を教えてくれた。心無き心優しい青年だった。
そんな唯一を失った王の心情は如何ほどなのだろうか。
今こうして玉座に座って政務を尽くしている王は今、どんな気持ちで……。
粘土板を片手にバビロン北部の水害情報を聞いているギルガメッシュの横顔を眺めるシドゥリの視界に、ふよふよと浮いている幼子が一人。目的地が定まっているのか、ゆったりとした動きではあるが、迷いはない。
アンナの目線の先には政務に励んでいるギルガメッシュがいる。流石に仕事の邪魔をさせるわけにはいかないと、シドゥリは小声でアンナの名前を呼んだ。
「アンナ様、アンナ様」
ギルガメッシュの政務の邪魔をしない程度の小声で、何度かアンナの名前を繰り返すシドゥリに反応したのは、アンナではなくギルガメッシュだった。
「シドゥリ。好きにさせておけ」
「は、はぁ……ですが……」
「我が良いと言っているのだ。こやつの好きにさせておけ」
一体ギルガメッシュの中で何が起こったのか。と首を傾げるシドゥリはギルガメッシュに言われた通り、アンナを呼ぶことを止め、アンナの動向を見守っていると、アンナはギルガメッシュが座る玉座の少し手前で動きを止めた。
いつもであれば真っ直ぐ王のもとへ行くというのに。とシドゥリがアンナを見つめていると、アンナはジグラットの天井を指さした。
「うぁーあ」
「アンナ様――」
「シドゥリ、離れていろ」
ぐずりだしたアンナに駆け寄ろうと、足を一歩前に踏み出したシドゥリの動きを制したのは、玉座に座っているギルガメッシュだった。シドゥリが咄嗟に王を見るも、王はジグラットの天井を見つめて「フッ」と軽く息を吐き出すように笑った。
その笑みをシドゥリは何度も見たことがある。
ギルガメッシュにとって価値があると思った時に出る笑みだった。
シドゥリが言われた通りアンナに駆け寄るのを止め、側仕えとして立っている定位置から三歩後に下がった瞬間。ジグラットの天井が破壊された。
煉瓦で出来ているジグラットは砂埃を上げ、ジグラット中に轟音を響かせた。
砂埃に巻き込まれないようシドゥリが両手を顔の前に持っていくと、女の声が吹き抜けになった天井の上から聞こえてくる。
「ギルガメッシュ! 貴方、この私を振るなんていい度胸しているじゃない!!」
「ほう?」
「ちょっと人の話を聞いてんの?!」
「戯け!! 彼奴を殺した遠縁の原因と婚姻を結ぶはずもなかろう!」
「はぁ? エルキドゥが死ぬことと私と結婚しないこと、なんの関係が……って、あなた……」
宙に浮かぶマアンナは神の船。女が腰を掛けているのは船首部分を取り外したものでが、性能も良く、女――イシュタルはマアンナでよくこのジグラットを破壊しギルガメッシュに求婚してくる。
本日もイシュタルはギルガメッシュに振られた賠償責任及び、幾度目となる求婚をしにやって来たのだったが、砂埃の中に浮かぶ小さな影を見つけて動きを止めた。
「お父様の新しい子よね? 私たちとは違うようだけど」
「あ〜う!」
「ちょっと子供の真似をするのはやめなさいよ。あんたも神なら人の言葉くらい話して見せなさい」
幼子に向かって何を言っているのだ。と口にするものは誰もいなかった。
そう。アンナは今は幼子とはいえ神は神。都市神であるイシュタルが話せるというのであれば、話せるのかもしれない。と思ったからだ。
「そこな赤子は人の言葉が話せると? そう言いたいのか。イシュタルよ」
「当たり前よ。だってこの子は父様の子であるのなら、間違いなく神の一人よ。神は人知を超えた存在であって、人の枠に入れてはいけない存在。そんなこと、アンタなら言われなくてもわかっているでしょうが」
ギルガメッシュも人の枠に入れてはいけない存在だから。その意味合いを込めてギルガメッシュを見下ろすイシュタルは再び視線をアンナに向けた。
砂埃は消え去り、能面のような顔をしている幼子が宙に浮いていた。
「…………」
「……そう。意地でも子供のフリをするっていうことね。まぁいいんじゃない? 悪くはないわ。良くもないけど。今日はアンナに免じて帰るわ。シドゥリ。ギルガメッシュがアンナを虐めるようだったらすぐに言いなさい」
「……はい」
既に何度もアンナに向かって剣を放っているのだが、これは虐めに該当するのだろうか。と悩む暇もなくイシュタルがマアンナに乗って、吹き抜けの天井から空に向かって消えていった。
「相変わらず騒々しい女だな。あいつは。……時代は変わるのにも関わらず、職なしのアレは何も変わらないらしい」
「ギルガメッシュ王……」
「しかし収穫もあったな。ふむ、なるほど」
イシュタルの襲撃があっても座り続けていた玉座から立ち上がったギルガメッシュは、宙に浮いているアンナに近付き首根っこを摘まんで眼前まで持ち上げた。
商品を品定めするような目で、アンナを見ている。正確にはアンナの能力を見ているのだ。このまだ小さい神の役割と能力を。
ギルガメッシュは考えた。アンナという神の役割を。神代において神は新たに生まれはしない。神が人を創り、神が作った箱庭という名の国の中で人が生活を営み、神はそれを鑑賞する。時に試練を与え、時に褒美を与え、常に神に救いを求め称えるように。そのシステムを作っているのだから。
では、この女の役割とは、このウルクにどんな新しいシステムが組み込まれたのか。と。
「うーぁ! ぎーる」
「未知だな。……だが、星読みの能力はあるらしい」
「と、言うと?」
「コイツはイシュタルがこのジグラットに来る直前、天井を指さしていた」
「あっ――!」
けらけらと笑い、短い手足を動かし何とかギルガメッシュに触れようとするアンナ。どうしてこうも自分を殺そうとしてくる男に対し、こんなにも懐くことが出来るのか。とシドゥリは内心首を傾げながらもギルガメッシュの観察眼と冷静さに感服していた。
「流石王! 如何なる時も冷静でいらっしゃる」
「王として当たり前なことだ。この程度のことで一々褒めるな」
「ぎー、る、がっ」
いつもなら首根っこを掴んだあと、シドゥリに向かってアンナを放り投げるギルガメッシュだったが、何かを考えたのか、気紛れなのか、アンナを小脇に抱えて歩き出した。
「王、どちらに?」
「少し出る。皆には好きにしろと伝えておけ」
「はい?」
一体どういうことだ。と眉間に皺を作るシドゥリ。
まさかこのあと何十年も王が戻ることなく時間が過ぎ、人は流れ、神は人々の前から姿を消し、バビロンが廃都となり、シドゥリ一人がバビロンで王の帰還を待つことになるとは、この時のシドゥリは知らない。