通りゃんせ


 さて、魔法薬学で作成した栄養剤。これを使って試してみたい事がボクにはあった。
 アンの本体である白薔薇に栄養剤をかければどうなるのだろうか。勿論人体に影響はない……筈だ。
 不確定要素が強く、正直どうなるかなんて想像もつかない。

 アンがボクの魔力を吸収し、行動範囲が広くなった事は知っている。姿が大きくなった理由も、確証はないが、魔力を受け入れる器を物理的に大きくして、更に魔力を受け入れられるように進化したか、元の大きさに戻ったかのどちらかだろう、とは思っている。
 だからこそこの栄養剤を与えてみたいのだが、一時の好奇心を満たす為に、他人を実験道具として扱うのは非人道的過ぎるか……。と、ハーツラビュル寮の一角にある自室の机の上で、ボクは液体が入っている小瓶を揺らした。
 あの時間を自分の手で潰すような事はしたくはない。と小瓶を机の引き出しの中に仕舞って、積み上がっている魔導書に手を伸ばす。

「そう言えば、どうして彼女は……」

 自分の事を知らないのだろうか。魔力の有無も、身体の大きさが変わる事、他の妖精の事だってあの様子じゃ知りもしないのだろう。
 学園に来る前はどこにいたのだろうか? 今度会った時にでも聞いてみるか。

 その為に何か、お菓子を作っておくべきか。
 クッキーばかりだと味気ないから、今度はマカロンに挑戦してみよう。トレイに聞いてレシピ通りに作れば、失敗なく出来るはずなのだから、作った事がなくても大丈夫だろう。

 魔導書の文字を追いながら、頭の中では違う事を考えている自分に気が付き、深い溜め息を吐くと同時に肩を落とした。ダメだ。最近アンの事を考えている時間が多くなったような気がする。勉強を疎かにするなんてボクらしくないし、他の寮生に示しが付かない。
 気持ちを切り替えねば。とボクは大きな窓から見える月を見上げた。

 キミはあの月を見ていないのだろうね。

 この時間はぐっすりと寝てしまっているに違いない。あの小さな箱庭しか知らないあの子は、今宵の月が赤く染まっている事を知らない。こんなにもおどろおどろしい月を見たら、きっと怖くて泣いてしまうかもしれない。だから、今宵の月は知らなくていい。そう思うと何故かアンの事を考えずに勉強に集中する事が出来た。

 月が太陽の光を反射しなくなり、太陽そのものが山から顔を出した。ボクはいつものような学園生活を送っていた。日中は学園に行き勉学に励み、放課後は部活や寮長会議に勤しみ、隙間時間を見つけては、トレイにマカロンの作り方を教わり試行錯誤を重ねていた。
 味は兎も角焼き上がりの色を調節するのに時間を食って、アンの所に持って行くのに時間がかかった。その間、アンとは何回か顔を合わせていたが、特に差し入れをしていなかったので、彼女の姿が幼子から変わる事はなかった。
 一度大きくなったその身体は、小さな身体には戻らないらしい。

 休日だったその日、ボクはバスケットの中にいつものポットと簡易コップ、それにマカロンを入れて薔薇の迷路に向かって歩き出した。迷路を抜けた先には灌木があり、真っ白の薔薇が咲いている。
 その灌木に凭れかかるように座り、遠くを見ているアンの横顔を視界に収めて、名前を呼ぶと、彼女は弾かれるようにボクの方を振り返り笑みを浮かべた。
 幼い姿をしているアンの身体には不釣り合いな羽根。小さな妖精の姿だといざ知らず、今の身体には少しばかり羽根が小さく蛇行しながら飛んでくる。それを両腕で抱きとめると、アンは顔を上げて口の端を思いっきり上げた。

「リドルくん! 今日も来てくれたのね」
「時間が出来たからね」
「嬉しいわ。今日はどんな話をしてくれるのかしら?」

 小首を傾げながらボクを見上げるアンを抱き締める腕を離して、アンが浮いている間にいつものようにハンカチを芝生の上に敷いてそこに腰を掛ければ、アンがボクの膝の上に座る。それを見届けてからバスケットの中からマカロンを取り出して、一つをアンに差し出すと、彼女は紅葉のような両手でマカロンを受け取り、これは何かと視線でボクに問いかけた。

「それはマカロンと言って、ロワールのお菓子だよ」
「見た目が可愛くて食べるのが勿体ないわ」
「キミに食べて欲しくて作ったんだから、遠慮せずに食べるといい」

 困惑する双眸の奥に期待を孕む輝きが見える。目の色を好奇心一色に変えたアンは小さな唇でマカロンを頬張った。すると、何時ぞやのクッキーのように、頬を上気させて目を爛々と輝かせた。どうやら彼女の口――基、身体に合ったようだ。と酷く冷静な頭で両腕を上下に振るアンを見下ろした。
 その後の展開はもう慣れたものだ。遠くまで飛べる気がするとアンが騒ぎ出す前に、両腕でアンを抱いて先に動きを封じた。背中に生えている小さな羽根を避けるように腕に抱けば、アンは大人しくボクの腕の中でマカロンを味わった。
 紅茶をいつものように球体にして浮かせば、アンは唇を紅茶の球体に寄せて、丸みのある首を小さく上下に動かした。

「そうだわ。魔法薬学……だったかしら? あれはどうなったの?」
「何処まで話しただろうか――あぁ、金の混合水が不完全だった事は話したね。あの後――」

 学園で起こった出来事や授業で習った事を話せば、アンはまるで物語を聞いている子供のように目を輝かせ、ボクの口から紡がれる言葉に耳を傾けた。何がそこまで面白いのだろうか。と正直、変わらない毎日を過ごしているボクにはわからない事が多いが、アンがこんなにも喜んでくれるのであれば、悪い気はしない。と変哲もない日常を語った。

 お茶会にしては長すぎるボクの一人語り。このまま話していると、アンの事を何も知れないと思ったボクは、膝の上に座っているアンの名前を呼んだ。

「なぁに?」

 アンの間延びした甘い声は、幼子にしては大人びている。この学園は男しかいない為に比較は出来ないが、同じ歳の女性と比較しても、まだ少し大人びているだろう。外見と中身が釣り合っていないのだ。

「キミはこの学園に来る前は何処にいたんだい?」
「赤薔薇さんがそんな事を聞くなんて珍しいわね」

 しまった。彼女の名前を呼ばないと変なあだ名で呼ばれる事をすっかり忘れていた。呼び方一つで機嫌を損ねるようなタイプでないにしろ、ボクが付けた名前が気に入っているアンは、この名前以外で呼ばれる事を、あまりよく思っていない。

「ボクはアンの事をあまり知らないと思ってね」
「ん〜、学園に来る前の事はよく覚えてないのよね。そもそも私学園で生まれたものだと……」
「は?」

 何を言っているんだ? とボクは思わず口を開けた。ボクが記憶している限り、アンがこのハーツラビュル寮に来たのはこの数か月の間だ。情けない話、ボクが二年になって間もない頃にオーバーブロットを起こした時にはいなかった。少なくともその後に植えられたものだ。
 アンは学園に来る前の記憶がないのか? だとしたら人為的に忘却させられたものなのか、アン自体が記憶を保持する事が出来ないのか……。

「ボクと出会った日の事は覚えているかい?」
「んーと、そう言えば、男の子がいたような? あれ、どうして私たちは出会ったんだっけ?」
「白薔薇を赤く染めた事に怒っていた事は?」
「あぁ! そうだったわね。私昔の事を思い出そうとすると、頭が痛くなっちゃうの。今はそんなに痛くないんだけどね」

 記憶を消されているのではない。アンは記憶を保持する事が出来ないのだ。少なくとも、数か月間の記憶しか保持する事が出来ない。だからその期間から外れてしまった学園に来る前の事を思い出せないのだ。

 朗らかに笑うアンを前に、ボクの頭の中は疑問符でいっぱいになった。
 話に聞く妖精とは、人間よりも長く行き、人間よりもずっと記憶力がある。
 妖精に詳しい魔法士はこうも言っている。

 ──「生きているものの中で、最も劣っている生物は人間である」と。

 人間に比べ妖精はずっと優秀な生き物だと言うのは、教科書を見ては理解し、三年生であるマレウス先輩を見て実感する。
 確かに彼は妖精の中でも規格外的な強さを誇っているが、それでも土俵が人間とは違うと思う瞬間がある。

 それと比べるまでもなく、アンはおかしい。
 尽く妖精の常識から外れていくアンを前に、ボクはただ疑問符を浮かべるしかなかった。
 





Bambi