新感覚感触
女性の姿になったアンはやはり元の姿に戻らないままだった。行動範囲も随分と広がったらしく、ハーツラビュル寮内の敷地ではどこにでも行けるらしい。らしい、というのは本人談なので、あまり当てにはしていない。案外ハーツラビュル寮の敷地は広いのだ。
そんなハーツラビュル寮は、三日後に行われるなんでもない日のパーティーの準備に追われている。佳境に入ったと言ってもいいだろう。当日の飾りつけ以外は、パーティーに間に合うように準備を進められていて、庭に咲いている薔薇は大半が赤に染まり始めている。
寮の人間がパーティーの準備を進める中、女王である寮長は格調高いヒールで四阿に向かっていた。
前回は用意していなかったが、今回はトレイに頼んで四阿にケーキセットを用意してもらっている。
四阿にアンを連れて行くと、丸いテーブルにケーキセットを置いているトレイの姿が見えた。眼鏡の奥の瞳がボクの姿を捉えた。その視線は横に逸れる事なく、ボクと目が合うと口の端を少し上げトレイは笑った。
「こんな奥まったところで息抜きか?」
「準備に勤しんでいる寮生の目の付く所で、寮長であるボクが休憩していては、示しがつかないからね」
「お前が頑張っている事は皆知っているさ」
トレイは笑みを浮かべたままテーブルの上にケーキセットを置いて行く。勿論一人分だ。彼の目にはボク一人しか映っていないのだから疑問に思う事はないだろうが、さっきまで薔薇を眺めていたアンは違う。用意される一人用のケーキセットを見て、ボクとケーキセットを交互に見て、次にトレイの顔を見て小首を傾げたが、自分の姿が見えていない事を良い事に、トレイの前で手を振ってみせたり、身体を浮かせて彼の顔を覗き込んだりしている。
そんな事をしてはトレイの邪魔になるだろうと、アンの腕を引きたいが、トレイからしてみればボクが宙に腕を何故か伸ばしているように見えるのは間違いない。疲れすぎたのか。と心配されてしまうのが関の山だ。
――アン。
と、彼女の名前を呼ぶ事が出来ればどれだけ楽だっただろうか。
結局ボクはアンを見続ける事でしか、アンを静止させる手段がなかった。半ば凄むようにアンに視線を向けると、彼女はボクの視線に気が付き、ついでに意味も察してくれたのか、トレイの側を離れてボクが立っている所まで、不釣り合いな羽根を動かしならがらやって来た。
「迷惑はかけてないわ」
「だとしてもだ」
トレイに聞こえないように小声でアンに怒ると、彼女は無言になった。生憎、トレイがいつこっちを見るのかわからない今、隣で浮いているアンの表情を確認する事は出来ないが、唇を尖らせているに違いない。
肩に何かが触れる感覚がした。次いで耳元に息がかかる。
「リドルくんの意地悪」
「はぁ?!」
「ん? どうかしたか?」
「いや、なんでもないよ」
思ってもみなかったアンの言葉に驚き、その衝撃のまま声を上げてしまい、その声に反応するようにトレイが顔を上げた。
咄嗟に首を緩く振って冷静な態度を取ると、トレイは何も言わずに紅茶の入ったポットをテーブルの中央に置いた。トレイがテーブルを見た瞬間、勢いよく顔を横に向けると、まるで悪戯が成功した子供のような笑みを浮かべているアンがいる。先程の行為を咎める視線を向けるも、アンには反省の色がまるでない。
アンの悪戯は、トレイがボクたちに背中を向けて帰って行くまで続いた。
「アン!」
「そんなに怒るような事ではないでしょう?」
「アンの存在がトレイに――! ……ボクがトレイに変な目で見られるだろう」
そうか。ボクは自分の事よりも、アンの存在を隠しておきたいと思うようになっていたんだ。
確かに、アンの事を知っているのは僕だけでいいと思っている。それは間違いない事だ。だが、トレイとはいえ、寮生に対して完璧な寮長でいるよりも、アンを優先するようになっているとは思ってもみなかった。
その変化に気が付けなかった。
言葉の途中で覇気をなくしたボクを見上げるアンの瞳は何処までも純粋だった。
穢れを知らない、この世の汚い事は何も知らない。と言葉にするよりもその双眸が言っている。白薔薇のように純粋無垢なその存在を染める事が出来れば、それはどれだけボクの心を躍らせてくれるのだろうか。
隣に浮いているアンの背中には赤く染められている白薔薇がある。不純物の入っていないその色は、鮮やかにも毒々しく、自分のようにも思えた。
「リドルくん……?」
アンに名前を呼ばれたボクは、無意識に隣に立つアンに向かって手を伸ばした。黒色の手袋がアンの頬に触れる寸前、小さな棘が生えている薔薇の葉に、衣服が引っ掛かりボクは動きを止めた。それと同時に深い所に沈んでいた何かが浮上する感覚が頭の奥で起こり、瞬きを何回か繰り返すと、アンと赤に染まった薔薇しか見えなかった瞳が、他の色も映した。
今日はこんなにも空が青かっただろうか。この四阿からパーティー会場の飾りつけは見えていただろうか。
酷く狭まっていた視野に、何をしているんだ。と己を叱咤していると、今度はアンがボクに向かって腕を伸ばし、柔らかな手がボクの頬に触れるか触れないかの距離で止まった。
「何かあったの?」
「なんでもないさ」
こんなに近くにアンの手があるのに、体温だけは感じる事が出来ない。それが悲しいと今は思う。
妖精だからなのか、アンだから感じる事が出来ないのかはわからないが、いつか、彼女の温度を知りたい。
ボクはボクの頬に伸びた手を包んだ。周りの生徒に比べれば小柄なボクでも掴めるくらいに、彼女の手は小さい。掴んだ手をするりと滑らせ、何時ぞやのように手を重ねエスコートをすると、アンはボクに連れられるまま羽根を動かす。
四阿には丸いテーブルがあり、そのテーブルを囲むように四つの椅子が設置されている。トレイが用意したケーキセットに一番近い椅子にアンを座らせ、その隣にボクも腰を掛けた。
「これはなに? リドルくんが作ったお菓子?」
アンの目の前には、イチゴのタルトが置いてある。勿論二切れ目だ。一切れ目はボクが味見ついでに食べてしまったからね。断面も綺麗なタルトに目を奪われているアンの前に置かれている。カトラリーの中からフォークを手に取り、タルトを一口大の大きさに切る。それを掬い上げてアンの口元に持って行けば、餌付けをされている雛鳥の如く口を開けてタルトを口に含んだ。
「これも美味しいわ! とっても甘い!」
「そう。よかった」
このタルトは確かに甘いが、イチゴの酸味も感じられる爽やかな甘さのものだ。それを“とっても甘い”と表現するアンはやはり、このタルト本来の味を認識出来ていないのだ。
それが今更どうしたんだって話ではあるが。
「それにしてもさっきの貴方は少し面白かったわ」
「あんな真似、二度としないように。もししたら……おわかりだね」
「約束はしないわ。私リドルくんの言うところの“ハーツラビュル寮生”じゃないもの」
何がおかしかったのか、アンは肩を揺らしながら笑い、椅子から身体を浮かしてボクの背後に回ると、後ろから腕を伸ばして緩くボクの首元を抱き締めた。
その行動に驚き一瞬固まるも、いいように遊ばれているだけだ。と冷静さを取り戻したボクは、アンの腕に手を当てて彼女の行動を咎めた。
「アン」
「いいじゃない。今は誰もいないわ。それに、今気が付いたのだけど、貴方に触れていると……落ち着くというか、懐かしくなるの」
「懐かしい?」
記憶の保持が出来ないアンに懐かしいものなんかあるのか? と純粋な疑問が浮かんだボクは身体を捻らせ、アンを見上げた。思ったよりも近い所にアンの顔があったが、今はそんな事よりも、アンの発言の方が気になった。
「なんだろう……こんな事もあったなって何となくだけど、思い出せそうな気がするの」
「一体どういう原理なんだ」
「さぁ? 私、妖精だけど、妖精の事に詳しくはないからわからないわ」
自分の事だというのに、最早開き直りと言ってもいい彼女の態度に頭を抱えたくなったが、あっけらんとしている彼女にボクがどうこう言ったって、彼女の性格、性質が変わるわけじゃない。
それこそアンが“ハーツラビュル寮生”であったなら、その性格だって変えさせたが、いつの間にか庭に植えられていただけの白薔薇の妖精に、そんな事を要求する道理がない。
深く溜息を吐くボクを他所に、アンはその顔を近付けピタリと頬同士を触れ合わせた。
元々バウンダリー――個人の境界線がない人間だと思っていたが、此処までとは。と猫のように頬をすり合わせてくるアンに、他の人間がいる前でしないように。と注意をするも、彼女はそれに対し返事をする事はなかった。
それは、新しい感覚に夢中で返事をし忘れていただけだと思っていたが、まさか、なんでもない日のパーティーで、大多数の生徒がいる前に現れるとは思いもしなかったし、その上、背後からボクを抱き締め頬にすり寄って来るとも思いもしなかった。
アンは返事をし忘れたのではない。しなかったのだ。とその時になってボクは事の真相を知る事になった。
なんでもない日のパーティーの後、薔薇の迷路の更に奥で、ボクの怒鳴り声が響いた事は語るまでもないだろう。