同じ月を見ている
アンが妖精ではないかもしれない。という可能性が浮上した。それも他でもない妖精族の末裔であるマレウス先輩口によって齎された。
だったら、だったらアンは……彼女は一体何者だというのだ。
確かに彼女は妖精の定義からかけ離れている節はある。妖精ではないと断言されれば、そうかも知れないと思ってしまう位にはかけ離れている。然し、アンは自分の存在を妖精だと思っている。
だが、マレウス先輩はこう言った。
――「話に聞く限り魔力を喰らえば成長し、忘れていく。まるで人の子のようだ」と。
確かにアンはボクの魔力を取り入れて成長するし、記憶力が心許ない。妖精は与えられた魔力で成長しないし、忘れる事もない。その点は妖精より人寄りの生態だが、アンは全く肌の温度を感じない。生き物としての暖かさを感じないのだ。まるで血が通っていないように。
来る日も来る日もボクがアンに会いに行くと、必ずボクに抱き着き頬を摺り寄せるようになった。
曰、懐かしさと感触がたまらない。との事だったが、正直気が気でない。所構わずべたべたと触ってくるアンに何度「止めないか」、「いい加減におしい」と言っても止める気配なんてまるでない。
今日もそうだ。自由に動けるようになったアンは、四阿が気に入っているのか、よく四阿で昼寝をしている。夜寝る時は白薔薇の近くで寝ているようだが、小さい姿の時と違い、薔薇の中で眠れない事を不満に思っているようで、たまに愚痴を漏らしている。
「リドルくん」
「ん? あぁ、またなのかい?」
「何度だって」
白薔薇の側に腰を落ち着かせていると、アンはボクの前に座り両腕を伸ばした。これは大人の姿になったアンがよくやる癖の一つだ。アンから伸びた腕に呼応するように腕を伸ばせば、アンは腰を上げてボクの首に腕を回す。腿の上に跨って頬を擦り付けてくるアンはいたく機嫌が良さそうで、口元を緩ませている。
「アン、いい加減におしい」
「やぁだ!」
「はぁ……」
アンの腕を数回軽く叩いて、腕を離すように言うと首を横に振って否定し、即座にボクの首に回している腕に力を入れた。
イヤイヤと首を振るアンは見かけの割に中身が子供だ。彼女の半生を思い浮かべると、人と、他人と接して来なかったのだから、仕方がないのかもしれないが、いい加減息苦しくもなってくるから、腕の力を緩めて欲しい。
アンの背中に腕を回し、羽のような軽さで数回叩いて、指通りのいい髪を梳きながら撫でると、漸く彼女は腕の力を抜いた。
いつまでもボクの腿の上で跨っているのもはしたないと思い、アンの横腹を掴んで持ち上げ、足の間に横向きになるように座らせた。
「リドルくんって力持ち?」
「……平均くらいさ。ただ、アンは人間よりもずっと軽いからね」
「そうなんだ」
綿菓子のように軽いアンを持ち上げる事など造作もないが、自分の軽さを理解していないアンは頬を上気させ両掌を何度も叩いて賞賛の拍手をボクに送る。
それが何だかとても気に食わなくて、すぐに止めさせると、アンは片方の頬を膨らませて不満気な表情を作るも、そこまで不快感はなかったようで、ゆっくりと口角を上げて笑みを浮かべた。
足の間に座っているアンは、ボクに凭れかかるように体重をかけているが、何分軽すぎて何かが触れている、という感覚しかない。ボクの首筋に顔を埋めるアンの頭を撫でれば、彼女は嬉しそうに頬を緩めている。空いている方の手をアンの腰に回して抱き締めれば、彼女の身体の薄さがよくわかり、女性とはまるで男とは違うのだ。と感じられる。元々違う生物であるが、今のアンは人間の女性のような姿になっている所為で、その違いが曖昧になりつつある。
「私、貴方に頭撫でてもらうの好きよ」
「何だい藪から棒に」
そんな事、態々キミの口から聞くまでもなく知っているよ。とは言わなかった。言ってもアンは怒りはしないだろうが、敢えてボクは違う言葉を言うと、穏やかな笑みを浮かべたアンは歌うような軽やかさで唇を動かす。
「伝えたくなっただけよ」
「そう」
アンの細腕がゆったりと動き、白魚の手が、アンの腰に回していたボクの手に触れる。軽く掴んで黒の手袋に包まれている手を持ち上げると、ボクに預けていた上半身を軽く起こし、真っ直ぐとボクを射抜くも、その視線に鋭さはまるでない。寧ろ、甘露だった。甘い朝露を煮詰めたような甘やかさと、愛おしさが込められた瞳に、視自然とボクの心臓が大きく跳ねた。
「ね、直接触って欲しいって言ったら、リドルくんは困るかしら?」
「……いいよ」
手袋越しでしか、アンには触れて来なかった。それは知りたくなかったからだ。彼女の体温の無さを。知ってしまえば言い訳が通用しなくなってしまうと、臆病風に吹かれているからだ。
ボクは、彼女を人として扱いたいのだろうか。妖精らしくいられる事を望んでいるのだろうか。
誰にも見つかって欲しくない。その存在を知っているのは自分だけでいい。この両腕の中にいて欲しい。願わくば時間――刻が許す限り、ずっと……ずっと。
然し、そんな事は出来ないとも理解している。彼女はこのハーツラビュル寮に居続けるだろう。それに比べてボクはどうだ? いずれこの学園を卒業して学園には寄り付かなくなるだろう。そうなれば、ボクと彼女は再び会う事も叶うまい。
それがお腹に穴が空いたように虚しさと、やりきれなさと、切なさをごった煮にして胸の奥に押し寄せる。
会わなくなったら、キミはボクの事を忘れてしまうんだろう? でもボクはキミの存在を、感じないその温もりさえも覚えたまま生きていくのだろうね。マレウス先輩は、妖精は人の子と違い、覚えているものだ。と言っていたが、ボクは記憶力が良いんだ。それこそ、ハートの女王が制定した法律を入学したその日に覚えるくらいには。
だから、アンの存在も忘れるつもりはないし、忘れないのだろうね。
それでもいいよ。キミがいつかボクを忘れてしまってもいいよ、と言えるように。
今はまだその覚悟が出来ていないから、正直素肌でアンに触れたくないけれど、紛れもないキミが望むなら、ナイフが突き刺さるような胸の痛みを跳ね除けてアンに触れよう。
ボクはアンの撫でていた手を止めて、アンが軽く掴んでいる方の手に付けていた手袋を外した。以外にも、アンに素手を見せたのは初めてかもしれない。なんて、緊張のような鼓動の高鳴りを頭の奥で聞いていると、微かに震えながらアンの両手が、剥き出しのボクの手を掴む。
体温は感じなかった。
「やっぱり、何も感じないのかしら」
「妖精は温度がないのか、ボクたち人間が感知し難いのかはわからないけど、少なくともボクたちには感じる事は出来ないようだ」
「そうみたい。詰まらないとか、残念って気持ちよりも、どうしようもなく、ぽっかりと穴が空いたような感覚になるの。ねぇ、これは何? これはなんて名前なの?」
アンの双眸から朝露が零れた。
はらはらと零れる朝露を拭おうと、アンの頬に掌を当てて剥き出しの親指で撫でるように拭うと、アンは無意識なのか、露で濡れる頬を掌に摺り寄せる。
流れる雫は暖かいというのに、アンの頬には温度を感じない。ボクの体温が少しでも移ってくれたらいいのに。と願っても現実は、アンの目を縁取る睫毛を濡らす雫が熱いばかりだ。
「ふふ、こうしてると、やっぱり懐かしい気持ちになるわ」
「……何か思い出せそうなのかい?」
アンは何も知らないのではない。何も覚えてないのだ。一種の記憶障害なのか、元々そういう存在なのかはわからないが、記憶を保持する能力が著しく低い。数週間の記憶しか保持出来ないその身体で、懐かしさを感じるなんてボクにとっては矛盾しかない。
懐かしさを感じる程の記憶力がないからだ。
それでも、懐かしいとアンが言っているのだから、何か思い出せるのかも知れない。と何かを聞き出そうという気持ちを一切持たずに問いかけると、ゆっくりとアンの桜貝の唇がたどたどしく音を発する。
「昔、お母様に……こうやって撫でてもらった、ような……」
「お母様? アンには家族がいたのかい?」
「お父様も、私の頭をよく……撫でてくださって……あれ? 私、何を言っているのかしら?」
途切れ途切れに紡がれる言葉たちに、ボクは驚くもその感情を表に出す事なく、冷静を装ってアンに問いかけると、更にアンの唇がゆったりと動く。その口ぶりはまるでボクの問いかけなど耳に入っていないようだったが、それでもよかった。
アンの事が知れるのなら、それで。と思った矢先、微睡に向かっていたアンの意識が急激に覚醒し、その双眸を大きくさせ、驚きを隠す事なくボクを見上げた瞬間、両手で頭を抑え始めた。
「痛いっ! 頭が! 割れそうだわ!」
「アン! しっかりするんだ!」
「嫌、来ないで! 私に触らないで! いや、イヤ! 嫌!」
苦しく息を吐き出しながらも短い単語を連ねるアンに伸ばした手は、アンに触れる事なく止まった。
今の拒絶はボクに対してのものなのか? そんな疑問が頭を過ったからだ。然し、そんな事を気にしていられる余裕もないボクは、弾かれるように再びアンに向かって腕を伸ばして、ボクよりも小さなその身体を力一杯抱き締め何度も背中を撫でた。
「大丈夫。大丈夫だよ」
「いや、こっちに来るの! 来ないで……思い出しては……ダメ――」
張りつめていた線が切れたように、アンは気を失い動けなくなった。この状態のアンを本体である白薔薇の側に置いておいた方が良いのか、寮に連れて行った方が良いのか迷ったボクは、寮に連れ帰る事にした。誰の目にも触れられないアンを寮にいれる事は簡単で、ボクはアンを自室のベッドに横たわらせた。
顔の色をなくしてしまっているアンの手を両手で包んで、懇願するように額に当てる。
「アン……」
時計の秒針が動く音だけが室内に響く。一秒ごとにカチ、カチと規則的な音をたてる。眉間に皺を寄せる彼女は息苦しそうで、何かしてあげたいのに何をしたらいいのかわからずに、黙って祈る事しか出来ない自分が恨めしい。
何時間が経ったのだろうか。夜空には月が浮かんでいる。穏やかに胸を上下に動かしていたアンの目がゆっくりと開き、ボクと目が合った。
「アン!」
「あ……リドルくん……、今日もお月様が綺麗ね」
「そんな事はどうでも――」
何を暢気に天気の話しなんて。と焦るボクの気持ちを断ち切るように、アンが口を開く。
「私ね……リドルくんと一緒にお月様見てみたかったのよ。いつも一人だったから。だから嬉しい」
そう言ってアンはまた瞼を閉じた。静かすぎる部屋にはアンの呼吸音すらよく聞こえてくる。
――あぁ、そうだったのか。
キミもあの空に浮かぶ月を、ボクと共に見たいと思ってくれていたのか。同じ気持ちだったんだね。
あの瞬間ぽっかりと開いてしまった穴が、じんわりと満たされるように塞がっていくのをボクは感じていた。