sincerely


 なんでそんな諦めたような、悟ったような顔をして笑っているんだアンっ!
 キミが変わった事は不幸な事なのか? 変わらないでいる方が良かったのか? だとしたらボクがキミにそんな表情をさせてしまっているのか?
 ボクはキミと……アンと出会うべきじゃなかったのか?

「アン……」
「リドルくん。会えてよかった」

 アンの頬に触れているボクの手を包むように、彼女の小さな手が重なる。アンの掌からも彼女の熱を感じとってしまい、どうしようもなく泣きそうになってしまう。

 ――どうして今そんな台詞を言うんだ。
 どうして今、そんな表情でボクと会えてよかったなんて言うんだ。

「あのね、私ね、多分もう消えるの。私の花弁が全て落ちてしまったら、私は死ぬ。何を言ってるんだ? ってリドルくんは言うかもね。でも私にはわかるのよ」

 ――消えそうな感覚が。そう言ったアンは今までにないくらい儚げに笑っている。それこそ、風が吹けば何処かに飛んで行ってしまう花弁のようで、無意識に唇を噛み締めた。

「記憶が戻ったから……なのか?」
「――えぇ。そうね」
「だったら、記憶をもう一度消せばいい。その為の魔法薬だって用意したんだ。これを飲めばいい!」

 アンの頬に触れていた手を離し、内ポケットから色の違う二つの小瓶を取り出すと、トレイとケイトの焦った声がボクの耳殻を震わせた。

「リドル! それは……!」
「流石にそれはダメだよ!その魔法薬は――」
「先輩方にはあの魔法薬が何かわかってるんすか?」
「あれは忘却剤。飲めば記憶をなくしてしまう効果があるんだが、その性能故に禁忌とまではいかなくとも、手を出してはいけないような魔法薬だ。……少なくとも表社会では出回らない代物だ」
「何でうちの寮長そんな危険な魔法薬持ってるんすか?!」
「――サイエンス部の部室を貸して欲しいって、あの魔法薬を作りたかったからだったのか」

 この魔法薬を作った証拠は綺麗に消したから何処にもない。アンが飲みさえすれば物的証拠も消える。何より。アンが消えなくて済む。
 懇願するようにアンに小瓶を差し出すも、アンは俯き頑なに首を振って飲もうとしない。

「どうしてだ! 消えたくはないだろう」
「私は! リドルくんと出会ってからの記憶がなくなっているって知って悲しかったのよ!」
「……!」

 顔を上げたアンの頬には涙が流れていた。
 眉間に皺を寄せ眉尻を下げ、次々と新しい涙を流している。その涙を止めたいのに、ボクの身体は金縛りにあったかのように動かない。
 動けよ、動けよ! アンが泣いてるんだ。動け、動いてくれ……!

「もう、忘れたくない。これ以上忘れたくないの。記憶が思い出になる前に忘れてしまうなら、私は今持っている記憶を抱いて死にたい」

 それはアンの切実な願いだった。何もかもを忘れて生きてきた事に気が付いてしまったアンの最期の願い。至極当たり前のような願いでもあり、狂気に満ちている願いのようでもあった。
 なんでそんなに記憶を失う事が怖いんだ。どうして自身の命を失う事よりも怖がっているんだ。
 アンの意思を尊重したい。でも、アンを失いたくないというボクの気持ちは何処にやればいいのだ。

 いいや、ボクは絶対にアンを手放さない。何よりも手放したくはない存在なんだ。

 すまない。すまないアン。キミの意思を尊重してあげられなくて。幼い子供のようなワガママだってわかっている。それでもボクはボクの意思を、意地を貫き通す。
 自分が此処まで欲深い人間だなんて思いもしなかった。アンと出会って、キミに慕情を抱いて初めて知ったんだ。キミは知らないだろうね。アンに懸想しているなんて。知っていたらボクに向かって死にたいなんて言わなかっただろうね。

 それは衝動だった。

 ボクは繋いでいた手を離して小瓶の蓋を開け、それを口に含み目の前にいるアンの頭の後ろに手を回して勢いよく引き寄せた。驚きでその双眸を大きくさせるアンを他所に、唇を合わせアンの口の中に忘却剤を注ぎこんでいく。
 アンが液体を出そうとしているのか、ボクの腕の中から逃れたいのか藻掻くも、アンの頭の後ろと背中に腕を回し力を入れて抱き締めている所為で、抵抗も抵抗になっていない。上を向いているアンの唇を押さえつけるように塞いでいる為に、魔法薬も吐き出せない。口付けの息の仕方も知らないアンの小さな瘤程度の喉仏が上下した。
 ――全て飲み込んだのだ。

 離れた二人の唇の間に熱い息が混じる。頬を上気させ目尻には涙も浮かんでいる。
 望んでいなかった行為にきっと、アンはボクに対して失望しているに違いない。それでもボクは後悔などしない。アンが目の前からいなくなってしまうくらいなら、ボクは、ボクの事を忘れてしまってもいいから生きていて欲しい。
 そして最初からやり直すから。アンが好きなお菓子を携えてまた、キミの前に現れるから。
 だからまた、白薔薇を赤く染めないでって言ってくれないか。そしたら、ハートの女王の法律だって言うから。

 ボクはもう一つの小瓶を手に取り、蓋を開けた。その動作を止めようとアンがボクの手を掴むが、彼女が咳き込み鮮血を口から吐き出した。
 ボクの白い寮服にアンの鮮血が広がる。生暖かい液体が広がるその感覚にボクは吐き気を覚えた。
 アンの吐血にではなく、己の行動の遅さにだ。

 もう時間がない。と振り返ってアンと繋がっている白薔薇を見れば殆どの花弁が枯葉色になっていて、猶予が残されていない事を知る。

 咳き込むアンの背中をさすってやりたい。でも、ボクはアンを目の前で失うわけにはいかない。
 弱々しくボクの手を押さえつけているアンの手を無視し、ボクは助長剤が入っている小瓶を仰いだ。勢いで飲んでしまわないように気を付けながら、再び咳き込むアンの唇を奪う。

「リドル!」
「寮長!」

 あの四人の声がさっきよりも近いところから聞こえた。

 咳き込むアンに合わせて唇を離し、息を吸い込むタイミングに合わせて再び桜貝の唇を塞ぐ。アンにとってこれは拷問に近いだろう。何の罰なのか、とも思っているかも知れない。
 罰と言えば罰であるし、罪と言えば罪なのだ。ボクから離れて行こうとした罪故の罰。

 肩を震わせるアンの背中を何度も優しく撫でると、アンが笑ったような気がした。
 助長剤を飲んだ小さな音が聞こえ、唇を離す。

 また泣いているのだろうか。否、今度は罵声を浴びさせるかも知れない。それでもいい、なんでもいいからボクの前からいなくならないで欲しい。
 お願いだ。お願いだ。ボクからアンを奪い取らないで。

「リドルくんありがとう。でも、もうダメみたい」
「なんで――!」
「あれ見て」

 アンが指を差した灌木に咲いていたアンの白薔薇は、すっかりとその気高い色をなくし、痩せ細ったように花弁を地面に散らし、その最後の一枚が辛うじて繋がっている。

 間に合わないのか。アンは白薔薇の呪いで死んでしまうのか?
 失意に飲まれているボクの脳を優しく揺らしたのは、アンの穏やかな声だった。

「聞いて欲しいの。私の出生は話したわよね。私が薔薇に掛けられた呪いは、永久に薔薇として生きる事。解除法は自分の記憶を思い出す事……リドルくんは見事に私の呪いを解いて、私は人間に戻って死ぬ事が出来るのよ」
「アン、待ってくれ……まだ他の解決策があるかも知れない――」
「ありがとう。ありがとう」

 アンがボクの目尻を指先で拭った。そこで初めてボクは自分が泣いている事に気が付いた。
 頬に触れるアンの温もりは、ずっと知りたかったものだったのに。知る時はアンが死ぬ時だったなんて。そんな事最初から知っていれば、そうしたら、ボクはこんな事願わなかったのに……!

 後悔したところで時間は巻き戻らない。アンが薔薇の呪いで止めていた時間が急速に動き出した。

 足元から金色の粒子となって消えていくアンを強く抱き締めた。消えてしまわないように、この腕から消えてしまわないように、と悪足掻きしても、アンの身体が粒子となっていく。

「ねぇ、私ねリドルくんのこと――」
「それはボクに言わせてくれないだろうか」
「え?」

 耳元で囁きかけるように唇を動かすアンの台詞を遮って、ボクは腕の力を緩め再び向かい合い、アンの額に己の額を重ねる。
 アンが息を飲んだ音が聞こえた。

「好きだよ。アンがボクの何よりも大切で愛おしい人だ」

 愛している。心からキミを愛している。

「私もよ。私もリドルくんが大好きよ」

 泣き出したアンの笑顔は花が咲いたようだ。それこそ、キミが何よりも守りたがっていた白薔薇のように。
 これが最後だなんて、これが今生の別れだなんて思いたくもないし、信じたくもない。でもボクの目の前に広がっている光景が全てで、真実なのだ。

「あのね。お願いがあるの」
「なんだい?」

 額を合わせたまま小鳥が歌を歌うかのように囁き合うボクたちには時間が残されていない。もう既にアンの下半身は金の粒子となり消えてしまっている。

「贅沢なお願いよ」
「アンの願いは何だって叶えてみせるよ」
「もし、私たちが同じ時代に生まれ変わったら、私を迎えに来て欲しい」
「あぁ。例え何になっていようが、犬や猫になってもアンを探しだして、真っ赤な薔薇を捧げるよ」
「ありがとう――愛しているわ」

 涙を流しながら愛の告白をするアンの桜貝の唇に自分の唇を重ねた。
 今度は無理矢理ではなく、慈しみと愛情を込めて、触れるような口付けを送ると、アンは幸せに染めたままボクの腕の中から消えていった。

 紅掛空色に舞ってゆくアンの残滓を、ボクはただ眺めていた。






 ――アンが消えてから数年。ナイトレイブンガレッジを卒業したボクは、目が回るような忙しい毎日を送っている。そんな中、夢と現実の狭間にいたのではないか。と思ってしまうような出来事の連続のあの日々に笑みを零しては、愛おしさを募らせている。紛れもなくボクの記憶の中に刻み込まれているアンは今日も笑ってくれている。それが今のボクの幸せの一つだ。

 赤い薔薇を携えてボクは、とある貴族が数世紀前に使用していたという庭に足を向けていた。これはルーティンの一つだ。
 そこには、アイリーン・ランカスターの墓があり、アンは薔薇に呪われたその日に死んだ事になっている。
 真っ赤な薔薇を墓の前に置いて、膝を折って口を開く。

「そう言えば、あの時キミに無理矢理飲ませた忘却剤。あれレシピが間違ってて何の効果もない魔法薬だったんだ。ボクとした事が」

 だから、どうかボクたちが想い合った日を忘れないで欲しい。
 愛している。心から、キミを愛している。そんな男がいる事をどうか忘れないで欲しい。
 キミの永遠を願った男がいる事をどうか忘れないで欲しい。
 
 ──女は薔薇のようなもので、一度美しく花開いたら、それは散る時である。
 君は次、いつ咲いてくれるのだろうね。

 





Bambi