知らぬ存ぜぬの存在
「余程ボクに怒られたいようだね……!!」
「んん、……あら、おはよう」
何かに摘まれているような感覚に目が覚めた。ぱちり。と双眸を開くと、目の前には吊り上がっている石盤色の瞳。心做しか赤薔薇の男の子の肌は、赤薔薇なよう……までとはいかなくても、昨日見た時よりも赤く染っている。
摘まれているようなって思ったけど、本当に摘んでいるのね。
だらりとぶら下がっている四肢。赤薔薇の男の子が摘んでいる私の羽根は繊細だから、もう少し丁寧に扱って欲しいものだけれど、私を自分の目線まで持ち上げている彼は、怒っているみたいだしわざわざ言わなくてもいいだろうと、にこりと笑みを浮かべた。
「ご機嫌よう。と言えばいいのかしら?」
「……ハーツラビュル寮の長たるボクが直々に出向いたというのに、どうしてキミは昼寝をしているんだ!!」
顔を真っ赤にして怒る赤薔薇の男の子……赤薔薇さんでいいかしら。その赤薔薇さんは、有り得ないと言わんばかりの態度で怒鳴っている。
しかし、いくら赤薔薇さんに怒鳴られても私としては、痛くも痒くもないし、まして怖くもない。
私が妖精だから。とか、赤薔薇さんが人間だから。とかという理由ではなく、価値観が違うのだから仕方のない事だ。
ふあぁ。と欠伸を一つ零せば、赤薔薇さんは「ムギギ」と唸り声を漏らした。顔まで真っ赤に染めて怒る彼は、唸り声をあげるものの怒鳴り声を抑えるように、拳をきつく握っている。
怒鳴りたいところを理性で抑えつけているんだ。と赤薔薇さんをよく知らない私でもわかった。
優しい人……なんだと思う。
それでも私にはよく分からない人だけれど。
庭に咲いている薔薇の香りに紛れて、甘い匂いが鼻孔を擽る。この匂いは何なのだろうか。と私は赤薔薇さんに向かって精一杯上半身を伸ばして、匂いの正体を探るも、赤薔薇さんに羽根を摘ままれている為に、上半身を伸ばしたところで大した変わりはなかったが、私が何かをしたいという意思は伝わったようで、赤薔薇さんは私を摘まむ指先から力が抜けた。
羽根が自由になった私は赤薔薇さんの首元に近づき、くんくんと匂いを嗅いだ。
匂いはするけど、ここからじゃないみたい。
どこから匂いがするのだろうか。と下に下に下がっていくと、ふわりと革手袋の手で私の身体が包まれた。
「何をやっているんだい」
咎めるような声色で赤薔薇さんは私に問うた。
小首を傾げながら私を見下ろす、その顔も可愛らしいと言えば、彼は怒るのかしら。怒るだろうな。なんてどうでもいい事を考えていた所為で、変な間が出来てしまい、赤薔薇さんは怪訝な表情を浮かべる。
何かを言われる前に、ちゃんと答えないと。と私は勢いだけで口を開いた。
「匂いが……」
「匂い?」
「甘い匂いがしたの。何かと思って」
羽根の自由どころか、身体の自由がなくなった私は、赤薔薇さんを見上げながら答えると、彼は納得したように頷いた。
「キミは随分と鼻がいいようだね。トレイに言って作ってもらったクッキーを持ってきたんだ」
「クッキー……?」
「お菓子の一種さ。食べれるかい?」
初めて聞く単語に、今度は私が小首を傾げた。
そんな様子を目の前で見ていた赤薔薇さんは、少しだけ可笑しそうに笑った。そりゃ間抜けにも全身を一掴みにされている妖精が、自分を見上げ小首を傾げている様子は、さぞ面白いものだろう。
「私、そのクッキーって食べた事はないから、食べれるものなのか分からないわ」
「そう。だったら食べてみるといいよ」
そう言って彼は、懐からハンカチを取り出して、それを短く切り揃えられた草で出来た絨毯の上に敷いた。真っ白な生地に何かが刺繍されているハンカチは、目に美しい。そんな綺麗なハンカチをこんな所に敷いてもいいのかしら。と私が疑問を口にするよりも先に、赤薔薇さんがハンカチの上に腰を下ろした。
「来るといい。一緒に食べよう」
赤薔薇さんは足を伸ばしている。その太腿を軽く自分で叩いて私を誘導する。その誘導に従い、大人しく赤薔薇さんの太腿の上に座ると、彼は私にクッキーを手渡してくれたが、私の体格と赤薔薇さんが渡してくれたクッキーは不釣り合いで、私はそのクッキーを支えきれず、赤薔薇さんの太腿の上に落としてしまった。
「……あぁ、キミは少し大きすぎたね」
「そうみたい」
「割ってあげよう」
サクッとクッキーを割る音が耳を撫でる。二つに折られたクッキーをはポロポロと屑を落し、赤薔薇さんの服の上に零れる。その中の一粒を貰って匂いを嗅ぐと甘い匂いがした。そうか。このクッキーの匂いだったのか。と手に取った一粒を口に含むと、さらりとした甘みが口の中に広がった。
「これがクッキーの味?」
「ほら、こっちをお食べ」
赤薔薇さんからクッキーのかけらを貰って、大きく口を開けて頬張った。もぐもぐとあっさりとした甘みを感じながら味わっていると、赤薔薇さんが私の姿を一瞥し言葉を選んで口を開いた。
「キミは……妖精、だろう?」
「そうね。一般的には妖精と呼ばれる種族だわ」
サクサクと両手にあるクッキーを口の中に詰めていく。何かを言おうとして口を閉じた。彼が何を言いたいのか私にはわからなかった。
何か言おうとしている事を感付いていながらも、私は無言を貫き通した。
幾つの間が流れたのだろうか。沈黙が身体に馴染んできた頃に、赤薔薇さんが口を開いた。
「キミはいつもこの時間まで寝ているのかい?」
「どうなのかしら。時間という概念がないからわからないわ」
「時間という概念? 太陽が昇れば生き物は動き出し、月が昇れば身体を休めるのは当たり前のことだろう」
キミは何を言っているんだい?とでも言いたげな赤薔薇さんに向かって、私は思わず肩を揺らして笑ってしまった。それを見た赤薔薇さんが眉間に皺を寄せて私を見降ろした。
「何がおかしいんだい?」
「それは貴方たち人間の価値観でしょう。違う種族に同じ価値観を求めても、ましてや押し付けてはいけないわ」
そう。人と妖精とでは生き方がまるで違う。
サクリと砕けるクッキーを頬張る手を一度止め、私は赤薔薇さんを見上げた。
「貴方は花の生き方と、自分の生き方が同じだと思うかしら? 思わないでしょうね。時間や食事に娯楽……何もかもの価値観が違う。当てはめようとするだけ無駄なのよ」
「だが、それは意思疎通が出来ないもの相手だろう。キミはボクと意思疎通が出来る」
確かに、意思疎通が出来る。しかしそれは私から見れば、赤薔薇さんと会話する事が出来る──もっと言えば、赤薔薇さんが私を認識する事が出来ることが不思議でならないのだ。
今まで私は誰にも見られる事がなかったのに、どうして……? と内心首を傾げても答えなんて出てこない。
「赤薔薇さんは、私と仲良くなりたいのかしら?」
「……なんだい、赤薔薇さんって。ボクにはリドル・ローズハートという名前がある。変な呼び方ではなく、名前で呼んでくれ」
そうか。人間には名前があるのか。個体識別番号と言えば聞こえが悪いが、親からの愛情だと言えば、美談に聞こえてくる。
結局のところ、個体を区別する為だけの役割だというのに。
「リドル……ねぇ」
「キミの名前は? そもそもキミはこの庭にいる妖精なのか?」
灌木の白薔薇に触れないように背筋を伸ばしている赤薔薇さんーーリドルくんは、僅かに顔を後ろに回して背後にある白薔薇を一瞥した。彼の中で何らかの予測は立っているようで、私は一度頷いて口を開いた。その拍子に口の端に付いていたクッキーの屑が落ちた。
「私はこの灌木に咲いている白薔薇の妖精。他の妖精にあった事がないからわからないけど、人間と会話出来たのは貴方が初めてよ」
「……今更だけど、妖精であるキミが人間の食べ物を食べても大丈夫なのかい?」
少し眉尻を下げて困り顔を浮かべるリドルくんの問いに頷いて、再びクッキーに口を付けた。さくりとした触感の後にさらりとした甘さが広がる。そうすると身体が満たされたような感覚になる。
これは栄養じゃない……いや、私にとって栄養と同じものではあるが。
「私が味わっているのは魔力だけで、多分、このクッキーというお菓子の味自体は感じていないわ」
「ふうん」
「納得したかしら?」
「一応はね。ところでボクは名前を名乗ったのに、キミの名前は教えてもらっていないのだけれど」
あぁ、個体識別番号ね。然し、私は私が存在を認知してからずっと一人でいた為に、他者と区別する必要がなかった。その為に私は私という存在を示す個体識別番号――名前を持っていない。
さて、どうしようか。と考えていると、ふと妙案が思いついた。
「貴方が私の渾名を付けてよ」
「ーーは?」
ないなら付けてもらえばいい。難しい事でもない。なんて簡単で素晴らしい方法! と私は赤薔薇さんーー基、リドルくんに向かって全力の笑みを向けた。
困惑しているリドルくんに追撃するように唇を動かす。
「また今度会ってね。その時までに私の名前を考えておいてね」
赤薔薇さん。