雛鳥のように貧弱な花
私の渾名を考えてと言った日から何日が経ったのか、私にはまるで見当もつかない。
太陽を四回は見上げたけど、月は……何回見たかしら。覚えていないわ。
その日は突然やって来た。白薔薇の中で眠っていた時の事だった。すやすやとお日様の柔らかい日差しを浴びながら規則正しく寝息を立てていた時の事だった。
かさり。と耳元で葉が揺れる音が聞こえた。風が頬を撫でていたわけでもない。誰かがやって来たのだろうか。と眠たい頭を徐々に覚醒させて、まだ眠たいと訴えている目を擦ると、朧げな視界の中に赤薔薇のような鮮やかな赤が映った。
「またこんな時間まで寝ていたのかい? 全く……なんてだらしないんだ」
溜息が私の頬を掠める。呆れた声が耳殻を揺らし、ぼんやりとした頭を覚醒へと誘う。白薔薇の中で寝そべったまま鮮やかな赤を見上げていると、全身が何かに包まれた。重力から切り離されたように私の身体は、何かによって急上昇した。突然の事に驚いた私は、意識を覚醒させ私を持ち上げている鮮やかな赤に焦点を合わせた。
「漸くお目覚めかい? ったく、いくら時間の感覚が違うからって、こんな時間まで寝ていては怠惰と何も変わらないじゃないか」
「……おはよう。ご機嫌は如何かしら」
「おはよう……? 今は午後五時だよ! あと数時間で陽が沈む」
掌に私を乗せたリドルくんは大袈裟な溜息を吐く。溜息がまた私の頬を掠めて何処かに消えていった。
私に会いに来てくれたのか。と口の端を上げてリドルくんを見上げれば、彼は何か文句があるような、眉間に少しだけ皺を寄せ口で山を作る。
起きる時間が遅いだけでそんなにも怒るものなのだろうか。と首を傾げれば彼は、私から視線を逸らした。
「ねぇ、私のあだ名、考えてくれた?」
「なっ!?」
頬を少し赤く染めたリドルくんは、手を口元に持っていき焦ったように言葉を途切れさせながら音を紡ぐが、その音に意味を感じられない。うー、とか、あー、だけで意思の疎通を図ろうとするのが土台無理な話である。
何かを言おうとしているリドルくんを他所に、私は目を瞑って匂いを嗅いだ。今日は薔薇の匂いしか感じる事が出来ない。だからあのクッキーを持って来てはいないのだろう。
あー残念。
あからさまに肩を落とす私に気が付いたリドルくんは、私が落ち込んでいる原因がすぐにわかったようで、再び呆れたような声を出した。
何よ。そんな顔しなくたっていいじゃない。と拗ねてやろうかと思ったが、リドルくんがピンク色の唇をたどたどしく動かし始めた為に、私は口を噤んでリドルくんの耳心地の良い声に耳を傾けた。
「キミ、本当に名前はないのかい?」
「ないわよ。あったかもしれないけど、長い事……もしかしたら生まれてから誰にも呼ばれていないから、無いと言っても過言ではないでしょう。だから貴方に付けて欲しいわ。私とお話し出来る人の子ですもの」
黒の手袋越しにはやはりリドルくんの体温を感じる事が出来ない。そんな彼の掌の上で足を伸ばしていると、彼は顎に指を当て「うーん」と困ったように両目を伏せて小首を傾げている。
「決めてくれたから来たのかと思ったのに、違ったのかしら?」
「決めた……そうだね。決めた」
「教えてくれるかしら。私の名前を」
リドルくんを見上げて名前を呼ぶように促せば、彼はゆっくりと私の名前を音として紡いだ。
「アン。あくまでキミの愛称みたいなものだ。本当の名前がわかったら使わなくていい」
「アン……素敵な名前ね! 気に入ったわ」
羽根を大きく広げてゆらりと動かし、満面の笑みを浮かべて両腕をリドルくんに向かって伸ばした。
それはまるで親鳥に向かって愛情を求める雛鳥のようだったが、生憎と私にはそんな感情はなかった。ただ、心の底から込み上げる喜びを彼に伝えたかったのだ。
「貴方素敵ね! 最高だわリドルくん!」
「ッな! キミ大袈裟じゃないか……」
咄嗟だったのだろう。折角付けてくれた愛称を呼んでくれないリドルくんに私は、これ見よがしに唇を突き出して抗議の声をあげた。先程伸ばした手は、すぐさまリドルくんの掌の上に戻っている。
「どうして赤薔薇さんは私の名前で呼んでくれないのかしら」
「キミだってボクの名前を呼んでないじゃないか」
「赤薔薇さんが私の名前を呼ぶまで、私も貴方の事は赤薔薇さんと呼ぶわ」
どうだ。これで呼ぶ気になっただろう。と彼を見上げると、リドルくんは眉間に皺を寄せ私を一睨みすると、すぐさま見つめ合っていた視線を逸らして、頬を赤らめた。
「……アン」
「ふふっ、なぁにリドルくん?」
何処か不貞腐れたようで、でもそこには照れくささも混ざっているリドルくんの様子がとてもおかしかった私は、少しだけ肩を揺らして笑った。基本的に高圧的な態度を取っている彼が、私の名前一つで此処まで表情を変えるのか。と思ったら自分の名前が特別に思える。
「アン、キミいい性格をしてるね」
「リドルくんは思ったよりも親しみ易いかも」
「ッ!」
また驚くリドルくんが面白くて肩を揺らして笑っていると、彼は私を乗せていた手を下に降ろした。
急激に変わった視界に驚き、羽根を動かしてホバリングをした。妖精である私は座っていたものが無くなったからといって、重力に従って地面に落ちるわけじゃないが、驚いていたリドルくんに対し、面白いと思っていた感情はすっぽりと抜け落ち、代わりに何をするんだ。と言わんばかりの目で彼を見つめると、今度はリドルくんがそんな私を見て肩を揺らして笑っていた。
あまりの無邪気な笑みに起こる気も失せた私は、せめてもの仕返しを言わんばかりに、リドルくんの肩の上に腰を落ち着かせた。
「それで、私リドルくんに聞きたい事があったんだけど、なんでもない日のパーティって何?」
「寮生の誕生日じゃない日に行われるパーティだ。ハートの女王が行っていた“なんでもない日のパーティ”を模倣して行っているんだ。それが……あぁ、白薔薇か」
リドルくんは私が思っているよりも頭の回転が速いのかもしれない。と感心してしまう程、会話がスムーズに進む。それは良くもあるが、私は頭が良くない為に、丸め込まれる可能性もあるという事だ。
彼がそんな悪人には見えないが、白薔薇を赤く染めるという奇怪な行動を平気な顔でするような人だ。用心しておく事に越した事はないだろう。
……用心したところでどうにかなる問題なのかわからないが。
「私は白薔薇の妖精よ。貴方たちの行動は私の目に余るわ」
「なんでもない日のパーティは庭の薔薇を赤く。これはハートの女王が作った法律にも書かれている。破るわけにはいかない」
「だったら、最初から赤薔薇を植えればいいわ」
「春の庭で行う花たちのコンサートでは庭の薔薇は白と決められている」
何だそのめんどくさい法律は! そんな法律に一々従って生きているのか。と私は自身の耳を疑ったが、リドルくんはなんて事はないと平然とした態度をとっている。
私が知らないだけで、人間たちはこんな法律に縛られているのかしら。と考え始めると、リドルくんは何処かに向かって歩き出した。
「ちょっと、何処に行くのよ!」
「アンは知らないだろうけど、他の白薔薇は皆ハートの形に剪定された木に咲いているだ。けどキミが必死に守っている灌木はハートの形に剪定されていない」
つまり、何が言いたいの。といよいよ私がリドルくんの頭の回転についていけなくなると、彼はまた口元に手を当て可笑しそうに笑った。
「そんなに泣きそうな顔をしなくていいよ。此処はパーティ会場からも遠いんだ。少しだけ例外を作ってもいいだろう」
「例外……? あ、待ってそれ以上は……!」
「アン?!」
踏み越えてはいけない線というのは妖精にも存在している。種族によって違うかも知れないが、私にとって踏み越えてはいけない線というのは、本体である白薔薇から一定数離れる事だ。
息が出来なくなる。とか、心臓に負担がかかる。とかそういう重たい枷があるわけではないが、只管に身体が怠くなってしまうのだ。
全身から力が抜け、リドルくんの首筋に頭を預ける私の羽根は力なく垂れ下がっている。
急に生気をなくした私を心配してか、前に進んでいたリドルくんの足が止まる。如何にか私の様子を見ようとしてくれているのか、手を私の傍まで持ってくるが、触れて良いものなのかわからないようで、すぐ近くで止まってしまった。
皮手袋に隠されている指先に、私の掌を当てると冷静さを取り戻したのか、短く息を吐いてもう片方の指先で私の足を掬う。
「何かあったのかい?」
「私は、あの白薔薇から離れると、身体が怠くなってしまうの。怠いだけで身体は健康だから気にしないで……それよりも、何処かに行こうとしてた、みたいだけど、何処に?」
「いや、戻ろう。アンが苦しそうなのに見せても意味はないからね」
そう言ってリドルくんは踵を返した。私の足を掬っていた手は離れてしまったけど、体調を気遣い、真っ先に飛んできてくれた手は、私の掌と触れ合ったままだった。