飛んでけ妖精


 満面の笑みを浮かべ、小枝のような両腕をボクに向かって伸ばすその姿は、以前にも見た事がある。
 その時もこんな風に笑っていたから、これがアンの喜び方なのだろう。
 可愛らしいとも思うし、「待っていた」の一言に健気さを感じる。野生の子猫に懐かれたような感覚……そうか。これが庇護欲というものか。なんて、くだらない事を考えていると、ボクの掌の中にいるアンがボクの肩の上に移動し、ストンと腰を下ろして座る。

 本当に軽い。質量が殆ど感じられない。

 風が強く吹けば、そのまま吹き飛んでしまうのではないかと、心配になる程の質量に思わず、指先でアンの頬に触れると、彼女はボクの指先に掌を当てて、何度か撫でると今度は頬擦りをした。

 アンの思いもよらない行動に驚いたボクは、動きを止め、二、三度瞬きをして何事もなかったかのように動き出した。
 胸ポケットからハンカチを取り出し、アンの白薔薇の近くに座れるように、短く切り揃えられた芝生の上に広げたハンカチを落として、そこに座る。
 するとアンはボク肩から移動して、伸ばした太腿の上に座ってボクを見上げた。

「今日はクッキー以外の匂いがするわね。これは何?」
「紅茶の匂いだね。アールグレイを淹れたんだけど……飲めそうかい?」

 バスケットの中からハンカチで包まれた、と例が作ってくれたクッキーを取り出し、それを二つに割って、片方をアンに手渡すと、彼女はふらつきながらもクッキーを受け取り、ぱくりと大きく口を開けて表情を綻ばせた。
 クッキーに夢中になっている間に、バスケットの中から紅茶の入ったポットを取り出して、簡易コップに紅茶を注ぐ。ベルガモットの香りがふわりと舞って鼻腔の奥で、感じる香りの高さに、今日も上手に淹れられたと頷く。

「紅茶……は難しいだろうから、魔法で少し浮かせよう」

 ちょこんとボクの腿の上にクッキーを乗せているアンの視線は、マジカルペンを握っているボクの手元に向けられている。昨夜、輝いていた無数の星の如く目を輝かせているアンは、口元に小さなクッキーの屑を付けているのも気にはならないらしい。
 マジカルペン一つ取り出しただけで、こんなに大きな反応をする奴はこの学園にはいない。あぁ。例の監督生は似たような反応を示していたな。

 けど監督生は噂によると、魔法がない世界から来たらしい。宇宙人とも噂されているが、どちらにしろ魔法が溢れているこの世界とは違うところで生活していた事に変わりはない。それに対し、アンは魔法が当たり前の世界に住んでいてこの反応だ。妖精の癖に自分で魔法を使った事がないのか。と半ば呆れてしまうが、こんな小さな事に感動をしてくれるのであれば、悪い気はしない。

 簡易コップの中に注いだ紅茶をマジカルペンで浮かせば、茶色の球体が出来上がる。それを成るべく小さくし、アンの口元に持っていけば、彼女は輝いていた顔を一転させ、どうしたらいいかわからないといった困惑した表情を浮かべてボクを見上げる。

「口を近付けて飲んでごらん。熱いから気を付けるんだよ」
「う、うん……」

 小さい手を紅茶の球体に近付ける。触れないようにギリギリのところで寸止めした手。顔を球体に近付け、そっと唇を表面が揺れる球体に触れさせる。
 頼りない首に僅かに隆起する。それが数回繰り返されるとアンは球体から顔を俯かせながら離れた。
 美味しくなかっただろうか。とアンを凝視すると、彼女の頼りない肩が震えている事に気が付いた。何か身体に入れてはいけないものを飲ませてしまったのだろうか。と、教科書に載っている妖精の生態のページを思い出していると、勢いよく顔を上げた。

「すっごく甘いわ! なにコレ! すっごく美味しいのね!」
「え、あ、あぁ」

 爛々と双眸を輝かせたアンの頬は上気している。興奮しているのは火を見るよりも明らかだった。
 紅茶の球体を避けるように蝶に似ている羽根を動かして飛んで、その小さな手をボクの鼻先に乗せた。あまりにも近いその距離に、アンの姿がブレて見えるが、興奮している様子だけは手に取るようにわかった。

「凄いのね! こんなにも満たされたのは初めてだわ」
「満たされる?」
「そう。身体の隅々まで魔力で満たされている感じがするの。それがクッキーよりも強く感じる」

 「どうしてかしら?」と首を傾げるアンを前にしてボクは仮説を幾つか立ててみる。
 一つ目に、クッキーよりも紅茶の方がアンの身体に合ったのか。
 二つ目に、作った人間が違うからか。二つ目の仮説が正しいとするのであれば、トレイよりもボクの魔力がアンの身体に合っているという事になるのだが、そもそも、どうしてお菓子や紅茶に魔力が籠るんだ? 今まで散々トレイの作ったお菓子を食べて来たが、トレイの魔力を感じた事なんてない。
 魔力を持っている人間ですら感知出来ない程の微量な魔力を、栄養として取り込んでいるのか?

「リドルくん? どうかしたのかしら?」
「あ、いや考え事をしていただけだ。気にしなくていい」
「そう? ならよかった」

 ふわりとボクの鼻先から飛んでいったアンは、雪のように静かに腿の上に腰を落ち着かせた。まるでそこが定位置と言わんばかりに我がもの顔で座り、再び両手でクッキーを持ち上げ頬張った。また口元に屑を付けている。それを指先で取ってやれば、彼女はへらりと笑って再びクッキーを頬張った。
 時折紅茶で喉を潤わせ、与えられたお菓子とお茶を十分に楽しんだ頃、アンはボクの肩に座りボクの耳元に唇を寄せた。鈴を転がしたような声色が囁くように音を奏でる。

「あのね、多分今なら白薔薇から少し離れても元気なままだと思うの。だから前にリドルくんが見せたいって言っていたものを見たいんだけど……」
「……いや、止めておこう。此処から遠いんだ」

 この灌木は薔薇の迷路の最奥に存在している。だが、ボクが見せたかったものは、薔薇の迷路の中にある四阿だ。それは薔薇の迷路の真ん中に存在している。此処からは遠くにある為に、幾らアンが白薔薇から離れる事が出来るようになったとはいえ、難しいだろう。

「いけるもの。見ててご覧なさいな」
「あ! こら!」

 肩に乗っかていた泡のような質量が消えたと思ったら、視界の端にふわりと飛んで行くアンの後ろ姿があった。意地になっているのは考えるまでもなく察する事が出来、ボクは慌てて立ち上がって予想よりも早い速度で飛んでいるアンを追いかけた。

「待つんだ!」

 何度もアンに声をかけるが、白薔薇の妖精はボクの声に応える気がないのか、白薔薇からどんどん離れて行く。何処まで行くつもりなのか。と羽根の生えた小さな背中を追いかけていると、急にアンの速度が失速し、ふらふらと蛇行しながら地面に近付いて行く。
 このまま地面に落ちてしまうと、駆け出す足に力を入れて一歩を大きく踏み出し、落下していくアンに腕を伸ばす。両手の中にアンがいる事を確認して安堵の息を零し、アンが唇を動かすよりも先にボクが口を開いた。

「一体キミは何を考えているんだ! 少し考えたらわかるだろう!」
「だって、リドルくんに見せたかったんだもん。遠くに行けるよって」
「だからってこんな無茶をする必要はないね! 危うく地面と接触するところだったじゃないか! 次、こんな事をしたらどうなるか、おわかりだね」
「――は、はい」

 アンは反省しているのか、眉尻を下げ目を伏せた。
 一体何で急にこんな無茶を……と、灌木に咲いている白薔薇の所に戻ろうと振り返ると、前回よりも遠くに来ている事に気が付き、アンを一瞥した。
 魔力が身体に満たされた事によって、此処まで来る事が出来たのだろうか。

「あ、ねぇ。どうしてあの木はハートの形なの?」
「ハートの女王はハートの形木を植えて薔薇の迷路を作ったんだ。それをモチーフにしているのさ」
「あぁ、あの面倒極まりない変な法律を作った人ね」
「失礼な事をお言いではないよ!」

 あまりの言いようにアンに向かって怒れば、彼女は楽しそうに肩を揺らして笑った。さっきまで落ち込んでいたというのに、今のアンの笑みにそれは見る影もない。

「全くキミは……反省しているのかい?」
「今度は赤薔薇さんの肩に乗っかって移動する事にするわ」
「だからその変なあだ名で呼ぶんじゃないよ」
「だってリドルくんが私の事を“キミ”って言うから」
「全く……」

 深い溜息を零すと、掌の中にいるアンの髪が少し揺れた。目を細めて笑うアンの顔を見れば、これ以上何か言う気力も浮かばなくて、ボクは灌木に咲いている白薔薇まで戻ろうと歩き出した。

 前回とは違い、アンは薔薇の迷路の入り口近くまで来る事が出来た。
 魔力で満たされた。と言っていたが、アンの原動力は魔力で成り立っているのかもしれない。

 この仮説が正しいかはわからないが、唯一わかったのは、アンはボクの予想を超えた行動をする事がある。という事だ。
 





Bambi