Past







 
 
 
 アザレアとディートフリートが共に過ごす時間は長い。多い時で一日の大半を共に過ごしている。
 同じ時間を過ごせば過ごすだけ、ディートフリートの眉間に刻まれた皺が山脈のように険しくなるが、二人は共にあった。

「紅茶を淹れろ」
「はい。旦那様」

 紅茶の淹れ方はつい先日、ディートフリートが教えたばかりだ。
 屋敷の主人であるディートフリートが、わざわざ一使用人に自ら教えるなんてことは例外中の例外の出来事である。

 このブーゲンビリア家別邸に使用人は何人かいるが、その誰にもアザレアの世話を任せたことはない。理由はいくつかあるが、大きな原因はあの少女兵だ。あれは人の言葉を理解する獣。使用人がディートフリートに近付こうものなら、首を切らんとばかりに使用人の後ろに回って首にナイフを当てるのだ。
 ブーゲンビリア家には二日といなかったヴァイオレットの存在に泣き出す使用人までいたのだ。
 そんなことがあり使用人は好んでディートフリートの拾いモノに近寄りたがらない。
 理由はまだある。
 アザレアがディートフリートの側を離れたがらないのも原因だ。仕事に行く分はまだいいが、別邸にいる間は有無を言わずにディートフリートの側をうろうろしている。
 一度だけ「まるで金魚の糞だな」と煩わしさを前面に出してアザレアを非難したが、意味を理解していないアザレアには全く効かず、現状何も変わらないままだ。

 支給した使用人服を揺らしながらアザレアはディートフリートに飲ませる為の紅茶を準備し始める。
 あんなにも泥だらけだった手が、ディートフリートに拾われてからは清潔な環境に置かれ、本来の肌の白さが蘇っている。

 泥を被った濡れ鼠の小娘。
 ディートフリートは家令に対してアザレアのことをそう言っていたが、今となってはその言葉は使えない。泥を被るどころか、腰まで伸びる絹のような髪は月光の色を纏い、小さな唇は桃色に染まり、希望を持てなかった少女はよく笑うようになった。
 遠巻きに見つめる使用人たちの間でお人形のようだ。と話題になっていることはディートフリートも知っている。

 確かに容姿は整っているが、だから何だという話だ。

「くだらない」

 二人掛けのソファを独り占めするように足を伸ばして寛ぎながら、使用人たちの会話を思い出して吐き捨てるように一蹴した。
 独り言として吐き出した声は小さく、よく耳を澄ませていないとうまく拾えないくらいの声量だった、はずなのに。

「何がくだらない、ですか?」

 そうだというのにアザレアは、自分に話しかけられたと確信している口調でディートフリートに尋ねた。
 ディートフリートにとってただの独り言だった。誰にも拾われることなく、空気に馴染んで沈んで消えていくような。だからこそ驚いた。思わず両手で持っていた新聞紙を深い赤の絨毯に落とすくらいには。

「今のが……聞こえたのか……?」
「……あ、私が聞こえてはいけない話だったですね。すみません」

 ディートフリートの為に淹れている紅茶のポットを一度置いたアザレアは、焦った様子で頭を深く下げた。
 顔を床と水平にさせたまま動こうとしないアザレアに対し、ディートフリートは苛立ちを含んだ視線を向ける。ディートフリートが望んだ回答をアザレアが答えなかったからだ。

「聞こえたのか、否か。質問には正しく答えろ」

 深い青の瞳は鋭く細められている。本気で怒っているわけではない。アザレアが教えられたことを実践出来なかった時や、ディートフリートの思うように動かなかった時によく見られる表情の一つであって、特に珍しい表情のわけでもない。アザレアにしてみればよく見る顔であるし、ディートフリート自身がよくアザレアに対して向ける視線の一つであると自覚している。
 アザレアにとっても、本気で怒っているわけではないと伝わっているはずなのに、いつもより反応が鈍い。もっと言えば、話すことを躊躇っているように見える。

 これはあともう一押ししないと口を割らないか。内心溜息を吐いたディートフリートは絨毯に落ちた新聞紙を拾いもしないままアザレアを追い詰める。

「言え」
「――っ!」

 びくりとアザレアの肩が跳ね、ゆっくりと頭を上げる。ディートフリートの目と合った瞬間、アメジストの瞳が一瞬揺れた。何かを堪えるように唇を巻き込み噛んで、眉間に皺を寄せる。

 ――ディートフリートが初めて見るアザレアの感情だった。
 
「……はい。――聞こえました」

 小さく、呟くように吐きだした言葉は、静まり返った空間によく広がった。アザレアの息遣いまでもがディートフリートの耳に届けられる。食いしばっているような吐息。歯の隙間から零れる息が静まり返った室内の空気を揺らしている。
 ――アザレアは泣いていた。

「何故泣く」
「っ、きらっ、嫌わないで、く……ださい」
「同じことを何度も言わせるな。何故泣いているのだと聞いている」

 大粒の涙がアザレアの輪郭をなぞるように伝い、深い赤の絨毯を濡らしていく。いくつもの涙が川の流れに沿うように零れていくのにも関わらず、ディートフリートはアザレアを見つめたまま動きはしない。
 慰め方がわからないわけではない。ディートフリートとて、軍人として生きているものの、異性の扱い方についてはよくわかっている。問題はアザレアの身の置き方だ。
 女性であれば。もっと言えば人間だったらディートフリートだって頬を伝う涙を指で掬い、慰めの言葉をかけただろう。然し、ディートフリートにとってアザレアは拾って来た道具にしかすぎないのだ。
 女としての機能を求めているわけではない。ただ、ディートフリートにとってアザレアを拾った感覚は、モノを拾う感覚。
 ――かつてヴァイオレットを拾った時のような感覚だった。
 だから慰めの言葉をかけはしない。求めている答えを言わないアザレアに苛立ちの感情が込み上げる。

「質問には正しく答えろ。何故お前は泣いている」

 二度目はない。と忠告を孕んだ口調。いつものアザレアであれば、素直に口を開いただろう。

「旦那、様……っ、お願いです、……嫌わっ、ないでっ!」

 涙を隠すこともしないアザレアはついに膝をついてディートフリートに懇願した。
 嫌わないで、嫌わないで。と何度もディートフリートに訴えるアザレアは右手をディートフリートに伸ばした。

 ディートフリートに嫌われたくない。突き放されたくない。そんな意志がディートフリートに向かって伸びる指先にまで篭っている。離れていかないでと縋りつくアザレアの指の先、ずっと先にディートフリートがソファに腰を掛けている。水の膜をアメジストの瞳に張って、必死にディートフリートを求めている少女を前にしても、ディートフリートの心は動かない。然し、同じ質問を繰り返しても答えが返って来ないことは重々わかった。
 ならば質問の仕方を変えればいい。アザレアは保証が欲しいのだ。だったらくれてやればいい。
 言葉一つで安心出来るのなら、いくらでも吐いてやればいい。

 主人に手間をかけさせるとは、大した屑だな。

「嫌わない。だから話せ」

 ディートフリートはソファの背もたれに預けていた背中を浮かし、膝の上に肘を乗せ前屈みの体制をとった。視線はアザレアに向けたまま逸らさない。真っ直ぐエメラルドの瞳がアメジストの瞳を見つめている。
 その表情は険しく隠しもしない。そうだというのにアザレアは期待を含んだ視線をディートフリートに向けている。

 それは何故か。ディートフリートの言葉に期待を持ったから。というのもあるが、むしろディートフリートの体制の方に理由がある。
 ディートフリートはよく知っている。座ったまま前屈みに体制を変える効果を。そうすれば対面している人間は、話を聞いてくれるのだと錯覚し心境を吐露しやすくなるのだ。

「昔から、よく小さな音が聞こえるです。それが原因で、前の旦那様からよく叱られた、です。私が聞こえてはいけない声を聞いてしまったばかりに……」
「何をされた」
「……躾しただけです。…………私の耳には小さな音もよく聞こえるので、聞くのがダメなお話なのか、いい、のか、私には判別することが難しい……だから旦那様から叱られる、おかしくない、でした」

 当時のことを思い出したアザレアは、左二の腕を軽く摩り押さえつけた。その手は震えていて過去に暴力を受けていたことを物語っていた。

 あぁ、なるほど。

 訳を話せばその“前の旦那様”のように俺が暴力を振るうと、そう思ったわけだ。
 必要な躾はするが、それ以外の暴力は意味がない。生産性を落とす要因になるからな。お前の主人だたった人間はその辺のところがわかっていなかったのだろう。

「安心しろ。俺はお前を上手く使ってやる」
「はい。旦那様」

 アザレアの瞳から最後の涙が零れ、頬を伝った。
 道具として使われる。そう宣言されたはずなのに、幸せそうな笑みを浮かべるアザレアを見てディートフリートは露骨に顔を顰めた。

 ――……屑め。