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 耳がやたらと良い。その事実を知ったディートフリートは、翌日からアザレアの聴力について詳しく調べるようになった。とはいえ、医師を通して聴力検査するわけでも、軍に連れて行って調べるわけでもなく、ただ、別邸の中、アザレアのいない時、いない場所でアザレアの名前をぼそりと呟くだけ。
 別邸で働いている使用人は、最初の頃は「なんて意地悪をなさるのだ」と非難めいた目をディートフリートに向けていたが、必ずアザレアがディートフリートの側に駆け寄る姿を見ては、驚きの表情を浮かべ、二人のやり取りを微笑ましく見るようになった。

「アザレア」

 サロンで紅茶片手に休息をとっていたディートフリートが、気紛れにアザレアの名前を呼んだ。この時間アザレアは洗濯室で洗濯物を取り込んでいる。サロンと洗濯室までは遠く、聞こえるわけがない。
 初めての試みだった。今までは、目視出来る距離。または、壁を挟んでの実験で、全くお互いの姿が見えない且つ、かなり距離があるこの試みは初めてのことだった。
 
 ――どうせ聞こえるわけがない。

 どんなに訓練された兵士ですら、この距離で名前を呼ばれてもわからない。勿論ディートフリートだってわかりはしない。だからこれは完全なる嫌がらせなのだ。アザレアの耳に聞こえるわけがない。とわかっていながらディートフリートはアザレアの名前を呼んだ。
 どんなに優れている人間でも限界はあるものだ。来るわけがないという優越感に浸りながら紅茶を一口飲み込む。
 ガラス張りのサロンには穏やかな日差しが差し込んで、淡い影を床に作っている。窓ガラスの向こうには庭師が丹精込めて育てた名前も知らない花が太陽に向かって花びらを広げている。
 風に揺れて見せ方を変える花。誰かに育ててもらわないと生きていけない花。面倒でされど綺麗で、人の目をよく引き寄せるその存在に、ディートフリートは一人の少女を頭の中に浮かべた。

 あれは、一体どうなるのだろうか。

 思案していたディートフリートの耳に靴音が聞こえた。
 足早なその靴音にディートフリートの意識は、そちらに傾いた。使用人が近づいて来るにしても忙しない足音。屋敷の中を駆け回るような使用人は、この別邸の中にはいないはずだ。いや、一人を除いてだ。
 アザレアは今でも屋敷の中を忙しなく走り回っていることがある。何度か注意しているものの、屋敷の間取りを覚えきれていないアザレアはよく部屋を間違えては、正しい場所に行こうと走り回っている。

「……まさか」

 まさか、この足音もアザレアのものなのか。いいやそんなわけがない。然し、屋敷の中を走り回るのはあの女しかいない。アザレアの耳がいくら良いとはいえ、このサロンから洗濯室まで距離がある。普通に考えてあり得ないのだ。
 だからこの足音がアザレアのものだとしても、決して名前を呼んだから来たものではない。

 そう結論付けたディートフリートは、片手に持っていた紅茶をソーサーに置いて腰を上げる。すると廊下の足音がぴたりと止まった。それを気にせず扉に向かって足を前に出すディートフリート。丸いドアノブにディートフリートの右手が翳された瞬間、自動的にサロンの扉が開いた。
 
「――!」
「あ、旦那様、移動されるんですか?」

 目の前にディートフリートが立っていることすら知っていたアザレアは、さして驚いた様子もなくディートフリートに声をかけたが、反対にアザレアの足音が途中から聞こえなくなったディートフリートは、突然開いた扉に驚き息を飲んだ。
 すぐに表情を戻し、いつもの感情があまり篭っていない、見る人によっては冷ややかな目とも評されるエメラルドの瞳でアザレアを見下ろす。

「足音を立てて歩いていたのはお前か」
「あ、はい。申し訳ございません」
「何度も言っているだろう。足音を立てて歩くな」
「はい。旦那様」

 怒られたことに俯いたアザレア。ディートフリートよりもずっと低い身長で俯けば、ディートフリートからは完全に顔を隠すことになり、反省の色が顔に出ているのか確かめる為に、ディートフリートはアザレアの顎を左手で持ちあげた。
 急に視界が変わったアザレアは一瞬、目を白黒させるも、ディートフリートの目を見てすぐに目を僅かに伏せた。
 いくら四六時中アザレア自身が好んでディートフリートの側にいると言っても、こうも直視されると恥ずかしいものがある。何故こうも恥ずかしいのか、アザレアにはわからない感情だったが、何でもいいから早くこの体勢から解放されたい。そう願うほかなかった。

「いいか。屋敷の中を走るな」
「はい。旦那様」

 眉尻を下げて頬を赤く染める少女を訝し気に見下ろしたディートフリートだったが、アザレアはどうせあと数回は同じ注意をしないと覚えないのだから、ここで時間を取っていたって仕方がないと気持ちに折り合いをつけ、アザレアの顎を持ち上げていた手を下した。
 解放されたアザレアは、足を一歩後退させディートフリートから距離を取って深呼吸する。三回目の深い息を吐きだしたところでディートフリートを見上げると、眉間に皺を寄せたまま、ディートフリートの薄い唇が形を変えていく。

「聞こえたのか?」
「……何をでしょうか?」
「なんで屋敷を走っていた」

 最初の質問はまるでアザレアの名前を呼んだあの声が聞こえたのでないか。と期待しているような口調になってしまった為に、ディートフリートは質問のアプローチを変えた。
 走っている理由を聞けば、名前を呼んだ声が聞こえたのか、聞こえていないのか、はっきりすると思ったから。

「あ、えっと、旦那様に名前を呼ばれたような気がしたんです」
「――は?」

 嫌わない。その言葉が効いているのか、アザレアは明朗な口調で答えた。

 はっきりとした答えがわかると思って問いかけた質問だったはずなのに。
 なんなんだこいつは。気がした? 本気で言っているのか? 野生の勘……? やめてくれ“そういう”のはもう勘弁してくれ。
 本能で生きているような奴には碌な奴がいない。これはディートフリートがこの数年で培った経験則だ。とはいっても、その経験だって孤島で拾った少女によるものだが。
 兎に角、ディートフリートはアザレアの回答に頭を抱えたくなった。

 気がしたとはなんだ。聞こえたのか、聞こえていないのか。どうしてこうもはっきりとした答えが出てこない。いや、この女も元は孤児。保護者がいない生活を強いられて来たのだ。判断材料に根拠や経験のほかに勘があっても、まぁ、おかしくはない……だろう。
 ――だったら、どうしたらいいのだ。
 ここは素直に「お前の名前を小声で呼んだんだが聞こえたのか?」と聞けばいいのだが、意地悪ついでにアザレアの名前を呼んだなんてことは本人に知られたくない。アザレアが側にいないと落ち着かない、とでもなんでも変な誤解が生まれるようなことは言いたくはないのだ。
 では、代わりに何て質問をしようか。もっと具体的な、理解出来る回答を得る為の質問を。

「聞こえた気がしたから走ったはわかった。だが、俺が何処にいるかまではわからなかったはずだ」

 そう。ディートフリートはアザレアが洗濯室にいることを知っていたのは、女使用人から聞いたからで、アザレア本人の口から聞いたわけではない。それに、アザレアにも何処にいるかなんてわざわざ伝えることもしない。
 だからどうしてアザレアがサロンの前で足を止めたのかが気になっていた。
 まさか、これも勘なんて言うわけじゃないだろうな。

 他人が見れば無表情に見えるディートフリートの顔にだって僅かながらにも変化はある。この屋敷で働いている人間、アザレアを含め、誰もディートフリートの機微な変化に気が付かないが、ディートフリートにはそれが良かった。
 狼狽していると、動揺していると、混乱していると敵にも味方にも悟らせてはいけない。だから表情が表に出難い性格でよかったとすら思っているくらいだというのに――。

「旦那様の椅子を引く音が聞こえたので、こちらにいるのだとわかりました」
「――、たかが、椅子と床が擦れた音だ。違い何てないだろう」
「ありますよ。旦那様の音は特にわかります」

 あぁ。ただの道具を拾ったとばかり思っていたのに。
 どうやら俺はまた、獣を拾ったらしい。

 その瞬間珍しくディートフリートは深い溜息を吐いた。