ディートフリートの朝は比較的早い。
使用人が扉をノックする音で目が覚める。とはいえ、アザレアがまともに機能し始めてからは、アザレアが毎朝、ディートフリートの寝室の扉をノックしている。
最初こそ遠慮と緊張が交じり合って、弱々しいノック音だったが、今は遠慮なく必ず三回、指の関節で音を鳴らす。
コンコンコン、と軽い音がしてディートフリートの瞼が持ち上がる。まだ眠たい気もしないではないが、これ以上寝ていても仕事に支障がでると思えば、一気に眠気が何処かに走り去っていく。肌触りのいい生地を無遠慮に掴んで剥ぐように上半身を起こすとアザレアの声が静かな室内に聞こえた。
「旦那様、失礼いたします」
「入れ」
アザレアを拾って二週間。正しい言葉を覚えたアザレアは、鈴が転がるような声で、綺麗な発音で話すようになった。それもこれも、全てディートフリートの教育の賜物だ。
最初の頃、入室時は“入るです”と言っていたのに、今では“失礼いたします”と言えるようになった。このこと以外にも変わったことは沢山ある。
「おはようございます。お目覚めは如何ですか?」
「悪くない」
正しい言葉を教わる前は“お目覚めは如何ですか”なんて言葉は出てこなかった。相手を気遣う言葉なんて知らなかったからだ。代用として“大丈夫、です?”と言っていたかもしれないが。
何にしろ、アザレアは沢山の言葉をこの二週間の間に覚えていった。言葉を覚えるとアザレアはよく話すようになった。その大半はディートフリートを気遣う内容だったが、時折、本当に時折、アザレア自身のことを話すこともあった。
カートを押しながら寝室に足を踏み入れたアザレア。先ずは目覚めの紅茶を淹れる為にポットにお湯を注ぎ、茶葉を決められた分量を用意した。分量という概念がなかったアザレアは、ものを量るという知識もなく、紅茶を淹れたこともなかった所為で、カップの中に茶葉を入れ、お湯を注ぎ、蒸らしもしないままディートフリートに渡したこともある。ちゃんとした紅茶の淹れ方を知ってからは、茶葉の分量や蒸らし時間を間違えたりして、渋い紅茶を作ったりしたが、ディートフリートに何度も怒られていくうちに、主人が好む紅茶を淹れられるようになった。
それもつい先日の話だが。
「本日の紅茶はセイロンです」
「先ずは服を着る。シャツを寄越せ」
「はい、旦那様」
クローゼットの開き戸を開け、ハンガーに吊るされている白いシャツを手に取ってディートフリートに手渡した。
「旦那様、シャツです」
シャツを受け取ったディートフリートは、袖に素肌を通していく。背中や腕に古い傷痕が残っているのは、職業柄の問題だ。
今よりもずっと若い頃に負った傷は、ディートフリートが家名に頼らず今の地位まで登り詰めた証拠でもある。まさに名誉の勲章とも呼べるだろう。
しかし海軍は、言わば海上戦が主な戦いで、軍艦を乗っ取って船員を殲滅させるより、軍艦そのものを海に沈めた方がよっとぽど効率がいい。どの軍に配属されるまで分からない時は、陸軍で働いていた為に負傷したが、海軍ともなればまず対人間とはならない。
今となっては懐かしい傷とも呼んでいい。
痛みなどとうの昔に消え、ついでに神経も無くなり消えた。
「……今も痛みますか?」
「何がだ」
「その傷跡、痛そうです」
痛いわけがあるか。何年前の傷だと思っている。深い傷に至っては神経もなくなっているから、余計に痛み何て感じない。
腕を通した白いシャツのボタンを閉めながらアザレアの顔を見れば、眉間に皺を寄せて眉尻を下げている。
痛くもない傷に心を痛めている女に向かって、腕を持ち上げた。その腕が真っ直ぐと、伸びた先にはアザレアの頭がある。絹のような髪に触れる直前にディートフリートは咄嗟に自分の腕を引き寄せた。
俺は今、何をしようとした……?
まさか、この女の頭を撫でようとしたのか? そんな馬鹿なことはない。
「旦那様……?」
「気にするな。それよりも支度を進めろ」
「……はい。旦那様」
ディートフリートの髪を梳く為の櫛を用意し、アザレアはディートフリートの背後の回り、夜空のような色をしている髪を手に取った。
ディートフリートの髪の色を表現するのであれば、夜空色。が相応しいだろう。新月の夜に、鮮やかな青色を差したような髪は長く、艶があって女の髪のようだ。そんなこと思っていても口に出してはいけない。口にしたら最後、彫が深い顔を顰め、眉間に深い渓谷を作り、切れの長い目を吊り上げ、その低い声で淡々と起こるに違いない。
ディートフリートという男は、彼女が関わらない限り理路整然と相手を責め立てながら怒るような人間なのだ。実際アザレアを怒る時も声を荒げて怒ったりはしない。
出来ないの度合いが違うからかもしれないが。
アザレアが調子よく、ディートフリートの絹の髪を三つに分け、ひとつの三つ編みを作っていく。
指がどこにも引っかかることなく、程よく三つに分けられた髪がひとつになっていくのを鏡越しに見つめるディートフリートの視線の先には、アザレアの白い手がある。
この女を拾って良かったのは、髪を結ぶことだけだな。
アザレアは手先が器用なのか、発音することよりも、早くこの作業を覚えた。
リボンの色はいつも通りのくすんだ水色だ。
髪を結び終えたアザレアはディートフリートの正面に立ち首を傾げた。
「タイの色は何色にするでしょうか?」
「何色になさいますか。だ」
「何色にす、さい、ますか?」
「何色に、なさい、ますか。だ」
アザレアが聞き取りにくいと感じた発音は、より分かりやすく、はっきりと発音するディートフリート。アザレアはディートフリートの口の動きを真似して、喉を震わせた。
「何色、に、なさい、ますか?」
「そうだ。もう一度言ってみろ」
「タイの色は、何色に、なさいますか?」
「紺色にしろ」
「はい」
クローゼットから紺色のタイを取り出したアザレアは、ディートフリートの正面に立って、太い首にタイを添わせる。
しゅるり。と、シャツとタイが擦れる衣擦れ音が微かに聞こえた。
「出来ました」
今日は休日。普段よりも緩めに締められたタイ。仕上げとばかりに、後ろに垂らしていた三つ編みを手前に持っていき、肩から下ろすと、アザレアは満足気に一度頷いた。
「うん! 出来ました!」
「……茶を淹れておけ」
「はい。旦那様」
温めたポットの中に新しいお湯を入れ、そこの用意しておいた茶葉を入れる。今は水面に浮いている茶葉が下に沈んだら頃合いだ。その時間までにディートフリートの今日の予定を確認しようとアザレアはディートフリートに向き直った。
いつもであれば新聞を片手にソファに寛いでいるディートフリートだったが、今日は違う。窓際に設置れている大きな机に座り、複数の書類に目を通し万年筆を走らせている。
朝早くからこんなに仕事をしているディートフリートを見るのは初めてだ。と驚き予定を聞くことも忘れたアザレアは、忙しなく動くディートフリートの手元を凝視していた。隠しもしない視線に気付かないほどディートフリートは鈍感ではない。アザレアが己の作業を怠っていることを叱る為、ディートフリートは書類に目を走らせたまま口を開いた。
「手を動かせ。やることはまだあるだろう」
「あ、はい!」
紅茶を待っている間にもアザレアには仕事がある。ディートフリートの予定を聞くこともそうだが、軽い朝食を用意するものアザレアの仕事だ。ディートフリートは朝からしっかりものを食べるタイプの人間ではない。海軍省駐屯地にいる場合は仕方がないが、家にいる時は軽いものをいつも食べている。
料理人が作ったサンドイッチを数種類皿に盛り、茶葉が沈んだ紅茶を温めたカップの中に注ぐ。主人が使っているローテーブルに並べるが、ディートフリートが座っているのは作業用机だ。
何処に並べるのが正解なのだろうか。とアザレアが迷っていると、ディートフリートが机に並べている書類から視線を上げた。
「こっちに置いておけ。あと、これを確認次第海軍省に戻る」
「帰りは何時ごろになりますか?」
「知らん。数か月は戻らないと思え」
「――え?」
初めてだった。ディートフリートはアザレアを拾ってから仕事で日中家を空けることはあっても、夜になると帰って来ていた。というもの、ディートフリートたちは長期休暇で、そもそも仕事に行くことがおかしいのだが、ディートフリートは文句を言いつつも馬車を走らせて軍施設に向かってた。
それを知らないアザレアは、ディートフリートの仕事はそういうものだと認識していたのだ。
「――え?」
アザレアの短い問いに答える声は何処にもなく、ディートフリートが走らせるペンの音だけが、やけにアザレアにこびりついた。