久し振りの長期休暇は一枚の辞令書で呆気なく打ち止めになった。
――“ガルダリク帝国との和平条約を完遂させよ”。
上官のサインが入った書簡を片手にディートフリートは眉間に皺を寄せていた。
テルシス大陸は海に囲まれた大陸だ。大陸の南方中央部にライデンシャフトリヒはその中の一部の国に過ぎない。資源に恵まれ輸入、輸出を盛んにする鉄道や港に力を入れた為、常に周辺諸国に狙われている。
だからライデンシャフトリヒは軍事力に力を入れるようになった。その結果として様々なことが起こったが。
さて。ガルダリク帝国はテルシス大陸の北方中央部にある。ガルダリク帝国との戦争で最愛の弟を亡くしているディートフリートは、この和平に思うところがないわけではないが、平和に一歩でも近付けるのであれば、それに越したことはない。と理性が心を律した。
ディートフリートは海軍省所属の生粋の軍人である。その男が呼ばれたというのであれば、ライデンシャフトリヒから船で半周するようにガルダリク帝国に行くのであろう。と誰もが真っ先に考えるだろう。ディートフリートもそう考えながら書簡に目を通していた。
一通り辞令書に目を通したディートフリートは、引き出しから一枚の紙を取り出し、万年筆を走らせている。紙とペン先が擦れる音が静かな部屋に響いている。
窓の外から新鮮な空気が部屋に入り、それに合わせるようにカーテンが揺れた。朝の空気はまだ冷たく、ディートフリートの頬を掠めるが、そんなことを気にしている時間は、今のディートフリートにはなかった。
海軍省に戻るとなれば、また暫くこの屋敷を空けることになるだろう。
そもそもこのブーゲンビリア別邸に戻って来たのだって、アザレアを拾って来たからだ。彼女さえ拾わなければ、ずっと海軍省近隣施設内の宿舎に身を寄せ続けていただろう。ディートフリートにとってブーゲンビリアは息をし難い家でしかないのだから。
しかし拾ってきたアザレアを海軍省施設内の宿舎に連れて行くわけにもいかない。当たり前だがアザレアは軍人でもなければ、ディートフリートと婚姻関係にあるわけでもない。つまり、アザレアをこの別邸に置いていくしか選択肢がない。最も、ディートフリートには最初から宿舎に連れて行く予定なんてものはなかったが。
ガリガリとアザレアの今後の処遇を紙に認めていく。
いくつかアザレアに仕事を割り振った。その中にはこの屋敷の管理を任せられるように、更に教育を施すように書き記した。屋敷にもハウスキーパーはいるが、老齢でいつ引退するのかがわからないからだ。
文字の読み書きの他に、経済学、造園の知識、国の文化……等、この屋敷を管理するにあたって必要な知識をアザレアに施すように。そして文末にはこう書き連ねた。
――なお、アザレアがこの屋敷を出るようであれば、自由にさせてやれ。
最後に自署したディートフリートは手紙を筒状に丸めて、最後に封蝋を施した。
今日出て行くと言ってから固まったアザレアに視線を向けるも、アザレアは今も床にトレーを落とし固まったままだ。もう一体何分その体勢のままでいるつもりなのだろうか。と呆れながら椅子から立ち上がり、アザレアの肩に手を置いた。
アザレアの肩は華奢だが、何も詰まっていないわけではない。この屋敷にやって来てから、目に見えてアザレアは元の美しさを取り戻していった。
ボサボサだった月光色の髪は日の光に透けて美しく輝き、色素が薄い肌とまろみのある頬は薄っすらと紅を差し、薄くもなく厚くもない唇は血色がいい。
アザレアはまるで生まれ変わったかのように美しくなった。
……それなのに――。
今のアザレアは顔の色を失くし、青白くなってしまっている。
最早立っていることが奇跡のようで、肩に手を置いたはいいものの、離せばそのまま後ろに倒れてしまうのではないのだろうか。とディートフリートはアザレアを見下ろした。
そしてそこで気が付いた。
――震えている……?
触れていないとわからないくらい、アザレアは肩を震わせていた。よくよく見れば唇も肩と同じように震えている。
一体何故だ。と内心首を傾げるディートフリートの脳内に一説の仮説が立ち上がる。
――この女、風邪でも引いたのか?
額にかかっている前髪を右手で上げ、暴かれた額に右手の掌を重ねるもアザレアの額はディートフリートの手よりも僅かに低いくらいで、熱があるようには思えない。では、なんでこの女は震えているのか? まさか寒いわけではないだろうし。
俯くアザレアの変化に検討が付かず、苛立ちを募らせつつあるディートフリートは深い溜息を吐いた。はっきりとものを言わないアザレアに対しても、道具を管理しきれない己にも、だ。予想外だったのは、それが思いのほか大きな音を伴って出てしまったことだった。
男の手に包まれている薄い肩がびくりとはねた。
普段から溜息を吐いているディートフリートだったが、その大半はわざとである。溜息をつくことで相手を責めることが出来ることをディートフリートは知っているからだ。弟のギルベルトは真偽を判別することが出来るが、他人にその判断は難しく、同じ家に住み、ディートフリートの世話をしているアザレアとて到底出来るものではない。だからディートフリートは短気ながらも気を付けていたのだ。
が、今無意識に溜息を吐いてしまった。
それがトリガーだったのかアザレアが弾かれるように顔を上げてディートフリートを見つめた。
大きな瞳が瑞々しく揺れている。
「私、はっ! 私は──旦那様と一緒、いたいです!」
「無理だ。お前は海軍に所属している訳でもなければ、戦闘能力があるわけでもない」
あの殺すことしか出来ない人形なら兎も角、特出して出来る点なんて聴覚しかない。人を殺すことが出来る人形と、耳だけやたらいい木偶の坊であれば圧倒的に前者を戦場に連れて行った方がいい。
「自分の立場を弁えろ。お前は足でまといだ」
「私、役に立てるです! 連れて行ってください」
「いい加減にし――」
「捨てないで!!」
――私をまた一人にしないで。
ディートフリートに縋り付き涙を流す女の声は酷く小さく、壁時計の秒針よりも小さなものだった。
アザレアが皺のない軍服をきつく握りしめている所為で清廉潔白の制服に皺が出来たが、ディートフリートはアザレアの手を振り解こうとはしなかった。
――出来なかったのだ。
アザレアの声が初めて会った時よりもか細く頼りないものだったから。
「買って、くれます。です?」と可笑しな言葉を紡いだその時よりも、正しい言葉を使えるようになったはずなのにあの時よりも頼りなくて自信がない。
容易く倒れる花のようだった。
「……アザレア」
「お側に、置いてです。私、役に立てる、出来ます」
「アザレア」
「お願いします。旦那様。私、一人は、もう嫌なの……!」
双眸から大粒の涙を流しながらディートフリートを見上げるアザレア。頬に赤い筋が出来、輪郭をなぞって支給されている給仕服にいくつもの染みを作っている。止めどなく流れる涙を拭く素振りも見せないディートフリートは傍から見ればなんと冷酷な男だろうかと非難されてもおかしくはない。
――男はアザレアの涙を止める方法を知らなかった。
遠い記憶の片隅で明確な映像が頭の中をリフレインしている。
家を出て行くと決めた時幼い弟のギルベルトは泣いていた。出て行かないでと一所懸命に訴えていた。厳格な陸軍省の父親の前で幼い弟を慰めることも出来ず、半ば飛び出すように出て行ったあの日をディートフリートは思い出していた。
親愛なる弟の頭一つ撫でてやれなかったディートフリートに、アザレアの頭を撫でるという思考は何処にもなく、ただ只管に泣いている女をどうするべきかと内心溜息を吐く。時間に遅れると言ったところでこの女は手を離したりはしないのだろう。
ディートフリートに不安を解消してあげたいという気持ちは不思議なほどに湧いてこない。この手を離してもらうにはどうしたらいいか。そればかりが思考の半分を占めている。
ただ理路整然と説明されたものを受け入れるよう納得させるしかないのだ。
――お前はただの使用人なのだから、と。説き伏せるしかない。それが雇用者と使用人の関係なのだから。
「アザレア」
「嫌です」
「アザレア」
「嫌です! 離れたくない、あります!」
胸元に額を押し付け首を左右に振る女の旋毛を見つめ思うことは、いい加減にしろ。それだけだ。
仕事に差し支えが出る。そんな使用人に教育したつもりはない。
「離れろ」
ディートフリートの大きな手がアザレアの頭を掴み無理矢理引き剥す。それでも抵抗しようとアザレアは首を中心に力を入れるも、ついこの間まで路地裏で小汚い花を売っていた少女と現役軍人。どちらの力が強いかなんて考えるまでもない。
アザレアの手がディートフリートから離れた。
「あ――」
「いい加減にしろ!」
男の怒声に少女の肩がびくりと跳ねた。
それを見ていい気味だと思うような男ではないが、怒りすぎたと思うような男でもない。
ディートフリートは何処までも理性的だった。
「立場を弁えろ。お前は雇われているんだ。俺に! そのお前が俺に口答えをするな」
声に温度を乗せず淡々とアザレアに言い聞かせるディートフリートの瞳には、アメジストの瞳から涙が溢れ出て止まらないアザレアの幼い顔が映る。
「……いい子にしてろ。帰ってくるから」
「――! 本当です? 嘘付かないですか?」
「あぁ。いつになるかは分からないが、この家には帰ってくる」
不慣れな手付きでアザレアの頭を撫でたディートフリートはそのまま部屋を出て行く。
すぐ後ろからもう一人分の軽い足音を耳に入れながらも、ディートフリートの意識は己の掌に集中していた。
あの時、弟の――ギルベルトの頭すら撫でてやれなかった……。
撫でてやるべきだったのだろうか。俺はお前が大事だと伝えるべきだったのだろうか。
いや……俺の代わりに父の望みを受け入れたギルベルトに俺は声を掛ける資格すらなかったのだろう。
嗚呼。お前がいると要らないことまで思い出す。このままいっそ捨ててしまおうか。
半歩後ろを歩くアザレアを横目で見れば、涙で腫れた目尻を緩ませ笑っていた。
――捨てないで。
少女の懇願がディートフリートのいつかの心情を震わせた。