手紙を書きます。時々でいいので返事をください。
そんな約束をこじつけられたディートフリートは、ライデンシャフトリヒ海軍省内施設にある執務室に設置されている机を前に項垂れた。
ガルダリク帝国との和平条約を完遂させる為の会議から戻り、漸く息が吐けると執務室の扉を開ければ見慣れた、されど見慣れない違和感が机の上に一つ。厄介事が終わったと思えば次の厄介事が降りかかる。深い溜息と共に視線を向ければ一輪の花と白い封筒が一つ。満開のダリアはまだ萎れておらず、直接持って来たわけでもないだろうが、アザレアの手元を離れてからまだ日が浅いことだけはわかった。
どうやらこの国の郵便屋は優秀らしい。なんてホッジンズの顔を思い浮かべながら舌打ちをすれば、後ろに控えていた新入りの兵が首を傾げた。
「これを置いたのは君か?」
「はい。ブーゲンビリア大佐のお名前が書かれていたのでこちらに届けた次第であります」
「次からは俺の私室に届けるようにしろ。これは公文書でもなければ決裁書でもない」
新入りにこんな手紙を任せたのは一体どこのどいつだ。と部下の顔を頭の中に思い浮かべるも、どれが犯人かなんてすぐに答えは出そうになかった。全員怪しく見えるし全員が間違いをしでかしそうには見えない。
ディートフリートの若草色の瞳は苛立ちを隠そうともしない。そんな男は特権階級の持ち主だ。海軍省施設内に私室を一つ与えられるくらい自由を許されている男は同時に大佐の名に相応しい権力を有している。この男のさじ加減で自分の首が飛んでもおかしくはない。
貧しい村から出てきたばかりだというのに……!
国防という任務を前にディートフリート・ブーゲンビリアは私情を持ち込むような男ではないが、新入りの兵はディートフリートにそんな権限がないということは露も知らず、色を失った顔で何度も頭を下げた。
「すみません! すみません! どうか馘首だけは……!」
「……は?」
お前は一体何を言っているんだ?
海軍大佐に人事の権利何てものはなく、ディートフリートの意志で震えながら頭を下げる新入り兵の将来をどうこうすることは出来もしない。
とはいえ、生まれながらにして持っている相貌と、歴史ある家紋と男から発する圧が新入りの肝を冷やし続けている。
何をそんなに震えるようなことがある。戦場でもあるまいし。
──まぁ、しかしこういったやつから死んでいくんだろうな。先の戦争も腰抜けは甲板に出ても役には立てず、足を引っ張り、果てには何人かの兵士を殴って捨てたこともあった。
平時の国防は実践を想定した訓練だが、所詮は訓練。見せかけの覚悟など銃声や大砲の前では金メッキよりも簡単に剥がれる。
この男もそうならないといいが。
「もういい。下がれ」
「はっ! 失礼します!」
新米兵が部屋を出て扉が完全に閉まるのを見届けたディートフリートは、新入りの様子をさして気にも留めず革張りの椅子に腰を掛け、机の上に鎮座する手紙に触れた。
よく飽きもせず何度も手紙を送ってくるもんだ。
碌に返事だって出していなんだぞこっちは。
毎度送られてくる花を丁寧に花瓶に入れてやれば、さぞ華やかなものになるだろう。週に一回送られてくる手紙はこれで二十通を超えた。その全てに目を通しては私室にある引出しの中にある箱に仕舞っている。
最初は机の引き出しにただ入れていただけだったが、アザレアが何度も手紙を送るものだから、部下の一人が気を回し手紙が丁度収まるサイズの箱をディートフリートに渡し、面倒を感じながらもディートフリートは貰った手紙を箱に仕舞った。私用の手紙を送ってくる人間はアザレア以外にもいるが、引き出しの中の箱に収まっている手紙はアザレアから送られてきたものばかりだ。
「今日は何だ」
封蝋を剥がして中の便箋を開けば、最近迷いがなくなった線で綴られた文字がディートフリートの目に飛び込んできた。
――拝啓 ディートフリート様
今日、私は庭の設計を執事長に任せて頂き、花屋まで行きました。私が知らないお花が沢山あって、何処に何を植えようか迷ってしまいましたが、旦那様のことを考え選びました。花が咲く頃までに帰って来ることを願っています。 アザレア
便箋一枚の、しかも四行程度の短い手紙。拙い報告書のようにも思えるし、主人の帰りを待つ犬のようにも思えた。多分、毎回最後につけてくる“帰って来ることを願っている”。この一文がそう感じさせているのだろう。
かれこれ半年近く自宅であるブーゲンビリア家の別邸に近寄っていない。その間、ディートフリートがアザレアに手紙を送った回数といえば、精々五通程度だ。
ガルダリク帝国との和平条約も、問題はあったものの無事に任務を完遂することが出来た。元軍人――民間人であるヴァイオレット・エヴァーガーデンが軽傷。サルベルト聖国の残党兵とおもしき軍人を数人を捕虜として確保。任務の難易度に対して上々の出来と言える。
その出来事が四ヶ月前の話。
ライデンシャフトリヒが所有している海の巡回警備に出発したのは、条約が結ばれ、ライデンシャフトリヒに帰国し捕虜を施設に収容してから二日後のこと。そこから数ヶ月の船旅をし帰って来たのは六日前。
アザレアに返事を出すことが出来たのは、船旅に出る前後の話であり、回数が少ないのは仕方がないことだった。
「…………はぁ……」
返信する機会は限りなく少ない。仕事があるから。会議があるから出航しないといけないから。返事を書くことが出来ない言い訳を何かと見つけてはペンを持つことから逃げた。
離れる前はまた獣を拾った。上手く使えば何かしらの役に立てられる筈だ。その一心だったが離れるとどうしてもアザレアの扱い難さが目立つようになった。
あの瞳がディートフリートを見つめる度に紫の名前を与えられたもう一人の獣を思い出す。
獣を思い出せば弟が死んだことを、あの獣を守って死んだことを思い出してしまう。連想の繰り返しだが精神負担は塵のように積もっていく。
そう言う意味でアザレアは酷く扱い難い存在になった。
いい加減返事をした方が良い。どうしてもアザレアを思い出すとあの紫も同時に思い出し嫌悪する。その気持ちを昇華出来ないまま机から取り出した便箋に、インクの付いたペン先で何度もついて白紙の一画を黒く汚した。
花弁を毟っているような感覚が酷く不快で、結局その日も返事を書かなかった。
それから一週間後。またライデンから艦が出る。その補給期間が明日から四日。その間、船員たちは束の間の休息を得られる。艦に乗る予定のディートフリートだって例外ではない。
趣味の絵を描こうか、街に出て日用品を買おうか、個展を見てこようか。この休息を有意義に過ごす選択肢は幾らでもある。がその中にアザレアに対して手紙を書こうという気持ちはどうしても湧いてこなかった。臭いものに蓋をするように、アザレアを己の意識の中から遠ざけたのだ。
――それだというのに。
旦那様。お仕事がお休みになるとお聞きしました。一日とは言いません。半日、いえ数時間、せめて一目だけでもお会いしたいのです。どうか、どうか屋敷に帰って来て下さい。 アザレア
そんな手紙が夕方に届いた。珍しく今回は花が添えられていなかった。用意する暇がないくらい急いで書いたものなのだろう。字が汚い。
このままこの手紙を無視することも出来るが……止めておこう。暫く家にも帰っていない。屋敷が荒れるなんてことはないだろうが領地の経営も任せたままにはしておけない。父親が亡くなり、母親が物事を忘れ初め、希望の光である弟が戦死し、ブーゲンビリア家を支えるのは生き残っている仲違いの末家を出た長子しかいないのだから。
翌朝。いつもより少し遅く起床したディートフリートは軍服ではなく私服に腕を通した。白いシャツの首元の釦を一つ開けて、緩くネクタイを巻いている。本日から休暇だ。紅茶を飲んでから外に出るか。なんて優雅に構えていると与えられた個室の扉からノック音が鳴った。時計を見れば朝の九時を回ったところ。「入れ」と声を掛ければ耳馴染みのある男の張った挨拶が返って来た。
「おやすみのところ失礼致します」
「なんの用だ」
「はっ。大佐に会わせて欲しいと騒ぐ民間人が一名。判断に迷い伺いをたてに来た次第であります」
「……放っておけ。すぐに帰るだろ」
まだ湯気の立つ紅茶に口を付けるとなんだか味気のないものに感じた。
艦内ではコーヒーしか飲んでなかったからな。とつい先日まで海の上にいたことを思い出していれば部下が焦った口調で状況を詳しく説明し始めた。
「それが何度も会わせられないと伝えているのですが、中々引いてくれず……終いには乗り込みますと言っていて……」
「…………わかった」
ソーサーにカップを置けば陶器がぶつかる軽い音がした。部下の後に続くように部屋を出て廊下を歩く。施設内は広く身分的にも奥まった場所に個室を与えられている所為もあり、海軍省施設の玄関口に行くには時間がかかるが、まぁ多少人を待たせてもいいだろう。ディートフリートは他人に酷く興味を持たない男でもある。
もうすぐで玄関口に着くが騒がしい様子もない。いつの間にか追い越し後ろを歩いている部下を一瞥すれば、首を傾げ「あれ?」と困惑の色を乗せて小さく零している。
一体なんなんだ。休日に面倒を掛けさせやがって。そんな文句の一つや二つを部下に言いそうになったディートフリートの耳に男の声が入り込んだ。
「早く帰るんだ! いつまで待っていたってブーゲンビリア大佐は此処には来ない!」
「いいえ。もう来てくださいました。足音がしています」
「足音? 聞こえるか?」
「いいえ、聞こえません。この方の気の所為では?」
「間違えなく旦那様の足音です」
ディートフリートは耳に入った会話を聞いて思わず頭を抱えた。
まさかここまであの女がやって来るとは思いもしなかった。拾ってから屋敷以外に出たことがないくせに……いいや、花を買いに街に行ったと言っていたか。その時にでもこの建物を見て覚えたのだろう。
言葉を覚えるのは遅いくせして、こういうところは頭が良い。本当に意味が分からない獣だ。
「アザレア」
「大佐? あの民間人の名前でしょうか? 此処で呼んでも聞こえないのでは」
「いや、大丈夫だ」
ディートフリートは女の名前を口にした。廊下に立っているディートフリートは窓越しにアザレアの姿を視認しているがアザレアはディートフリートの姿を見つけたわけではない。
エメラルドの瞳が真っ直ぐとアザレアを見据えていると、名前を呼ばれたアザレアが弾かれたようにディートフリートがいる方向に振り向き、アメジストの瞳にディートフリートの姿を収めた。
「旦那様!」
恐らくそう言ったのだろうが距離が離れている上に窓越しということもあり、ディートフリートにはアザレアが何を言ったのかが伝わらなかったが問題はない。アザレアはディートフリートの新しい道具なのだから、命令すればいい。会話なんてそれで十分だ。
「そこを動くな。今行く」
頷いたアザレアのアメジストが一瞬光って見えたのは日差しの反射によるものだろう。いや、そうでないと困る。アザレアはただの道具なのだから感情を覚える必要なんてない。
グランデッツァの出来事をふと思い出し、ディートフリートは苦虫を潰したような顔をした。
あの獣ですら人の感情を手に入れたのだ。だったらアザレアだって手に入れる可能性がある。人間になった時、壊れた人間の側に誰がいたいと思えるだろうか。
ディートフリートは自分の考えに鼻で笑った。
――俺はそんなのごめんだ。