アザレアに窓越しにその場で待機しているように命令し、後ろに控えさせていた部下を下がらせた。
命じられた部下はどうしてあの距離且つ窓越しで声が聞こえるんだと言いたげな、理解出来ない怪訝な表情でアザレアを見るも、ディートフリートに退出するように言われればそうするしかなく、後ろ髪を引かれる思いで踵を返した。
足音が一つ遠くに行ったことを耳で確認し、玄関口に向かって再び歩き出したディートフリート。重厚な扉を片手で開ければ、強い日差しが射し込んで両目を刺激する。
反射的に顔を顰め、意識を燦燦と大地を照らす太陽に向ければ、「旦那様」と呼ぶ声と「大佐」と呼ぶ声が同時に発せられた。忌々しい太陽に向かっていた意識を部下に移せば、目が合い、男は敬礼をしたまま状況報告をし始めた。
「報告します。この女性が――」
「話はいい。大方の事情は知っている……アザレア。何故此処にいるんだ」
「旦那様が屋敷に帰って来ないですので、お迎えに思いましたです」
半年経っても相も変わらず言葉を覚えるのは苦手なままらしい。三段ある階段の上からグランドラインに立っているアザレアを見下ろし、一瞬睨みつけ部下に下がるように右手を上げれば、意思を汲み取った部下が何か言いたそうな表情を一瞬浮かべたものの、何も言わずに下がって行った。
「これから帰るところだったんだ。貴重な休日をお前の騒ぎで台無しにしやがって。屑が」
「私の名前は屑ではありません」
「煩い。口答えするな」
三段ある階段を下りてもまだディートフリートよりもまだ背の低いアザレアを見下ろせば、正しい名前を呼ばなかったことに怒っているのか、眉間に皺を寄せディートフリートを見上げている。
そんな表情を浮かべて俺がちゃんと名前でも呼ぶと思っているのか。屑め。
男を見上げる女の前を素通りすれば、小走りいアザレアがディートフリートの後を追う。その姿は傍から見れば兄に置いて行かれた妹のようにも見えるだろう。てこてこと雛鳥のように広い世界の中、ディートフリートの背中だけを見つめている。その視線を受けてもなお男は振り向くなんて甘いことはしない。
海軍省の敷地を出れば街に行き交う人の群れと、黒い煙を出して走る車と路面電車。ライデンシャフトリヒの首都ライデンはディートフリートが生まれた場所でもあった。長い間この街で暮らし、街の変化を丘の上から眺めたりもした。――一番見た景色は陸軍の訓練風景かもしれないが。
てこてこと靴音がすぐ後ろから聞こえてくる。時折足音が止まってまた忙しなくスタッカートを奏でる。
何かに反応しては立ち止まっているのだろう。そのまま足止まって俺のことを見失ってしまえばいい。
次、アザレアが立ち止まった時気が付かれないように人混みに紛れてやる。目の前にある鬱陶しいほどの人の群れを前にディートフリートは思案したが、すぐにその考えを改めた。
アザレアは耳が良い。遠くからでも足音を拾い誰のものか区別している。さっきだってディートフリートの足音を拾いすぐそこまで来ていることを確信していた。そんな女がディートフリートを見失うわけがない。見失ったとしても必ずと言ってもいいほどディートフリートを見つけ出すだろう。
試しにやってみる価値もないか。
平坦な表情は視界に映るもの全てがつまらないものとして見ているようで、街の喧騒も煩わしい。
嗚呼、この喧騒ならやってみる価値はあるかもしれんな。
数秒前に出した結論を撤回し、ディートフリートは人混みに姿を紛れ込ませた。曲がり角を曲がって、大通りから一本道をずらし、真っ直ぐな道を歩いた。
なんだ。案外簡単に撒けた。立ち止まり後ろを振り向くもアザレアの姿は何処にもない。今頃探しているだろうな。
……案外、今頃、しめたと逃げているかもしれん。
アザレアは決して身体能力が高いわけじゃない。邸の中でも足音を立てるなと言っても、ディートフリートが軍施設に戻るその日まで足音を立てたまま歩いていた。
走りは遅いし、何もない所で躓いたりしている。そんな少女が家老の目を盗んで邸を出れるわけもない。逃げ出したくても逃げ出せない。邸の人間にはアザレアが出て行くのであれば止めるなと書いたが、それをアザレアに伝えたことはない。
出て行くことを期待していたのだろうか。出て行ける状況だけを整えておいて、出て行かないことを望んでいたのか。ディートフリートは己の行動の矛盾に酷く嫌気がさした。
再び歩き出したディートフリートの視界の先に個展を開いている小さなカフェがあった。休日にキャンバスに向かって黙々と作品を作るくらい絵画が好きだ。何かを描くのも好きだが、描かれている作品を見るのも好きだった。どんな作品が展示されているのか興味が湧き、ディートフリートはふらりと足をカフェに向かって動かした。
扉を開ければカランとベルの音が鳴る。瞬間、鼻腔を擽る香ばしいコーヒーの匂い。店の手前から奥に向かって一度視線を走らせれば、客席がある手前の壁には正方形の小さな絵画が、奥の空間には大きな絵画が飾られている。成程、これはセンスがいい。感心したディートフリートは両足を完全に店の中に入れた。
さて、何処に座ろうかと再び手前に戻せば「おや」と聞き慣れた声が情報の中に追加された。
「これはお久しぶりですね。お元気そうで何よりだ」
「……貴方こそ、前の店はどうした」
「コンセプトを変えて此方に移転しました。どうぞ、此方へ」
アザレアを拾った近くに居を構えていた筈のマスターの姿があった。
白髪で整えられた顎髭に目尻に刻まれた笑皺。丸い眼鏡をかけているその男はいつ見ても笑みを絶やさない男で、正直ディートフリートが苦手としている。それでも気に入りの店として通っていたのは、この店のコーヒーが美味いからだ。
「いつものでよろしいですか?」
「頼む」
店の大きさは広いが、面積の割に客席が少なくメインは絵画鑑賞にしているらしい。案内された席に座ることをせず奥の方に足を向ければ、無名の画家が手掛けた作品が壁に飾られていて、作者を伝えるボードの横に値段も書いてあった。
どうやらここに展示されている作品は買えるらしい。何か良いものはないだろうか。と目を光らせた。ガイヤルド国の踊り子、ドロッセル王国の城と共に描かれた白椿、サルベルト聖国の女神広場、戯曲家のオスカー・ウェブスターの作品の主人公オリビアの肖像画……あれもこれも、ライデンシャフトリヒでは見られない景色ばかりだった。
値が張る額ではないのは、この作家たちが駆け出しでこの作品一つ一つに作家としての価値が付与されていないからだ。邸に飾るのなら何がいいだろうか。あいつはどの景色を見て表情を変えるだろうか――。
そこまで考えディートフリートは機嫌悪く舌打ちをした。
なんでアザレアの喜ぶことをしないといけないんだ。この俺が。
興が冷めたと熱心に見ていた作品に背中を向けてマスターに案内された席に着こうとすれば、店の窓の隅で人の影を見つけた。
近付き店の中から窓の外にいる人を確認しようと、近付けば窓まであと三歩と言うところで影が動き出し、目が合った。アメジストの瞳を持った少女がそこにいた。
どうやら居場所がバレたようだ。案外すぐに見つかったとアザレアを見下ろす若草色の瞳には、水の膜を張ったアメジストの瞳が映っている。
「すまないが、少しばかり外に出る」
「かしこまりました」
カランと軽いベルの音を鳴らしながら外に出れば、アザレアが大股でディートフリートに近付いた。その勢いは止まらず、半ば体当たりをするようにディートフリートにしがみついた。シャツをきつく握り皺を作り、離れて行かないように頭を擦り付けるその仕草は、飼い主に置いて行かれた犬のようで、ディートフリートは仄暗く満足感を得た。
「離れろ」
「いや、だ、です」
「……アザレア」
鶴の一声。ディートフリートが名前を呼べばアザレアはゆっくりと掴んでいたシャツから手を離した。
なんだ、あっさり離しやがって。
離れろと言ったその口でアザレアが案外あっさりと手放したことにそこはかとなく苛立ちと期待外れだと目を細めるも、アザレアはディートフリートの視線に気が付かないでいる。
若草色の視線の先には小さな旋毛が一つ。シャツから手を離したとはいえ、二人の距離は未だに零に近い。このまま一歩、後に下がればこの女はどんな行動を起こすのだろうか。
考えるまでもないか。この女は縋りついてこない。アザレアにとって飼い主はその程度の男なのだとディートフリートは認識している。寧ろディートフリートは己の思考に驚きを覚えた。
縋りついて欲しいかのような、己に踏み込んできて欲しいかのような願望に気が付き、呆けて開いた口を隠すように武骨な手で口元を覆い隠した。
「……旦那様は、どうして、私から、離れてしまうのです、しょうか?」
「離れていない」
「離れていっていますでしょう?!」
俯いていたアザレアが勢いよく顔を上げた。アメジストの瞳には水の壁が張って太陽の日差しを反射させ輝いているようにも見える。シャツから手を離したというのにも関わらず、どうしてか未だに縋りつかれているような気になる。確かにディートフリートとアザレアの間には風が通る隙間があるというのに。
「旦那様は、私が嫌いですのか?」
「……好きも嫌いもあるか」
「では、側に置いてください。嫌いにならないでください、拒絶しないで、遠くに行かないで、ずっと傍にいてください」
アザレアの願いはまるで親鳥を失った雛鳥のようなものだった。庇護下でしか生きていけない、そんな弱者が強者に強請る願望。生きていく為に必要な後ろ盾であるのだとディートフリートは真実を突き付けられた。
――“俺”を必要としていないのはお前の方じゃないかッ!!
怒り、悲しみ、苦しみ、そして強い絶望。
この女も俺を見たりしない。あの獣と同じだ。あの獣はディートフリートを命令を下す装置としてしか認識していない。だからディートフリートはあの獣を人と認めなかった。認めたくなかった。あの獣を人間として認めてしまえば殺された部下たちが惨めだ。あの獣を利用しきれなかった己に手腕に反吐が出る。
嗚呼。こいつも俺を人として見ていない。
胸の奥に大きな穴が空きがらんどうになった心が金切り声を上げている。
勝手に期待し、勝手に裏切られ、勝手に落ち込む。何故こんな小娘相手にこんなに振り回されなければならないのだ。どうしてこんな小娘一人を御すことも出来ないんだ。
どうしてこんなにも身体が痛むんだ。
「…………お前、もう、好きに生きろ」
「――え?」
「俺の声が聞こえないところで勝手に生きろ。俺はお前なんか要らない」
そうして一人にしてくれ。
ディートフリートはアザレアに背中を見せるとそのまま歩いて行った。
軋む胸の音に耳を塞ぎ、酸素を取り込んでも苦しむ肺を抑えながらディートフリートは歩いた。
一秒でも早くアザレアから離れたかった。
何もかも自由だった。家督を捨て、己の意思で未来を選び、抜身の刀身で戦場を駆け、そうして傷付いて得た自由が今、たった一人、虫も殺せないような少女一人の存在で揺らいでいる。
壊れたナニカを白く柔らかく小さな手で包む。そんなことは求めていない。希望は一つで良い。
だから捨てる。
「クソッ!」
――それなのに、どうしてこうも息が出来ないんだ。