当たり前が遠望する落日


 魔法薬学室が諸事情で使えなくなってしまったことをクルーウェルに説明したユウは、後日、金の混合水の作り方をレクチャーしてもらうことになった。
 クルーウェルが時間を作ってくれると言ったがジェイドが進言したことにより、三日後の放課後にまた魔法薬学室で待ち合わせすることになった。

「本当にいいんですか?」
「勿論ですよ。監督生さんの役に立ちたいんです」
「はぁ……」

 そうして来る三日後に二人は再び魔法薬学室に足を踏み入れた。
 つい先日あんなできごとがあったというのに、魔法薬学室は綺麗に整頓されていて、何も知らない生徒はこの部屋で暴行沙汰があったなんて思いもしないだろう。ユウに暴行を加えようとして暴行されたあの生徒──名前は……トーマス・フラッチェは今も傷が癒えずに休学中だ。

「そう言えばクルーウェル先生、あまり怒っていない様子でしたけど、何でだったんでしょう?」
「トーマスさんが壊してしまった棚は古くて、買い替えたくても学園長がいい返事をくれないと以前仰っていたので、怪我の功名だったのでしょうね」

 新しくなった薬品棚から、十年生きた二枚貝の粉が入った中瓶を取り出すジェイドは控えみ笑いながら言った。
 
「……壊してしまった、ねぇ」

 その“以前”がいつのものなのかはユウには分からないが、トーマス・フラッチェを蹴り飛ばしたのは間違いなくユウの隣に立っているジェイド・リーチだ。
 被害を最小限且つクルーウェルに恩を売るような形であの現場を収めた男は、何一つ素知らぬ顔で世間話のような軽やかさを持たせながらユウに事の顛末を教えたのだった。

「何か?」
「いえ、なんでもないです」

 ピュルケの大葉を両手で持つユウは首を横に緩く振って、再びジェイドを見上げた。
 疑心めいたユウの視線を受けたジェイドは「ところで」とさして気にも止めぬ様子でユウの足元に視線を向けた。

「グリムさん、いらっしゃらなくて大丈夫なんですか?」
「え?」
「金の混合水を作るのにも魔力は必要ですよ」
「…………え? えっ? え?」

 そんな馬鹿な。クルーウェルだってそんなこと言っていなかった。補習する報告した時に魔力が必要だと説明してくれるはずだからジェイドの記憶違いなのでは? が、ジェイドは優秀な生徒であるし、クルーウェルが代わりにユウの指導をさせてもいいと思えるほど魔法薬学が得意なのだろう。そう考えれば間違っているのは自分なのかもしれない。いやでも……。

 眉間に深く皺を寄せ考えるユウは、何が正解なのだろうかと隣に立つ男を見上げるも、腹の探り合いが得意ではない為に真意を察することが出来ず、両手を広げ上にあげ降参のポーズをとった。

「意地悪しないでください」
「──! ふふ、意地悪ですか……。監督生さんにとってこれは“意地悪”なんですね」

 鳩が豆鉄砲を食らったかのような表情を見せた直後、ジェイドは肩を震わせながら笑った。
 今の何がジェイドの琴線に触れたのかもわからないまま、どこか馬鹿にされたような気がしてユウがグッと眉間にしわを寄せるも、その動作すらジェイドの笑いを誘うようで口の端を上げたままだった。

「ふふ、監督生さんは可愛らしいですね」
「それ、褒めてないですよね」
「いえいえ、とんでもない! 褒め言葉ですよ」

 本当かなぁと疑わしく感じるのは胡散臭く笑う男の所為だろう。
 ユウは手に持っていたピュルケの大葉を木製のまな板の上に置いて包丁を握った。

「先ずは刻むんですよね?」
「はい。ですが包丁で刻まなくても大丈夫なんですよ。授業では包丁を使うように指導していますが、手で千切ってしまっても問題ありません」
「そうなんですか! 知らなかったです」
「ピュルケの大葉の葉脈の中にある水分は、鼻の奥をツンと刺激するあくしゅ……馨しい匂いが特徴なので是非素手で千切ってください」
「手袋して包丁で切りますね」
「つれないですねぇ」

 中瓶を木製の机の上に置いたジェイドは、眉尻を下げ目を細めて口の端を上げた。

 先日の授業でピュルケの大葉の下拵えをした時はそんな臭いはなかった。多少の青臭さはあったが気にもならない程度だ。だけどそれが手で千切れば悪臭に変わるというのだから、魔法が存在する世界とは本当に摩訶不思議で仕方がない。

 ──今一番不思議なのはこの男だが。

「先輩、今日はやけに意地悪ですね」
「貴方の意地悪って言葉が癖になってしまって」
「……意地悪」
「ふふっ」

 ジェイドから渡されたビニールのような手触りの青い手袋をしてピュルケの葉を細かく刻んでいくユウの傍らで、ジェイドはマジカルペンを振ってアルコールランプに火を灯し、三脚台の下へアルコールランプを滑らせるように移動させ、小さな鍋の中にクリスタルを入れた。

 カロン。と音を立てた透明な結晶は初めて目にするもので、ユウはピュルケを刻む手を止めて片手鍋のかを覗いた。

「これは?」
「ノクタリスです」
「ノクタリス……。初めて見ました。魔法石、みたいなものですか?」

 透明な結晶はドワーフ鉱山で見た壁に生えていた鉱石のようにも見えるし、人工的に作られた鉱石のようにも見える。
 ガラス窓から差し込む自然光が反射して小さな輝きを見せる鉱石は、小鍋の中で瞬く間に姿を変えて液状になりぐつぐつと水面に泡を作っては弾ける。

「わっ!」
「これはお湯を魔法で固めた結晶なんです。周りを固めている為触っても熱くはないですが、火にかけて溶かしてしまえば一瞬でお湯が出来上がります」
「魔法みたいです!」
「魔法ですよ」

 口の端を上げて笑うジェイドに「そうでした」と眉尻を下げて笑えば、次の指示が飛んでくる。

「では刻んだ葉を入れてください」
「はい」

 まな板を斜めに構え、葉を小鍋の中に入れれば淡い黄色が染み出る。
 茶葉にお湯を入れた時のような染み出し方だ。

 壁にかかっている時計を見れば午後四時七分。確か煮出す時間は──。

「監督生さん、時間はどのくらいか分かりますか?」
「えっと、水嵩が半分になるか、十二分かのどちらかですよね」
「その通りです。水嵩が半分になれば十二分経たなくともザルに濾してしまって構いません」

 ではその間に何をするか。金の混合水の作り方は至って簡単だ。ピュルケの葉の煮汁に十年生きた二枚貝の粉を入れてよく混ぜ、鶏の金の卵で濾過すれば出来上がる。
 材料を全て用意してしまった今、やることなんて何もないや。
 
 三脚台の中でゆらゆらと小さく揺らしながら燃える真っ赤な炎を見れば、不意に入学したての頃を思い出した。

「ふはっ」
「何か面白いことでも?」
「すみません、思い出し笑いです。入学して間もない頃──」

 魔法薬学の実験でクルーウェルに蝋燭に火を付けるようにと言われ、グリムが意気揚々と口から火を吹いて周りの人のプリントまで燃やしてしまったことがあった。その時グリムは自分の所為ではなく、そこにプリントを置いた奴らが悪いって威張っていた。

「デュースが怒って、エースが火を消そうとして風を出したら更に燃え広がってしまって」
「それはそれは……」
「クルーウェル先生にも怒られるし、グリムは言うことを聞いてくれなくて」
「どうされたんですか?」

 小首を傾げるジェイドを横目に、ユウは目を緩く細めてガラス窓の向こう側の更に向こうに意識を向けた。

「グリムの頭に水をかけちゃいました。しかも結構な量のを」
「──どうして?」
「グリムは傍に物を置いておいた方が悪いと言ったので、水をかけられるような場所にいたグリムが悪いことになるけど、理不尽だよね? って訓戒を込めて」

 今思えばやりすぎなような気もしないではないが、当時はそれが最適解のように思えていた。
 それ以降グリムも少しは周りを気にするようになったし、反省箇所しかないわけでもないが。

 グリムに水を掛けた時のエースとデュースの反応は凄く面白かったなぁ。
 さして遠くもない記憶をまるで遠くのもののように思い出し眺め、満足したユウは鍋の中を見、ついでに時計も見てアルコールランプを滑らせるように手前に引き出し、蓋をすることで火を消した。

「では葉を取り除きましょうか」
「はい」

 用意してあるザルに煮汁を注ぎ込めば、淡い黄色の煮汁だけがボウルの中に溜まる。
 透明なボウルを両手で持てば、水面がキラリと輝く。

「これに十年生きた二枚貝を入れるんですよね」
「はい。何グラム入れるのが正解ですか?」
「えっと……煮汁の重さの……えー、っと」

 どのくらいのグラムを入れるんだったか……。
 授業でも習ったし、ノートにだって書いたのに綺麗さっぱり覚えていない。十分の一? それとも二十分の一? もしかして四分の一だったかも?

 木製の椅子に腰をかけ、机に肘をつけてこめかみに人差し指を当てながら必死に授業の内容を思い出そうと唸るも、中々答えを思い出せない。
 きっちりした数じゃなくて、凄く中途半端だったことは思い出したんだけど。

「十分の三?」
「ハズレです。正解は二十分の三です」
「あ! そうでした!」

 貝の粉の分量を正確に計って煮汁の中に入れると、淡い黄色が深みのある黄色に変わった。
 均一に粉が混ざるようにヘラでくるくると混ぜ合わせる。色の斑がなくなるまで混ぜ続けてユウは手を休めた。

「次は──」
「監督生さん。まだまだ混ぜないといけませんよ」
「え? 色は均一になりましたよ?」
「金の混合水を作るコツは、液が重たく感じるまで混ぜることです」

 クルーウェル先生はそんなこと言ってなかったような。とユウが過去の授業内容を思い出すよりも先に、ジェイドがその理由を補足した。

「ここの生徒は大雑把な方が多く、均一になるまで時間がかかるので自然と液が重くなり、クルーウェル先生もそれを見越して一年の頃は何も言わないんです」
「なるほど」
「手慣れて来た頃に種明かしをされるんですよ。雑故に出来ていたんだって」
「それ、素直に喜べないですね」
「そうでしょう?」

 きっとジェイドも一杯食わされた口だろう。器用故に暫く苦渋を飲まされていたに違いない。クルーウェルは優秀な生徒にだって手加減しない。
 一年生の頃のジェイドを想像してユウは小さく笑った。

「どうかされましたか?」
「いえ、なんでもありません」
「教えてくれないなんて監督生さんは意地悪ですね」
「先輩には言われたくないです」

 アドバイスを貰いながら作った金の混合水は、ジェイドの目から見ても品質が良く、クルーウェルにも褒められるだろうとお墨付きまでもらったユウはジェイドに何度も頭を下げた。

「ありがとうございます!」
「いえ、監督生さんの努力ですよ」
「先輩の教えが良かったからです」

 ユウの手元には二つの瓶がある。一つは魔力を込めずに作ったもの、もう一つはジェイドの‪α‬波の魔力が込められている。
 どちらも色に違いはないが、魔力が込められている方が金色の粒子が混ざっている。

「結局、最初の問の答えは“どちらでも構わない”ってことなんですね」
「補足しますと、α波は癖のない魔力と言われています。素材同士を調和させたり、魔力を付与させたり等様々なことに使いますが、金の混合水を作る場合は、素材が既に魔力を持っていますので、新しい魔力を必要とはしていません」
「なる、ほど……」

 朧気に大枠を理解したという隠しきれないユウの反応を見てジェイドは、蜜を滴らせたヘテクロミアの瞳で弧を描いた。

「愛らしい」

 たっぷりと蜜を含んだ瞳に比べ、その“愛らしい”には冷たい風の気配を感じた。