当たり前が転変する積雲


 それはよく晴れた午後の出来事。お昼休み明け一発目の授業はバルカスによる飛行術で、ユウを含む一年A組は運動場にて重力の切り払い方や、箒の上でのバランスの取り方等の勉強に励んでいた。

「お前たち筋肉が足りてないぞ!!」

 クルーウェルが“駄犬”というワードをよく使うのであれば、バルカスはよく“筋肉”というワードを使う。
 「筋肉が足りない」「もっと俺のような体になれ」「筋肉があれば大丈夫」そんな変わった――特殊な激励を飛ばす教師は今日も今日とて変った激励を鍛えられた腹筋で飛ばす。

「監督生! 筋肉の動きがなってないぞ!」
「はいっ!」

 箒に乗って飛ぶことが出来ないユウは運動場でランニングだ。時折木陰に座って休憩することもあるが、生真面目なユウは走れと言われれば多少無理をしてでも走る。
 それを横目にエースが楽勝だといつもより高く飛べば、グリムも負けじと高く飛び、それを見たデュースもエースとグリムに張り合うように高く飛んでみせた。

「見たか子分! オレ様もここまで飛べるんだゾ! ――おわっ!」

 飛行術で大事なのは重力の切り払い方だ。
 筋肉で重力を切ることは勿論出来ない。星属性のγ波の魔法を身体にかけて引力の割合を変え、箒に地属性のΔ波をかけてエンジンのように前ないし後ろに進ませる。左右は体の傾きで変えるのがコツだとバルカスは語る。

 さてこの授業何が難しいのかと言えば意識して二つの属性の魔法を同時に使うことだ。
 大地に引っ張られる引力の割合を自分に合わせて変えるということは、割合次第で高くも低くも飛べるということ。それと箒の穂に動力を与える地属性を同時に扱う必要があり、この二つが噛み合わなければ結果なんて目に見えている。

 たった今調子に乗ったグリムのように箒が暴走し、自分の意思に反する動きをするに決まっている。

「た、助けてくれぇ〜〜!!」
「ちょっ! グリムこっち来んなっ!」
「大丈――うわっ!」
「あっ! バカ!」

 高度を保ったまま涙目のグリムはエースが飛んでいる方向に向かってスピードを出しながら駆け抜け、それを止めようとデュースがエースの前に飛び出すも、焦ってコントロールを失った箒は奇怪な動きをしてエースの方へ引き寄せられていく。

「なんでこっちに来るんだよ!!」

 磁石でもあるのではないかと思うほどにグリムとデュースが跨っている箒がエースに向かい、それを避けようとエースも奮闘するも間に合わず追突してしまった。何かがぶつかった鈍い音が一瞬すると、二人と一匹はそのまま落下した。
 エースも中々巻き込まれ体質ではあるが、その上を行く巻き込まれ体質の人間がいる。それはユウだ。それまでに色んな事件に巻き込まれてきた彼女の悪運は各寮長のお墨付きだ。
 運動場でマラソンをしているユウの足元に大きな影が出来、上を見れば落ちてくる二人と一匹。

「嘘でしょう?!」

 ユウは咄嗟に頭を両腕で守り襲って来るであろう痛みに覚悟を決めると、真横で風を切る音が一つした刹那、投げ捨てられたような音と蛙が潰れたような声が続いた。右隣を見ればデュースが眉間に深い皺を寄せて痛みに唸っている。

「デュース大丈夫――っ!」
「ぶにゃ!!」

 反射的にデュースに手を伸ばしたユウの顔面に遅れて落ちて来たグリムとぶつかり、抵抗する間もなくユウは崩れるように後ろに倒れた。
 エースとデュースが落ちた時よりはずっと軽い音を立てながら倒れ込んだユウの顔の上にはグリムのお腹があって、柔らかい毛がユウの顔面を覆う。

「間一髪、だったんだゾ」
「いあ、どのふぇんが……?」

 口に毛が入って来ないように喋るのは難しく、ユウは両手で顔面に乗っているグリムをお腹の上に移動させた。

「なんでこうなったのよ……」

 芝生の上で寝転び燦々と輝く太陽の日差しに気怠さを感じながらユウはぼやいた。
 それは他者からしてみれば問いかけのようにも感じ、二人と一匹はそれぞれ違う名前を口にした。

 グリムは「エース」を。
 エースは「デュース」を。
 デュースは「グリム」の名前を口にし、俺は悪くないと軽い言い合いが始まった。

 エースが挑発してきただの、グリムが技術もないのに飛んだだの、デュースが間に入って来なければ躱せただのと、言い合いは尽きないようで寝そべっていた筈の二人は上体を起こして指を指している。
 ユウは最初こそ真剣に耳を傾けていたが、次第に言い合いは「無精卵と有精卵もわからない優等生くん」「入学してすぐに首を刎ねられた間抜け」「拾い食いしかしない」等と日常生活のことにまで及び始めてしまい、ユウは堪えきれずに口から息を吐き出して大口を開けて笑った。

「ふっ、はは! 三人とも、関係ないことまで言ってるし……ふは!」

 寝そべったまま肩を揺らすユウは二人の驚いた視線に気が付かないまま、目尻から一粒の涙を流しそれを人差し指で拭った。

「なん……?」
「そんなに僕たち面白いことを言っていたか?」
「一人で笑って怖いんだゾ」

 二人と一匹はお互いに顔を合わせて首を傾げ、再び笑っているユウを見た。

「だって、くだらなくて……ふ、ははっ」

 トレイ先輩のお菓子を俺よりも多く食っていたとか、食堂でパンを取られたとか。そんなくだらなくて、でも確かにかけがえのない毎日が当たり前のように積み重なっていっていたことにユウはふと気が付き笑い声を止めた。
 二人と一匹の言い争いの内容全てが間近でユウも見ていた光景だということに気が付いたのだ。
 そう言えばそんなこともあったな、その後確か……。こと細かく覚えているわけではないが、それでもちゃんと覚えている。

「……本当に、馬鹿だなぁ」

 言葉の意味とは裏腹にユウの口調は酷く穏やかで温かく、すっかりと毒気を抜かれてしまった二人と一匹は再び寝転んでユウと同じく快晴の空を見上げた。

 ――きっとこの日の出来事も私は忘れないのだろう。

 バルカスから「筋肉が足らん」と怒号を飛ばされるまで、三人と一匹は肩を揺らして笑った午後。漠然とした感情が柔らかくもユウの感情を生み出していた。

 大きくはなくとも小さくもない事故があったものの飛行術の授業が終わり、泥だらけの運動着を叩いて汚れを落としながら学園内の廊下を歩いていれば、隣を歩いていたエースが頭の後ろで腕を組みながら土埃を一所懸命に落とすユウのつむじを一瞥した。

「魔法で落としてやろうか?」
「前に頼んで大変なことになったじゃん」
「今回はイケるって!」

 調子よく笑うエースは前回の……ユウの制服の裾が燃えたあの一件を反省していないようで、マジカルペンを手で持ち軽く揺らしている。
 チェリーレッドの瞳が歪み口元を上げて笑うその表情は余りにも信用に欠ける。ユウはエースを置いて行くように歩幅の回転を早くした。
 前を見ないで手元の運動着に目を向け歩いているユウの進行方向に大きな影が三つ。デュースがユウに声を掛けるよりも先に大きな影を生み出している三人のうちの一人にぶつかってしまった。

「なぁに〜小エビちゃんじゃん。相変わらずちっこいねぇ」
「フロイド先輩は一々嫌味を言わないと死んじゃうんですか?」
「嫌味ならジェイドとアズールの方が言ってんじゃん。陰気臭くさ〜」
「おやおや、フロイドは僕たちのことそんな風に思っていたのですね。悲しいです。しくしく」
「煩いですよ、お前たち」

 嘘くさい泣き真似をするジェイドを見るフロイドの表情はげんなりとしている。思ってもいないことをよくスラスラと話すことが出来んな。と目は口ほどに語っているが、ジェイドはその視線も気にはしていないようで、すぐに泣き真似を止めてユウが手に持っている体操服に目を向けた。

「ところでその運動着は?」
「かくかくしかじかで」
「小エビちゃん説明する気無さすぎじゃね?」

 泥んこになってしまった経緯を説明するのが面倒すぎてその場をやり過ごそうとするも、フロイドはそれを受け入れる気分ではなかったようで、ユウの頭を大きな手で鷲掴んで左右に揺らす。
 一秒おきに変わる視界と脳の揺れにユウはすぐに根を上げた。

「さっきの授業で人身事故があって巻き添えをくらったら土だらけになっちゃったんですっ!」
「さっさと魔法で洗えばよくね?」
「フロイド。オンボロ寮の監督生さんは可哀想なことに魔法が使えないんですよ」

 可哀想に。なんて一ミリとも思っていない声色でユウを見下したように笑うアズールを前に、ユウは苛立ちを感じ、心の中で「バブちゃん」とアズールを馬鹿にした。

「魔法が使えないとなると、魔法家電も使えないんですよね? どうやって生活を?」
「別に普通ですよ」

 元いた世界に比べても生活の質が落ちているような気がしないでもないユウは、ジェイドの視線から目を逸らしながら答えた。それが精一杯の虚勢だったのだが、友達思いのデュースがユウの肩を掴み前後に揺すった。

「監督生! あれが普通なわけないだろ!! しっかりしろ!」

 そうして暴かれていくオンボロ寮での暮らしぶり。
 エースもデュースと共にオンボロ寮が如何にあばら家だったのか、電気が通ったのも遅く、水周りを整備されても洗濯機が届かない為に毎日洗濯板で洗っていることまで暴露された。
 穴に入りたいほど恥ずかしいわけじゃないが、どうだ凄いだろう、と誇れるわけでもない。

 余計なことを話やがってと恨めしく、心配半分揶揄い半分のエースと本気で心配してくれているデュースをじっと睨みつければ、左手に持っていた運動着が誰かに持って行かれた。

「監督生さん」
「はい?」

 呼ばれた先には運動着を持ったジェイドの姿。
 ジェイドは手早く胸ポケットからマジカルペンを取り出し運動着に向かって二回程度ペンを振るうと、大きな泡が土埃で汚れている運動着を包み、洗剤をまぶしたように白い泡が泡立つ。
 それを横目に見ていたフロイドが仕上げと言わんばかりに、胸ポケットから取り出したマジカルペンを振るうと水の泡が弾けた。するとドライヤーのような熱風が勢いよくユウたちの頬を駆け抜けていった。

「わっ!」
「これで綺麗になりましたよ」

 すっかり綺麗になった運動着はさっきまで水の中にいたというのに、袖まで乾ききっていて受け取ったユウは目を満月のように丸くさせると、歯を見せ弧を描いた。

「先輩方ありがとうございます!」
「すっげぇ……リドル寮長がやってたみたいに、修復魔法とか使ってんすか?」
「んーん、これはぁ、水魔法に洗浄魔法を足してぇ、最後に火魔法と風魔法で乾燥させたの。何、カニちゃんたちこんなのも出来ねぇの?」
「まぁ? オレたち成長期なんで?」

 負け惜しみの一言を皮切りにフロイドとエース、デュースにグリムが混ざりくだらない言い争いという名のフロイドによる一方的な攻撃を受けている傍らで、アズールが無関心な態度で手元のバインダーを見つめている。なんてカオスな空間なんだとユウが眉尻を下げていれば、大きな影がユウの顔にかかった。

「先輩?」
「監督生さん、明日からオンボロ寮に通わせて頂きますね」

 まるで決定事項のように宣言するジェイドに対する反応は三者三様だった。

「は?」
「――ブッ!」
「まじ〜?」

 ユウは驚き、アズールは吹き出し、フロイドはにんまりと顔を歪め、残った二人と一匹は小首を傾げた。

「掃除も洗濯もお料理も出来ますよ」
「……はぁ……」
「勉強だって教えて差し上げます」
「はい……」
「……山菜をお裾分け致しますし、山菜を使った料理だって可能です」
「はい」
「……如何でしょう?」
「如何と言われましても、対価を如何ほど要求するつもりでいるのかなと思っているところです」

 ユウの一言に堪らず吹き出したのはオクタヴィネルの二人だった。
 自分たちの日頃の行動の所為でジェイドの恋路が立ち行かない。そんな男の後ろ姿を見て哀れに思うどころか、最高のエンターテインメントだと心の底から笑いが込み上がって来て仕方がない。他人の不幸は蜜の味なのだから。

「対価なんて必要ありません」
「えー……?」
「なんですか、その疑いの目は……そうですね。では僕と一緒の時間を過ごしてください。対価はそれで十分過ぎる程です」

 花の蜜のように甘ったるいヘテクロミアの瞳がじんわりと弧を描く。ウツボの人魚らしいギザギザの歯が唇の隙間から見え、ユウは足元に視線を向けた。

「…………わかりました」
「では、今夜から伺いますね」
「は? 明日からって――」

 タイミングが悪く始業開始の鐘が鳴り、強制的に話が断ち切られる。そうなってしまえばユウの抗議なんて窓の外に追いやられてジェイドの要望だけが通るのだ。
 何を言っても無駄か。と早々に諦めを付けたユウは、長い鐘が鳴り終わる前にと駆け出した。

 どうせいつ来たって変わらない。
 あの寮にはゴーストと、古びた家具と、耳から青い炎を出している魔獣と、異世界から来た人間しかないのだから。