当たり前が定着する現実


 今夜から通います。その宣言通りジェイドはモストロ・ラウンジ閉店後にやって来た。
 放課後から門限の二時間前まで営業しているモストロ・ラウンジで副寮長でもあるジェイドは閉店作業をしてからオンボロ寮に向かった為、夜も遅くユウは談話室でまったりとしている時間だった。

「あの、無理に来なくてもいいと思います」
「無理ではありませんよ。今日はラストまででしたから遅くなりましたが、明日はシフトが入っていないので、ゆっくり出来ます」

 流水のように涼し気な双眸を細めた。それと同時に足を組み直し年季の入ったソファのスプリングがぎしりと小さな悲鳴を上げた。

「それに僕にとってこの時間は間違いなく癒しになりますから」
「……そうだといいんですけど」

 唇を誤差程度に前に出しながらもユウは納得したかのように頷いた。身近にいる面々に比べて大人びているが、精神的にはまだまだ子供で思っていることが時折顔に現れる。
 そのことをユウは知らないが、ジェイドは気が付いていた。

「ところで監督生さんは何故そちらに座っているのですか?」
「そこにソファがあったので」
「こちらにもスペースがありますよ」

 二人掛けソファの端に座っているジェイドは、片手で座面をぽんぽんと軽く叩く。こちらに来いと無言ノ圧力を笑みに変えてユウに送れば、一人掛けソファに座っていた年端もいかないただの少女はぐっと息を飲んで大人しく立ち上がった。
 湯気の立つマグカップを両手に持って立ち上がり、長身の男が腰を掛けているソファの空いているスペースにちょこんと座った。
 仮にも家主だというのに所在無さげな座り方にジェイドは僅かに口の端を上げた。

「ほら、マグカップを置いてください」
「え、あ……」

 置くように促しながらジェイドの大きな手がマグカップを上から掴み、二人の前に置かれているテーブルの上に置いた。掴んでいたものがなくなり、手持ち無沙汰になったユウはどうするべきなのかと手を彷徨わせて大人しく座面に手を置いた。
 どうしようか。何か気の利いた話を振った方が良いのだろうけど、何の話題も思いつかない。静かに混乱し始めるユウの隣でジェイドが古びたスプリング音を鳴らした。

「監督生さん。僕たち、もう少し近付いてもいいと思うんです」
「と、言うと?」
「デーティングを始めましょうと言ってから、僕たちまだ何もしていないのをご存知ですよね」

 デーティングという関係になってからユウの生活はあまり変化を見せなかった。何をしたらいいのだろうかと最初の二、三日は考えたがジェイドが何もアクションを起こして来ない上にユウの知っている文化ではなかった為、最近ではすっかりジェイドとの関係性も忘れてしまっていた。
 そう言えば、最近話すようになった先輩後輩という関係じゃなかったなー。なんて他人事のようにヘテクロミアの瞳を見つめていれば、すっきりとした眉が八の字を作った。

「どうやら忘れてしまっていたようですね」
「すみません」
「でしたらなおのこと監督生さんが忘れてしまわないように、この時間を使って色々と試してみましょうか」

 どんなことを試すのか。想像もつかないユウはじっとヘテクロミアを見つめる。捕食されかけたことがある相手に対し一瞬も視線を逸らさない度胸に似た精神は一体何処で拾って来たのかと、マブが近くにいたのなら問わずにはいられなかっただろうが、今いるのはジェイドだけ。

「ではまず手を繋いでみませんか?」
「手……。はい」

 ユウは握手を求めるように右手を差し出した。恋人同士でもない人と手を繋ぐ行為をあまり行ってこなかったユウにとって最短で辿り着いた手を繋ぐという行為の答えだったわけだが、デーティング――お互いの相性を確かめる期間を設けている男女において、握手を手を繋ぐと称することはないだろう。

 当然のようにジェイドは、握手を交わすことはなく、寧ろ、差し出された手の指先に掌を添わせ、手を返した。

「ふふ、こっちですよ」
「えっ、あ――」

 座面に置いている小さな手の甲にジェイドの指先が触れた。いつ触られても温度を感じない手袋越しの手にユウは、外見は自分と同じでも元の生物が違えば魔法薬を飲んでも違いが出てくるのかも知れない、なんて酷くどうでもいいことをぼんやりと思いながら、己の手を覆い隠す大きな手を見つめていれば、柔く手を掴まれた。
 ほんの少し力を入れれば簡単に解けてしまう。嫌だと思ったら振り解いてもいいと言われているような、その優しさにユウの指先がぴくりと跳ねる。

「嫌ですか?」
「……嫌ではないです」
「それは良かったです」

 振り払っていないのだから、嫌ではないとわかっている筈なのに、敢えて言わせるなんて、なんて意地の悪い男なんだ。ユウが緩く頭を左右に振れば、ジェイドの長い睫毛が目元に影を作った。
 手袋越しの親指がユウの指の背を撫でる。それが擽ったいような心地良いような、何とも言えない感覚が指の背からじんわりと広がって、ユウは軽い握り拳を作る。
 小さな恥しさと淡い緊張に、どうしたらいいのかがわからなかった。

「どうせ握るのであればこうしませんか?」

 嫋やかな手付きでジェイドがユウの手を持ち上げ指を絡めた。指の隙間に知らないものが挟まる感覚を初めて知ったユウは刹那、頬を真っ赤に染め、満月のように丸くなった瞳で絡まる二人の手を見やった。

 手癖で自分の指を絡める時とは全く違うジェイドの指。いつもよりも少しだけきつく密着していて、握り締められているのだと強く感じる。
 絶妙にしっくりとこないこの違和感は、果たして異性とこうして指を絡めて手を繋いだことがないから慣れていないだけなのか、自分の指じゃないからそう感じるのか。
 経験がないから答えも出せない。ふるりと睫毛を震わせ目を伏せながら繋がっている手から視線を逸らした。

 掌から伝わる熱と、身体の底からこみ上がってくる熱。ドクドクとうねる熱をどこかに逃がしたくて息を吐けば、溜息を吐く感覚だったそれは吐息に近くて、ユウはさらに顔を赤らめた。
 耳元で聞こえる心臓の鼓動はいつになく速く、落ち着きを取り戻そうと、空いている手を胸の上に置いて深呼吸を試みるも、暴れ回っている心臓は冷静になってくれない。

 あぁもう! なんでこんなに緊張をしないといけないの!

 抱えきれなくなった緊張を怒りに変え、真っ赤になっている頬を隠すことも忘れて隣に座っている男を睨みつけるも、予想もしていなかったジェイドにユウは緊張も怒りもすっかり抜け落ち瞬きを繰り返した。

「なんで、先輩も顔、赤くしてるんですか……?」

 女の扱いなんて慣れているだろうと、どうせこの状況だって揶揄って楽しんでいるだけだろう。そう踏んでいたのにも関わらずユウの予想を反してジェイドが頬を赤くして口元を隠している。いつだって涼し気な目元まで赤に染まっている始末だ。

「……っ、好きな、方と手を繋ぐという行為が、こんなにも緊張するものとは思わなかったので」
「だって、さっきまで余裕そうだったのに」
「手を繋ぐという行為は慣れているつもりでしたが、こうやって指を絡めるのは初めてで。監督生さんの緊張が移ってしまったのかもしれませんね」

 そんな馬鹿な。そう口に出来たらどれだけよかったのだろうか。

 ユウの頬はさっきよりも熱を発していた。まるで、ジェイドの熱が掌越しに伝染して来たかのように。

 それからというもの、ジェイドはオンボロ寮にやって来ては甲斐甲斐しくユウの世話をするようになった。モストロ・ラウンジのシフトが入っていない日は山を愛する会の活動が終わってから、オクタヴィネル寮にも寄らずに真っ直ぐにオンボロ寮に向かい、ユウに勉強を教え、時間になれば決して広くはないキッチンに二人並んで料理をしてグリムと一緒に夕飯を食べる。
 食器を片付けて、食後特有のゆったりとした時間は年季の入ったソファに二人並んで座って、投影機で壁に映画を映し出して鑑賞したり、その日あった出来事をお互いに話し合ったりするようになった。
 幸いにもナイトレイブンガレッジは事故が日常茶飯事に起こる。話題には事欠かないのだ。

 余りにも自然にユウの日常の中に溶け込んだジェイドだったが、ユウには慣れないことがあった。

「さぁ監督生さん、手を繋ぎましょう」
「はい……」

 隣に座る時は必ずジェイドと手を繋ぐ。たったそれだけの行為だがユウは慣れそうにはなかった。
 映像を見ている時も、今日の出来事を話している時も二人の手は繋がっている状態だった。緩く指を絡めて何かに集中している時――特に映画やドラマを見ている時にジェイドの手に一瞬力が入りユウの手を握り締める。そうすればユウの意識は完全にジェイドに向くわけで、ユウは瞬間頬を赤らめて俯いた。
 何かに集中していれば、手を繋いでいるという意識がなくなるが、こうして強く握られたりするとどうしても意識せざるを得ない。ジェイドはそれをわかってやっていることくらいユウは理解している。理解しているからと言って平然としていられるのかと問われれば、全くの別問題だと返すしかない。

「監督生さん。このドラマ好きって仰ってましたよね。見なくていいんですか?」
「……わかってるくせに。先輩、本当に性格悪いですよね」
「そんなことありませんよ」

 そんなことありますよ。と胸の内で返事をしたユウは、無理矢理意識を壁に映し出されているドラマに移したが、一分も経たないうちにジェイドが再びユウの手を僅かに力を入れて握った。

「先輩?」
「ふふ、病みつきになってしまいそうです」
「折角集中出来そうだったのに。ワザとですか?」
「そんな偶然です」

 にっこりと効果音が付きそうな笑みを携えているジェイドに向かって訝し気な表情を浮かべるユウは、残り半分ほどの時間が残っているドラマを見ることを諦めて、座っている身体の覚悟を僅かに変えてジェイドを見上げた。

「何かお話しましょうか? 先輩、ドラマに集中出来ないようですし」
「そうですね。では今日のトレイン先生の授業でルチウスさんが――」

 ルチウスが生徒の一人に向かって「オアァァァアア」といつもの調子で鳴いて、鳴かれた生徒は話しかけられたと笑っていたが、内容的には「お前の髪形変」と言っていたらしく、猫語を理解している生徒は声を殺して笑い、トレインは何も聞かなかったかのように授業を進めたようで、何で笑われているのかわからなかった生徒に、ジェイドが親切に猫語を訳して教えた。と悪びれもない口調で話すジェイドを前にユウは心の底から被害にあった生徒に同情した。
 いくら何でも可哀想すぎると眉間に皺を寄せるも、意に介していないジェイドはいつもの笑みを浮かべているだけだった。

「話は変わりますが、監督生さんが御存じの通り恥ずかしながら僕は飛行術があまり得意ではなくて」
「まぁ、はい」

 実際に見たことはないが、リドル曰リーチ兄弟が飛べる高さは人の目線程度で、しかも滞空時間が極めて短いらしい。ジャンプしているのと何が違うのだろうか。とリドルが真剣に首を傾げていたのはユウの記憶に新しく、なんでもスマートに熟してしまうジェイドや、パルクールをやってのけるフロイドを見たことがある分、リドルの話しが強烈に記憶に残っていた。

「今日は体育館の高さまで飛べたんです」
「えぇ!? それは凄いです!」
「それで監督生さんにお願いがありまして、褒めて頂けませんか?」
「勿論です! ……あ、でも私飛行術全く出来ないので、私が褒めるというのもおかしいかもしれませんが、それでもよろしければ」
「僕は監督生さんに褒めてもらいたいんです」

 ターコイズブルーの頭をユウが撫でやすいように下げれば、手を繋いでいない方の小さな手が艶のある髪に触れ形の良い頭の輪郭をなぞるように撫ると、ジェイドは息を吐いたように笑った。