当たり前が搾取する海中


 週末のある日の夕方。普段からミステリーショップで値引きされている食材を買い漁っているユウはショップの店長であるサムの前で項垂れ呆然と立ち尽くした。

「小鬼ちゃん……大丈夫、かい?」

 誰がどう見ても大丈夫な様子ではないのだが、誰が声をかけても同じようなことしか言えなかっただろう。
 力なく垂れた両腕に力を入れてカウンターに掌を乗せ震える唇をゆっくりと動かした。サムを見つめる目は一縷の希望に全てを託しているかのようで、サムは気まずさのあまりユウから目を逸らした。
 それが答えだとしてもユウは尋ねない訳にはいかなかった。

「今日の割引、本当に、全部、売り切れたんですか?」
「……ごめんよ、小鬼ちゃん」

 冷蔵庫に何もない今日に限ってなんで在庫がないんだ。否、正確に言うと在庫はあるが正規の値段であって、ユウが手に取るには些か高い値段の商品しか置いていない。
 もしユウに金銭的余裕があれば間違いなく手に取っていただろうが、オンボロ寮はその名に相応しいとばかりに生活苦であり、少しの贅沢はあまり許されていない。比較的物欲が少ないユウは元々支出は少ない方だったからお金の管理など気にしたことはなかったが、この世界に飛ばされて与えられる賃金で生活することがこんなに大変だったなんて。と今は遠くに離れている両親に感謝の気持ちで一杯になるが、感謝の気持ちでご飯は食べていけないのだ。

「小鬼ちゃんどうする? 買って行くかい?」
「…………買いま――」
「監督生さん、こちらにいたんですね。探しましたよ」

 苦渋の決断を迫られたユウはサムが手に持つ数種類の野菜が入ったバケットに手を伸ばしたが、ミステリーショップの出入り口から聞こえて来た馴染みのある声に動きを止めて振り返った。
 長い脚でコツコツと靴音を響かせながらユウに近付くジェイドはサムと目が合うとお得意の笑みを浮かべ、言葉を交わすことなくユウの肩に手を置いた。

「監督生さん。僕先日山に登って来まして、そこで沢山山菜やキノコを手に入れたのですが、要りませんか?」
「要ります! ください!!」

 それは最早反射と呼ぶに相応しい勢いの食いつき方だった。
 サムを前に捨てるしかなかった希望が今! たった今ユウの前に啓示された。食糧難になりかけていたユウの目にジェイドは神々しく見え、最早この人物こそ神なのではないのだろうかと大袈裟にも思ったりもした。
 だが食いつきが良すぎた所為でジェイドの切れ長の瞳が大きく開いたのもユウは見逃さなかった。
 あ、拙い。引かれたかもしれない。そんな予想を一瞬立てたが次の瞬間にはジェイドは吐き出すように笑った。

「――! フフっ、ではこの後オンボロ寮にお届けしますね」
「……あ、いいえ! 私が貰うので私が取りに行きます。先輩の都合がいい時間を教えて下さい。合わせます」

 いつもは澄ましたような、学生らしくない社交辞令のような笑みを作るジェイドが子供のように短くも笑ったものだからユウは一瞬気を取られて反応に遅れてしまったが、内容の全てを聞き逃していたわけではなかった。存外耳はちゃんと機能するらしい。
 頂く立場の人間がのうのうと寮で待つなんてことは出来ないし、なにより罪悪感が僅かに発生する。多分見知った友人――この世界でいうならエースやデュースには感じないからこれが親密さなのかも知れない。そもそもあの二人はオンボロ寮で遊ぶついでに持って来てくれるだけなのだが。

「僕はこのあとは用事もありませんので、監督生さんさえよろしければこの後どうですか?」
「行きましょう」
「はい。ですが買い物はよろしかったのですか?」

 そうだった。今はミステリーショップで買い物をしている最中だった。目の前の餌――もといタダで手に入る食料を前にサムの存在を忘れていたユウは、申し訳なさと気まずさを感じながらカウンター越しに立っている男を見上げれば、髑髏を彷彿させるようなメイクをしているサムが右手を軽く上げて唇で弧を描いた。

「気にしなくていいよ小鬼ちゃん」
「すみません。変なところを見せてしまって」
「では失礼します」

 ユウの背中に手を回したジェイドに促されるまま購買部を後にしてオクタヴィネル寮に向かった。
 購買部から鏡舎は比較的近く階段を降りた先にあるのだが、時間帯的にも同じく鏡舎を使って寮に帰る生徒たちが沢山いるようで、階段下には幾人かの生徒がグループを作って屯している。

 階段の踊り場からその様子を見下ろしていれば、不意に屯している中の一人の生徒と目が合った。オレンジ色のリボンをしている彼はサバナクロー寮の生徒だろうが、見掛けたことはない。
 何かと因縁を付けられることが多いユウは一瞬たじろぐも、サバナクロー寮生の視線が流れるように隣に移った。
 鋭さを増した瞳の向こうにはジェイドが立っていて、サバナクロー寮生は徐に舌打ちをして背中を向けて行く。

 あまりにも恨めしそうなその様子にユウは、隣に立つこの男はどれだけ人からの恨みを買っているのだろうかと、そっと見上げれば、ジェイドは素知らぬ顔をして「混んでますね」なんて世間話を始めようとしている。

 嗚呼。いつか背中を刺されないといいが……。なんて珍しくもジェイドの心配をしてみれば足元に大きな影が出来た。反射的に上を向けばジェイドとそっくりな男と目が合った。

「ばぁ!」
「ッ! フロイド先輩、驚かさないでください」
「小エビちゃんが勝手に吃驚したんじゃーん」

 そんな馬鹿なことがあるか。どう考えても頭上から声もかけずに見下ろすフロイドの方が悪い。そう言ったところでフロイドは非を認めない上に酷い時は何かしらの方法で嫌がらせを即時にしてくるのは目に見えている。つい先日、ユウがフロイドの機嫌を損ねた時は、顔面を鷲掴みにされ握り潰されかけた。
 あの痛みと恐怖は暫く忘れない。

「先輩、今日の部活はもう終わったんですか?」

 結果、ユウは文句を言わない選択肢を取った。誰だって自分の身は可愛いものだ。

「んー、気分が乗んないから、今日はもう帰ろーって」
「エースもジャミル先輩も驚いてますよ。きっと」
「そんなことねぇって」
「ふふ、僕の兄弟は人気者ですね」

 今の会話の何処に人気者要素があったというのだ。
 相も変わらずジェイドの判断基準はわからない、というか理解出来そうにないが、フロイドがジェイドの台詞に「オレって超人気者じゃん」と調子よく目を細めている。本当にそう思っているのかどうかがわからないところが一番怖い。

「二人は何してんのぉ?」
「今から寮に帰って、監督生さんに先日持って帰って来た山菜やキノコをお裾分けしようとしていたところなんです」
「うげッ! オレモストロ・ラウンジに近付かないでおくわ」

 間延びしていた口調から一転し、あからさまに嫌悪感を抱いている態度を見せたフロイドは口元に手を当て、見方によっては吐くのを我慢しているようにも見える。

「先輩苦手なんですか?」
「ジェイドが毎日食わすから嫌いになった。見るのも嗅ぐのもダメ。話に出るのも無理ぃ」
「わー、本当にダメなんですね」

 可哀想に。と色んな意味合いを込めて同情をしているとあることに気が付いた。

「あれ、案外早く鏡舎に着きました?」
「えぇ。何人かの生徒が親切に道を譲ってくださったので」

 お決まりの笑みを浮かべるジェイドを見て、周りの様子を見たユウはすぐさま状況を把握した。
 いつだったかの教室で見たあの紅海のようなことが此処でも起こったわけだ。しかも今回はフロイドという名の魚雷付き。関わらない方が絶対良いに決まっている。
 リーチ兄弟とあまりよろしくない意味で関わった生徒がバレないように身を小さくした結果が今なのだろう。

「あー、成程ね」
「雑魚のことなんて放っておいてさ、小エビちゃんオレと遊ぼうよ」
「無理です。食材貰って調理しないといけないので」
「えー! 小エビちゃんにキノコの匂い移って三日は近付けないじゃん!」
「流石にそこまで匂いは残りませんよ」
「フロイド、我儘を言ってはいけませんよ。監督生さんは“僕と”この後の時間を過ごすんですから」

 フロイドに向かって人差し指と中指をくっつけて二回折り曲げる動作をしたジェイドを見て、ユウは小首を傾げた。
 そう言えば入学したての頃にエースもたまにやっていた動作だけど、どういう意味なのか聞くタイミングを逃したままだったな。なんて口の端を上げているジェイドを見上げていれば、ヘテクロミアと目が合った。

「どうかしましたか?」
「小エビちゃんどうしたの?」

 流石双子と言うべきなのか、全く同じタイミングで小首を傾げる二人を前にユウはおずおずと両手を出し、ジェイドの真似するように人差し指と中指を二回折り曲げながら首を傾げた。

「これってなんですか?」
「小エビちゃん、“エアクォーツ”知らねぇの?」
「えあ? くぉーつ? 知らないです。どういう時に使うんですか?」
「これは何かを強調する時に使う動作で、ダブルクォーテーションのことです」
「なるほど」

 何かを強調……。
 慣れない動作にユウは何度も同じ動きを繰り返した。

「それよりも早く寮に戻ろうよー」
「あ、はい!」

 大きな鏡は確かに玻璃の鏡で出来ているはずなのに、どうしてか手を入れることが出来る。最初の頃、魔法の鏡だと説明されても脳の理解が追い付かなかったが、今となっては“そういうモノ”として理解している。

 鏡の額縁に足が当たらないように持ち上げ鏡の中に一歩踏み入れる。きめ細かいクリームに触れるような感覚なのに、鏡から出る瞬間に瑞々しく感じるのだからもうわけがわからない。
 この感覚だけは慣れそうにない。とユウが通ってきた鏡を振り返ると酷く見慣れた少女の背中越しに目が合った。

「監督生さん?」
「…………闇の鏡って何処にでも繋いでくれるんですよね」
「はい」
「どうして――」

 震える唇が紡ごうとしていた続きはフロイドの大声にかき消され、消されたものを話す気にもなれなかったユウはフロイドに負けじと大声で返事をしてジェイドの横を通り過ぎた。

「っ、監督生さん」
「はい?」
「――……いえ、行きましょうか」

 何かを話そうとしたジェイドは頭を振って長い足を前に踏み出した。

 宣言通りモストロ・ラウンジを通過してオクタヴィネル寮に戻って行った。その後ろ姿を見送ってからモストロ・ラウンジに足を踏み入れると同時に「いらっしゃいませ」と声がかかる。

「二名さ……副支配人、今日はシフト休みのはずじゃ?」
「監督生さんに山菜のお裾分けをしに」
「あぁ、あの……」

 ゲンナリといった表現がここまで完璧に当てはまるのは、後にも先にもこのオクタヴィネル寮生しかいないのではないだろうかと思う程に彼は顔を歪めた。
 きっとこの人もジェイドの被害にあった面子の一人なのだろう。と眺めていれば、オクタヴィネル寮生はユウたちを追い払うように手の甲を向けて力なく前後に動かした。

「女連れの副寮長ご案内でーす」
「さぁ、こちらです」
「はい……お邪魔します」

 何やら来ては行けないようなところに来てしまったような気がしないでもないが、食糧難を前に甘いことなんて言ってられない。
 黙ってジェイドの後ろをついて行けば、キッチンに案内されるも忙しなく動き回るスタッフたちを前にユウは邪魔にならないようにぴったりとジェイドにくっついた。

「こちらなんですが、調理法はご存知ですか?」

 如何にもな業務用の冷蔵庫から出てきたキノコと山菜のを見たユウはじっと食材を見つめて眉間に皺を寄せた。

「見たことがあるような食材ばかりですが……取り敢えず火を入れれば何でも食べれるので大丈夫だと思います」

 その台詞に忙しなく動き回っていたスタッフの動きがあったピタリと止まる。
 味付けという概念はどこに消えたんだ。と誰かがポソりと呟けば、ユウはハッと目を開いた。

「確かにっ!」
「この後一緒にオンボロ寮に行って調理しましょうね」
「何から何まですみません」

 いつもお世話になって申し訳ないと、罪悪感からユウは数回頭を下げるもジェイドはさしてきにしている様子もなく、むしろ一緒にいれると喜んだ。

「さぁ行きましょうか」
「はい。お邪魔しました」

 また忙しなくなるキッチンに背を向けてユウはジェイドの後を追った。
 その時不意に聞こえて来た寮生の声に一瞬だけ耳をかたむけた。

「けど、なんで副支配人割引された商品買ってきたんだろうな」
「さぁ? 気紛れなんじゃないか。あのフロイドと双子なわけだし」

 ――それって。

「監督生さん? どうかしましたか?」

 ユウが与えられた情報を纏めるよりも先にジェイドがユウを呼んだ。

「いえ、……行きましょうか」

 きっと何かの偶然だろうとユウは寮生の会話をモストロ・ラウンジに置いてオンボロ寮に帰った。
 その日二人で作った山菜とキノコの料理はとても美味しく、グリムが「これなら毎日食えるんだゾ」と喜ぶ仕上がりとなった。