当たり前が交差する日陰
男子校の昼は騒がしいのは世の常なのかも知れない。
そんな悟り紛いな心境にユウが至ったのはナイトレイブンガレッジに入学してから半年も経たないくらいだった。
今までの環境になかったその大きな声と、がさつな態度。どこの場面を切り取っても野蛮人じみた異性たちに、ユウは世界が違うからなのか、ここの学校の生徒の粗野が目立つだけなのか、元いた世界でもそうなのか……。通っていた学校にはなかった光景に慣れるのには時間がかかったものの、ユウは“そういうものなのだろう”と受け入れた。
他人に対しての興味の薄さが成し得た悟りだった。
土日とそれなりに静かな時間を過ごして、月曜日は「あぁ、学校が始まった」とオンボロ寮にはない騒がしさを前に実感し、一夜明けた今日は最早何も感じない。
両手にトレーを持ったユウは一人食堂の片隅の椅子に腰を掛けた。キッチンに近い席は常に人気で人だかりが出来ているが離れるとそこそこ席が空いているもので、一人で食堂を利用している時はユウは食堂の端の方を利用している。
日当たりが良いわけでもないが、湿気くさい場所でもない。決して静かなわけではないが騒がしすぎるわけでもない、食堂という空間の隅をユウは何気に気に入っていた。息を顰めれば輩に絡まれるわけでもない。と両手を合わせて「頂きます」と小声で言えば「監督生?」と名前を呼ばれた。
「珍しいな。いつもの面子はどうしたんだ?」
「トレイ先輩こそお一人ですか? ケイト先輩とかは……」
「ハハっ、いつも一緒って訳じゃないさ」
「前に座るぞ」と言ったトレイがユウの正面に腰を掛けた。トレーの上にはサラダとハンバーグとオニオンスープとパンが二つ。そのどれもがゴーストの作った絶品の料理でユウの目に美味しそうに映った。
特にデミグラスソースがかかっているハンバーグが――あれ? ハンバーグ?
ユウはトレイが持ってきた食事のメニューに首を傾げた。
「確か今日って……」
「監督生はハンバーグ好きか?」
「はい。でも暫く食べてないです」
「じゃあ一口やるよ」
トレイは気持ち大き目のサイズに切り分けた一口大のハンバーグをフォークで刺しユウ向かって差し出した。
そのまま食べろと遠回しに言われていのだろうが、本当に貰ってもいいのだろうか。とちらりとトレイのマスタード色の目をみれば、メガネの向こうの瞳にがニヤリと笑った。
「どうした? 食べないのか?」
「頂きます」
僅かに身を乗り出したユウはハンバーグをパクリと口に含み、流れるように再び椅子に腰を落ち着かせて咀嚼する。久々に食べる肉の旨味におもわず頬を押さえれば、トレイが可笑しそうに小さく笑った。
「そんなに美味しかったのか?」
「はい! それはもう! ありがとうございます。先輩も何か食べますか?」
「いや、俺のお願いごとの前払いだと思ってもらえればいいよ」
「お願いごと?」
ユウは売店で一番安いサンドウィッチを持ったままトレイを見れば、同じようにパンを持っているトレイの喉仏が大きく隆起した。
「この後飛行術の授業があるからな」
「それでハンバーグなのは分かりましたけど」
「だって今日は“火曜日”、だろ?」
左手デエアクォーツの仕草をしたトレイを見てユウは納得した。使い方にではなく、お願いの意味にだ。
そう言えばハートの女王の法律に、火曜日はハンバーグを食べてはならない。なんてものがあったな。と何時だったかに火曜日にハンバーグを食べているところを見つかった寮生がリドルに怒れているところを見かけたな。と過去の記憶を掘り起こした。
「ハートの女王の法律って訳が分からないですね」
「まぁ、そうだな」
ハートの女王の法律に従わなくてもいいユウと、従わないといけない立場にありながらも愚痴を零すことはしないトレイ。不満に思いながらも何も言わない二人の間に一瞬、沈黙が流れたもののトレイが静けさを破った。
「もうお菓子作りはいいのか? あれから教えてやれてなかっただろ?」
「あれ? もう大丈夫ですって連絡してなかったですか?! ごめんなさい!」
「もう作れるようになったのか? 炭じゃないクッキー」
「……先輩が把握してるレベルから上達はしてません。わたしにはお菓子の才能がないようで……」
がっくりと肩を落とせばトレイが愛想笑いを浮かべた。ハーツラビュル寮のケーキ作り班のメンバー曰く、生焼けになったスポンジも残さず食べろ。と、トレイは見かけによらず鬼指導をすると聞いていたが、そのトレイすらあの炭クッキーを食えとは言わなかった。
ユウの作ったお菓子がそれほどの出来だったと言うわけだ。
「まぁ、出来は、そうだな……」
「私もトレイ先輩みたいなお菓子のセンスを持って生まれたかったです」
「はは、――監督生、俺はお菓子の材料や技術を持って生まれてきたわけじゃないぞ」
「――っ!」
目が覚める思いだった。
才能やセンスという言葉でトレイの努力を見て見ぬふりをして来たユウの耳がじくりと火傷をしたように痛む。
「そう、ですよね」
そんな簡単なことにも気が付かなかった。と己を恥れば正面に座っていたトレイが席を立ち、ユウの隣に腰を掛けた。
「けど、監督生は確かにセンスはないな。努力してどうこうなる問題を超えてるんじゃないか?」
「も、もう! 先輩っ!」
「また一緒に作ろうな」
大きな手をユウの頭の上に置いてグリグリと無遠慮に頭を撫でるトレイはどこか楽しそうに見え、感染したようにユウも声を出して笑った。
もし兄がいればこういう感覚だったのかもしれない。なんて想像の中の悦に浸っていれば、騒がしい食堂にありながらユウの耳に響く靴音が一つ。
嫌に耳に入るその音に目を向けるより先に、ユウの顔にかかるように影が一つ出来た。
「なんだか見ない組み合わせだね」
「――! リドル」
「こんにちはリドル先輩」
「うん。ところであの二人は一緒じゃないのかい?」
リドルにまでそんなことを言われるとは、そんなにいつも一緒にいただろうか……いたな。とユウは息を短く吐き出したように笑い、首を緩く振った。
「二人とも用事があったみたいで」
「先生に呼び出されたとか、そういった用事だろうね」
「あはは……」
二人の名誉の為にと言葉を濁したユウの気遣いも虚しく、リドルはズバリと二人の本当の用事を言い当てた。
流石寮長と言うべきなのか、二人の印象が既にあまり宜しくないものなのか、どちらかと言えば後者なような気がして考えることを止めて、「全くあの二人は……」と溜め息を零しているリドルを見上げると、スレートグレーの瞳が訝しげな色に染った。
「ところで監督生、最近ジェイドと一緒にいるのを見るけど、大丈夫なのかい?」
ハキハキとした物言いをするリドルにしては、大雑把な問いかけだった。それは最早、“何がどう”なのかではなく、ジェイドそのものといて大丈夫なのか。という心配をされているような気すらして、ユウは眉尻を下げ乾いた笑いをした。
「大丈夫ですよ。特に何かされてるわけでもなく、むしろ沢山ものを貰ってます」
「キミに何もなければいいけど……相手はあのジェイドだから用心に越したことはないのはおわかりだね?」
まるで寮生に注意するような口ぶり。ちらりとスレートグレーから視線を外せばテラコッタとネイビーの二人が目に入り、じっと見つめれば腕で大きくバツを作っていた。
どうやらこちらに近付くつもりはないらしい。
「はい。寮長」
「よろしい」
「うちの寮生みたいだな」
「ユウがハーツラビュル寮だったら今日の昼食は厳重対象だけれどね」
テーブルの上に並んでいるトレーはいつの間にかすり替えられている。本当にいつの間にやったのだろうか、と内心驚きながらもへらりと笑っていれば、リドルが壁にかかっている時計をちらりと見上げた。
「トレイ、食後のレモンティーは飲んだのかい?」
「いいや、これからだ」
「そう。僕はもう頂いたから先に失礼するよ。監督生も、次の授業に遅れないように」
「はい」
コツコツと綺麗な靴音を響かせながら去っていくリドルの背中が見えなくなった頃、瞬間的にトレイと目を合わせて息を吐いて笑った。二人揃って肩を揺らし目を合わせて同じタイミングで息を吐き出した。
「ハハッ、先輩いつの間に動かしたんですか? 早すぎません?」
「リドルの足音は聞き慣れているからな」
「流石副寮長……あ、リドル先輩とは幼馴染ですもんね」
「まぁな。でもリドルの足音が区別出来るようになったのは、彼奴が寮長になってからだけどな」
眉尻を下げて困り顔を浮かべるトレイ。リドルのことだから何かしらの事件か何かがあったうえでの処世術なのだろう。にしたって靴音を判断出来るって相当気を付けているんだろうな。先輩方曰、いつも一緒にいるデュースとエースの足音を判断することは出来そうにない。
共に過ごした時間が違うのか、ハートの女王の法律の厳しさ故なのか。
多分どっちもなんだろうな。
この世界に来てまだ半年。余程特徴がない限り個人の足音を特定するなんて不可能だ。
それに個人の足音が分かるくらいこの世界にいるつもりもない。
「っと、俺はレモンティーを取ってくるが、監督生はなんか欲しいのあるか?」
「大丈夫です。私ももう行きます」
「そうか。今日はありがとう助かった」
「いえ、ハンバーグ、ありがとうございます」
ガタガタと椅子の足を鳴らしながら立ち上がれば、トレイが再びユウの頭に手を乗せてポンポンと撫でた。
「困ったらちゃんと相談しろよ」
「……はい」
ほろりと笑みを浮かべたユウはそのままトレイに頭を下げてトレー返却口に向かった。
購入時と違い人は疎らで、直ぐにトレーを返却したユウは、その足で次の授業の準備をしようと教室に向かうその途中の廊下を歩いていたその時、後ろから腕を引っ張られた。
「――っ! 誰!」
反射的に出た警戒心と威嚇が綺麗に混じりあった声色は鋭く硬い。
そんなユウを真綿で包むように背中から抱き締められ、不快感のあまり振りほどこうとするも、性差故に藻掻くことも叶わない。
恐怖する心を叱咤し、冷静であれと脳が訴えるその声に従うようにユウはぐっと息を殺し、藻掻くのを止める。
男の爪先でも踏んでやろうかと、足を僅かに上げた途端、耳元に落ち着きと甘さを伴った音が触れた。
「監督生さん。僕です」
「……ジェイド、先輩?」
「はい、貴方のジェイド・リーチですよ」
“貴方の”という単語に引っかかったが、そんなことを気にするよりもどうしてこんなことを――急に腕を引っ張るなんてことをしたのかが気になり、ジェイドに断りを入れ離れようとした。
「先輩? あの、そんなに力を込められると離れられないんですけど」
「離れなければいいと思いませんか?」
「ぅんえ?」
素晴らしく間抜けな声が出た。耳元で話して来る所為で息が掠めて無意識に反応してしまう。すると途端にジェイドに後ろから抱き締められているのだと実感してお腹から熱が駆け上がってくる。
心臓が大きく音を立てて内側から鐘が打ちつけて煩い。
「先輩、お願いです。離して」
「嫌です」
「そこを何とか」
「ダメです」
ギチギチと力を込め、頑なに離そうとしないジェイドをどうしたものか。何と言えば離してくれるのか。そんなことを考えていれば肩を掴まれくるりと向きを変えられ、視界一杯にナイトレイブンガレッジの制服が見える。おずおずと顔を上げれば冷たい目をしているジェイドと目が合い息を飲んだ。
話している時は声に温度が乗っていた筈なのに、なのに、どうしてこの人は今、こんなにも温度を失くした目で私を見ているのだろうか。
――どうして、そんなに心を殺してしまっているのか。
私は、どうしたらいいのだろうか。
ユウは反射的にジェイドの頭に手を伸ばした。
氷のように冷たい瞳が射抜くようにじっと見つめている。
縋るような手付きでユウはジェイドに手を伸ばした。その手はターコイズブルーの髪に触れる前に黒の皮手袋に捕まって、そのまま頬に導かれた。
手袋で覆われている手は体温を感じないくせに、見つめるその双眸は凍てついているのに、どうしてジェイドの温もりはこんなにも確りと感じられるのだろう。
「トレイさんと随分親密な様子でしたが?」
「仲は……多分いい方だと思います」
「こんな状況で、嘘でもそんなことないって言って下さらないのですね」
「それは私とトレイ先輩が過ごした時間を蔑ろにする返事だから出来ません」
それは誰かに譲れるものではない。と、きっぱりと否定したユウの言葉に傷付いたように眉間に皺を寄せるジェイドは、己の頬にあてがっている小さな手に擦り寄った。
それはまるで迷子のような危うさで、胸の奥が首を絞めれたように苦しくなる。
誰も見てくれないのだと諦めてしまっているような、見つけてくれる希望を捨ててしまったような仄暗さ。
そんなことないのに。こんなにも見ているのに。どうして伝わらないのだろう。
「先輩」
男の目元に影を作る睫毛がふるりと震えた。
「もし他の誰かに、ジェイド・リーチと仲がいいのか? って聞かれたら、私は絶対に仲良くさせて貰ってますって答えますよ」
目元に影を作る睫毛がもう一度震え、そして大きく目を開いた。
どうしてか、左右で色が違うその目を久々に見たような気がしてならないユウは、ジェイドの頬に触れていない方の手でオリーブの瞳に触れるように目尻を指の腹で撫でるも、ジェイドはそれに反応することはなく、寧ろユウの発言に驚いたまま固まってしまっている。
二秒程間を空け、唇がゆっくりと動いた。
「本当に?」
「本当に、です。どうして他人にジェイド先輩との仲を嘘つかないといけないんですか?」
「嘘ではないですか?」
「嘘じゃないですよ」
嘘、嘘じゃない。そんな水掛け論紛いなやり取りを数回重ねた上で、ジェイドは悲しげに目を細めてユウの頬を包むように両手で触れた。
ひやりと手袋の温度に一瞬だけ気を取られた。
「監督生さんは“お優しい”のですね」
「どういう意味――ッ」
ジェイドの顔が近付き影が濃くなった途端。前髪を上げられ、空気に触れた額に柔らかい唇が落とされた。
離れていく影に手を伸ばすも、影法師に触れることが出来ないままジェイドの背中は離れていった。