当たり前が低迷する衝動


 グリムのいない夕飯は久し振りだった。
 ジェイドと二人肩を並べてキッチンに立って料理を作る。時々肩が触れ合ったり、手が触れ合ったり。その度に「あっ」とか「すみません」とか言いながら照れ半分、反射で謝るのが半分のやり取りをしていれば、気を使ったのかオンボロ寮からゴーストの姿が消えていた。
 無駄な気を使わせてしまった。次からは気を使わなくていいよと伝えておかないとな。とぼんやり考えていたユウの耳にジェイドの声が届く。

「そう言えばプロジェクターは元々オンボロ寮にあったものなんですか?」
「いえ、エースの実家から持ってきたものですよ。あっちのスクリーンはデュースが」
「そうでしたか」

 テーブルに夕食を並べて席に着いた。ユウの目の前がジェイドの定位置になっていることに気が付いたが、それをわざわざ口にする必要も無いだろう、と両手を合わせた。

「頂きます」
「いただきます」

 ジェイドもユウの真似をしたように両手をあわせた。
 これはジェイドがユウからもらった新しい文化だった。命を頂くからいただきます。そういう意味だと教えてもらってから、ジェイドはユウとご飯を食べる時は文化に寄り添うように真似をするようになった。

「あの映画見ながら食べますか?」
「食欲無くすので遠慮します」
「フフ、監督生さんは繊細ですね。僕と同じです」
「ははは。笑えない冗談はやめてください」
「酷いですねぇ」

 どの口が繊細と言えるんだ。砂漠で干からびる程度を繊細と言うのなら、まだ私の方が繊細だわ。……いや、異世界に来てこうして生活を確りしている私は、案外図太い……? いやいや、一応女の子なんだから繊細でしょ。うん、そう。多分……あれぇ。自信がなくなってきたぞ。

「どうしたんですか? 監督生さん、百面相なんてして」
「繊細とは何かを考えてました」
「僕のような人のことを“繊細”と言うんですよ」
「ははは」

 それはない。
 心の内でばっさりと切り捨てたユウは夕食の手を進めた。ジェイドとの合作で作る料理はどれも外れたことはなく、最近では味付けはジェイドに任せ、味見もしないで食卓に並んだ湯気の立つ料理を食べるのを密かな楽しみにしているほどだ。

 そう言えば昔見たアニメ映画で、魔法で料理を作っていた話があったがあれはなんて名前のタイトルだったっけ。喉元まで出かかっている映画のタイトルが中々出て来ない。それはまるで喉に引っかかった小骨のようで、ユウは小さな不快感を覚えつつも、いつか思い出すだろうと目の前の食事に集中することにした。

「美味しいです。ジェイド先輩、流石です」
「ありがとうございます。監督生さんの好みの味付けはもう完璧に覚えましたよ。薄口の、素材の味がする方が好みですよね」
「はは。こっちに来る前は濃い味付けも好きだったんですけどね。こっちの世界は素材の味が美味しいので、すっかり薄味派になりました」

 噂によるとこの学園で食べられている食材の殆どが賢者の島で取れたものらしく、新鮮や野菜や生鮮食品を手に入れることが出来るらしい。
 どこの世界でも鮮度というものは大事らしい。ある意味“世界”の共通認識だ。

 ゆっくり食べるユウと、ハイペースで食べていくジェイド。先にフォークを置いたのはジェイドだった。それから五分もしないうちにユウもフォークを置いて、ジェイドの入れた食後の紅茶を飲んで一息つけば、ホッと息を吐いた。

「映画でも見ましょうか」
「キャシーが出てくるヤツですか」
「はい。借りて来ました。エースくんに」
「わーお」

 驚きを通り越し、最早映画に対する狂気なようなものを感じたユウは大人しくジェイドからDVDを受け取り、プレーヤーにセットした。エースが持って来たプロジェクターが、これまたデュースが家から持参したスクリーンに映像を投射させ、配給会社のロゴを映し出した。

「楽しみですね。監督生さんはもう何度か見ているんですよね」
「何度かっていうか、一回しか見てないですよ。パニックサイコホラーものなんて元々見ないですし」
「そうでしたか。この映画、キャシーさんも素敵なんですが、ダンも魅力的なので是非注目して頂きたいです」
「えぇ……ちょっと、凄く、いや、かなり嫌です」

 ジェイドはキャシーの咽び泣いている表情が良いと語った男だ。そんな男が違うキャラクターも勧めるとなれば、あまり良い結末を迎えないことは最早必須だろう。
 そんな登場人物を注目してみたいかと聞かれれば、見たくないと反射的に答えてしまうもので、ユウは大きなスクリーンから視線を移して、まだ煤汚れの付いている壁紙を眺めた。

 二人掛けのソファに並んで座る。お互いの間は拳二つ分程度で、ユウの左手にはジェイドの右手が重なっている。動かしてしまえば多分簡単に離れていくであろう、その大きな手は何故か離したくないと思わせる不思議な力を持っていて、壁紙に向けている意識が半分、重なっている手に残りの半分の意識を向けていた。

「監督生さん」
「何ですか?」
「昼間の件ですが」
「……はい」

 この状況で話すとは夢にも思っていなかったユウは、咄嗟にスクリーンを通り越して隣にいるジェイドに視線向けた。端正な横顔に光が反射して色んな色を僅かに重ねている。

「今日ね、僕、嫉妬したんです」
「しっ――」

「“ダン! ダン! 貴方こんなに臓物がッ! 確実に死ぬわ! 助からないッ”」
「“キャシー……俺の預金通帳は、ヘラに渡してくれ……浮気相手だ……”」

 ユウの台詞を遮って流れるキャシーの叫び声とダンの告白に、さっきまで話そうとしていた内容も、ジェイドが語った胸の内も忘れてしまいそうになった。
 ダメだ。この映画、わけがわからない。

「……あの、映画止めません?」
「続き、気になりませんか?」

 気になる。ダンが助かるのかも、キャシーとダンの浮気相手がどうなるのか。そもそもダンの怪我の原因が何なのか。気になり始めたら止まらなくなりそうで、それを見越しての中断の申し入れだったのだが、ジェイドの問いかけに首を縦に振れば当然のように、映画は次のシーンに進んで行った。

「食堂でトレイさんと親密なご様子で、嫉妬したんです。僕だってまだ一回しか監督生さんとあーんしたことないのに。しかも渋々です」
「状況が状況だっただけですよ」
「頭撫でられて嬉しそうでした」
「撫でられて嬉しくないことあります? 先輩だって私に頭を撫でてもらうの好きじゃないですか」
「僕は監督生さんだけです」
「えぇ……」

 何だろう。この浮気を問い詰められて弁解しているような空気感は。
 特段トレイとユウは男女の恋愛に発展するような間柄じゃない。ハーツラビュル寮に所属する生徒と仲が良いから、目をかけてくれるだけであって、それがなければ赤の他人も良いところだろう。
 良くて面倒見のいい先輩と、可愛げのある後輩という間柄だろう。それを説明するには当事者が足りない。

「えっと、ごめんなさい?」

 謝罪をしないといけないのかわからない中の謝罪だ。この際、疑問符が付いていても気にしないで貰いたい。こっちは謝罪する意味を見出していないのだから。

「誠意を見せてください」
「面倒くさ――誠意って?」

 此処で面倒くさいなんて言ったあかつきには、もっと面倒なことになる。オクタヴィネル寮生――アズールと双子と関わる時は細心の注意が必要だ。何処で上げ足を取られるか分かったもんじゃない。思い出せ。オンボロ寮が担保になった一連の出来事を。

「僕にキスをして下さい」
「嫌ですけど」
「酷いですっ! 僕、悲しくて涙が……」

 あからさまに傷付きました。と表情を浮かべたジェイドは大きな両手で顔面を覆い「しくしく」と声を上げた。肩を震わせ俯くその姿は、見る人が見れば明らかな嘘泣きだ。付き合いの短い生徒でもわかるような露骨な行為に果たして意味なんてあるのだろうか。とある者は問うのかも知れない。
 だが、この明らかな嘘泣きにだって意味はある。しかもジェイドにとっての大きな意味が。

「泣かないでください」

 例えジェイドが嘘泣きだとわかっていてもユウは声を掛けずにはいられなかった。
 男の本当の涙を見たことがないユウは、明らかな嘘泣きだと思っていても慰めずにはいられなかった。

 顔を覆う手に触れれば、びくりとジェイドの身体が跳ねた。顔を見たいと手を退かそうかとも思ったが、泣き顔を見られたくはないのかもしれない。
 泣かせたつもりは無いが、何かの発言がトリガーで泣いてしまったとなれば、その責任くらいは取らないといけないだろう。

「ごめんなさい。私の発言の何かがいけなかったんですよね。どうしたら泣き止んでくれますか」
「ではキスを」
「それは無理です」
「だったらもっと泣く他ありません。しくしくしくしく……」

 延々と泣き続けるジェイドと、キス以外の方法で解決しようと試みるユウ。これはもう我慢比べの域にまで達している。
 ――勝負に勝ったのはジェイドだった。

「……ハァ。わかりました」

 そう言うや否や、ユウはジェイドの顔を覆っている手を剥がして、涙一つ流れていないきめ細かいその頬に一瞬唇を落した。
 本当に僅か。掠れたと言っても過言ではない程微かに。

「これで泣き止んでくれますね。ま、元々泣いてないみたいですけど」

 恥しさでいつもよりも早口になる。頬とはいえ、家族以外の誰かにする初めてのキスは、想像の何倍も恥ずかしくも照れくさくて視線をジェイドからスクリーンに移せば、キャシーが濁流のような涙を流し、胃の中のものを吐き出さんばかりの勢いで嗚咽し泣いている。メイクは崩れるなんて表現では生易しいほど崩壊していて、ファンデーションを塗りたくった額が割れている。
 多分この映像が二人が気に入っているシーンなのだろう。なんて画面が強いワンシーンなんだ。
 さっきまでの恥しさはキャシーの顔面の前に風に飛ぶ塵のように消え去り、代わりにやっぱりジェイドもエースも感性が死んでいる。とユウがちらりとジェイドを見れば、男は頬を手で押さえたまま固まっていた。

「先輩?」

 自分から求めて来たくせに、実際にされると嫌だったとか? そんな話ある?
 そんな不安からジェイドの名前をもう一度呼べば、意識を取り戻したようにジェイドはユウを見つめ、刹那、少女の頬を両手で固定し顔を近付けた。

 ――は?

 無意識の反射でユウは迫り来るジェイドの顔を両手で止めた。

「何をするんです」
「いや、こっちの台詞なんですが?」
「キスです」
「していいなんて言いました?」
「してくださったので、もう合意でしょう」
「そんな馬鹿な」

 額にキスをされ、頬にキスをする。それはキスをしてもいいという合意に繋がるのか否か。傍から見れば合意になるような気もするし、ならないような気もする。ただ一つ言えるのは、何の感情も抱いていない他人にキスをするなんてことが果たしてあり得るのだろうか。

「抵抗しないでください」
「いやいやいや……」

 頬を固定していたジェイドの手が、己の進路を塞ぐユウの手を無理矢理剥ぎ取り、抵抗も成す術なく近付く顔に、ユウはきつく両目を瞑った。

 ジェイドの唇が触れたのは、予想外にも頬だった。

「唇にされると思いましたか?」
「え、あ……」
「期待されていたんですか? でもそれはまた今度。今は映画に集中しましょう」

 口付けを落された頬から熱が発せられているみたいに熱い。思わず当てた掌の方が冷たいのではないだろうか。

 ――キス、された。

 なんで、どうして。そんな疑問よりもユウの頭の中は、触れた瞬間の温もりと柔らかさが媚びりついていて、頬から伝播した熱が全身を駆け巡り、急速に体温を上げている。

 ――どうしよう。どうしよう……!

 どうしようとユウの頭の中は混乱を極めていた。不快だとどうしても思えなくて、それどころか、気恥ずかしいやら、照れるやら、心臓がバクバクしているやらと、一気に押し寄せて来た感情と胸の内側の鼓動に脳がショートしかける中、不意にジェイドの口付けの感覚が蘇って来た。
 あの子供のキスのような掠めるものではなく、柔らかい感触が確りとわかった。

 混乱し目を回しているユウを他所に、スクリーンにはスタッフロールが流れていた。