当たり前が蓄積する慕情


「小エビちゃんってジェイドとドコまでいってんの?」

 何もない放課後。部活動に励む生徒が多い時間でありながらフロイドは制服を着たまま学園内をその身体能力を生かして飛び回っていたところに、ユウと接触事故を起こしてしまい、今は中庭の木陰で休憩中に何気なく聞かれた問。
 余談だがエースは練習試合があるから気合を入れていた。

「先輩、寝苦しくないですか?」
「んーん。柔らかいよぉ」
「そうですか」

 足を崩して背の低い草の上に座るユウの太腿の上にフロイドの頭が乗っている。所謂膝枕というもので、二人の姿を見たナイトレイブンガレッジの生徒は唾を地面に吐き捨てた。イチャイチャしやがってくたばれ。と恨みが隠しきれていないのだが、相手が余りにも悪すぎる。いつ機嫌が悪くなるかわからないフロイドと、嵐の目と名高いオンボロ寮の監督生。当たらぬ蜂には刺されぬとは言ったものだ。

「それでぇー?」
「何でしたっけ、質問」
「小エビちゃん生意気じゃない? 絞めてあげよっか。ぎゅーって」
「すみません、遠慮させて頂きます」

 頭を僅かに下げるユウの耳に引っかかっていた髪がだらりと垂れた。それを摘まんだフロイドは人差し指と親指で擦ったり、引っ張ったりして遊んでいる。
 甘ったるい喋り口とは裏腹に、内容は悲惨なもので、フロイド曰“遊んでいた生徒”が、男の腕の中で白目を剥いている姿をユウは何度か目撃している。
 出来れば同じような被害には遭いたくないと考えるのは、生きる為の本能と言っても差し支えはない。

 結局その後、フロイドはユウの髪を両手で乱しに乱して、満足気に笑ったかと思えばいつもの調子で「飽きたー」と宣言して何処かに向かって歩いて行った。その背中には草やら土やらが付いて汚れてしまっていたが、魔法で綺麗に出来るようなのでユウはそっと見送るだけにした。
 獰猛な気分屋な猫……気分屋なトラやらライオンやらに懐かれたような心地だと、背中を眺めたが、獣人族ではないフロイドの頭には勿論耳なんてものはない。
 歩く度に揺れるターコイズブルーの短い髪は、空の色と言うよりも、大海原の色に見えて、やっぱりどこまで行っても海とは縁が切れないらしい。

 ――その日の晩。モストロ・ラウンジでの仕事が終わったジェイドを迎え入れたユウは、最早ルーティンとかした二人と時折一匹の時間の中で、不意に思い出した。
 太腿の上で寝こけているグリムの背中を撫でていたからだろう。

「フロイド先輩に何処まで行ったの?って聞かれたんですけど、それって賢者の島の話だったんですかね?」
「そうだと思いますよ」

 にこりと笑ったジェイドはソファからスラリと伸びる足を組んで、ユウの手を取った。

「何処かに出掛けますか?」
「出掛けてみたいです、けど……ちょっと怖いです」
「怖い?」
「……ここにいる人たち以外の人を見たら、改めて、私、違う世界に来ちゃったんだって実感しちゃいそうで」

 何を今更言ってるんだって話なのは分かっている。
 異世界に来て、その世界で生きる人と関わって。魔法が当たり前にある世界に生きていながら、知らない世界で生活しているのだと実感するのが怖いだなんて。
 だが、それはどうしようも出来ないユウの心根だ。これ以上この世界の知識なんて要らない。
 これ以上記憶を思い出にしたくない。

 俯くユウの髪にジェイドの手が伸び、顔にかかっている髪を耳にかけた。

「では、山に行きませんか?」
「山」
「はい。山の魅力は沢山ありますが、なんと言っても達成感がたまりません」
「達成感」
「はい。頂上から見る景色は、画面越しでは分からない美しさがあります」
「美しさ」

 オウム返しするユウを前にジェイドは、眉尻を下げ口の端を緩く上げた。困っているようにも見えるし、全く困ってないようにも思える。デフォルトの表情と言ってしまえばそれまでだが、その中でも微妙に違って見えるようになってきたとユウは自負していたが、どうやら思い上がりのようだ。
 フロイドだったら、今のジェイドの顔を見て何を考えているのかわかるかも知れないが、どうしてかユウの野内で再生されるフロイドは「わかるわけないじゃん。小エビちゃん頭おかしいんじゃない?」とかなりの毒舌で登場した。悲しいのはあの人だからな。と完結出来てしまうところだろう。

「山ってどこのですか?」
「初心者でも登れる山と言えば……双子山なんてどうでしょう」
「双子山。頂上が二つに分かれているんですか?」
「はい。右を冬の山、左を夏の山。それぞれ名前にちなんだ由来があるんですよ」
「登り易いんだったら行ってみたいです」

 街に出てこの世界の人たちの生活の一部を知るのはかなり怖い。イレギュラーなことが起こっている方が安心出来るなんてかなり狂っているのかも知れないが、これは現実ではないのかもと一瞬でも現実逃避しては、元の世界に心だけだけでも帰ることが出来るのだから。

「人に会わないのなら、行ってみたいです」
「では次のお休みに行きましょうか。グリムくんはどうしましょうか。オクタヴィネル寮で預かりますか? 皿洗いくらいなら出来ますよね」

 何かの気配を察知したのか、太腿の上で丸まっているグリムがびくりと跳ねた。狸やら猫やらと言われている小さな魔獣、しかも野生の本能がなくなりつつあるグリムにも、まだ危機察知能力は備わっているみたいだと、背中を一撫でして首を横に振った。

「グリムもお留守番位出来ますよ。多分。それにダメそうだったらエースたちに任せますし」

 まぁ何かしらの対価は要求されるかも知れないけど、この世界に来て初めての外出の代償だと思えばそう高くはないだろう。
 これで山登りの魅力が何一つとしてわからなくても、いい経験、いい勉強になったと思えば良いだけだし、悪い面なんてあまりない。うん、そうしよう。

 そう決意した週末。いつもよりも早起きをして、グリムの朝と昼ご飯を作り、山の中でも簡単に摘まめるようにと軽食を作って、ゴーストたちに子守り――基グリムの世話を任せてユウはジェイドの迎えを待った。

「ユウくんも隅に置けないねぇ」
「デートかい? 若い頃は僕もしたもんだよ」
「頑張っておいでよ」
「デートじゃないですよ。ただのお出かけ」

 デートと囃し立てるゴーストたちには悪いが、ユウは今回の山登りをデートとは認識していない。何処にも行ったことがないと話したついでに出た話題に乗っかっただけで、恐らくジェイドもこれをデートだとは思っていないだろう。
 もし本当にデートだったら、水族館とか遊園地とか、そういうレジャー施設に行くと思うし。ベタだけど。ベタ故に外しはしないだろうし。

「本当に〜? 照れ隠しとかしてない?」
「本当に」
「な〜んだ〜」

 ゴーストの姿になっても人の色恋沙汰は好きらしい。うようよと浮いている三体のゴーストがユウの周りを囲って、楽しそうにお話をしてくれる。
 玄関先でああでもない。こうでもないなんて話していると、オンボロ寮のチャイムが鳴った。
 ジェイドが来たんだとユウが扉を開ければ、山登り用の服装に身を包んでいるジェイドが驚いた表情を浮かべユウを見つめた。

「先輩?」
「……ちゃんと確認しないといけませんよ。僕じゃなかったらどうするんですか」
「あ、そうですよね。すみません。先輩だと思って何も考えずに開けてしまいました」

 このオンボロ寮に訪れる物好きなんて、身の回りの人間位しかいないものだが、それでもナイトレイブンカレッジは治安がいいとはお世辞にも言えない場所だ。
 今度からはちゃんと確認してから出ないと。
 ジェイドの指摘は尤もだと納得したユウが頭を下げれば、大きな手が慰めるように肩に乗った。

「反省して頂けたらそれで充分です」
「お嬢ちゃん、君とお出かけ出来るの楽しみで、今日早起きしてたんだよ」
「おや、それは嬉しいです。僕だけが楽しみなのかと思っていたので」
「っ! それは違います! 私だって今日を楽しみにしてましたから」

 咄嗟に否定した所為で語気が強くなってしまった。それがどうしてか恥ずかしくて、ジェイドの顔をまともに見ないままに俯けば、両隣にふよふよと浮いているゴーストが小さく息を漏らすように微笑んだのが耳に入った。
 あぁ、これはまた恋だのなんだのと言われるに違いない。そんな予想がついたが、とてもじゃないが顔を上げられる気がしなかった。
 だって、私の方が楽しみにしていたって遠回しに言ってしまったみたいだし、強ちそれも間違っていないところが弁明のしようがない。

「――嬉しいです。監督生さんも楽しみにして下さっていてくれたことが」
「は、はい」

 思わず見上げた先にあった赤く染まる頬を見て瞬間的に体温が上がった。
 嬉しいと思ってくれたのが嬉しいなんて、そんな……あぁ、今日はもうだめかもしれない。なんでこんな感情が湧いてくるのだろうか。
 だって、こんなの、まるで……。違う違う。そんなんじゃない。大丈夫。何かの気の所為。感情のバグ。アクシデント。久々の外出に浮かれているだけ。嬉しいの勘違い。

「デート楽しんできてね」
「だから――」
「ありがとうございます。“デート”楽しんできますね」

 ユウに両手でエアクォーツをしたジェイドは、ゴーストを一瞥してそのままユウの手を取って歩き出した。手を繋ぐという行為には慣れていたように思えたのに、ユウの心臓は忙しなく動き回っている。慣れたと思っていたのは、錯覚や気の所為だったようだと考える暇すらジェイドは与えてくれない。

「デート、楽しみましょうね」
「は、はい!」

 今更遅れてやって来た緊張に返事すら覚束ない。ミドルスクールか。とエースがいたら突っ込まれそうな程のユウの反応はジェイドを楽しませたが、その終わりは男の予想よりもずっと早くやって来た。

「先輩、今更ですが私登山用の一式持ってません。買いに行きますか? サムさんの所に」

 さっきまで顔を赤くしていた少女は、その影をすっかりと何処かに置いて来たように真顔で問うた。
 本当に一秒前まであんなにも視線を彷徨わせ、意を決したように見上げていたというのに。もしかして今歩いていた道にそんな魔法が仕掛けられていたとでも言うのだろうか。否、まだその方が説明がつく。
 立ち止まったユウの顔に楽しみである。と説明を付けても全くそうは見えないのだから。
 フロイドも気分野で、一瞬にして機嫌がガラリと変わる。ユウはそれを見ては、情緒が安定していない。と心底理解出来ないといった顔を浮かべているが、ジェイドからしてみれば、二人とも同じような生き物に思える。

 もしかしたら、自覚しているフロイドより、無自覚のユウの方が重症かもしれない。

「大丈夫ですよ。今、魔法で着替えさせちゃいますね」
「……此処で全裸になったりしないですよね? 大丈夫ですよね!?」
「はい。完璧に仕上げて差し上げます。ですが監督生さんが露出の趣味があるのであれば、そちらのお手伝いもして差し上げますよ」

 吝かではない。と胸に手を当てユウを覗き見れば、にっこりと笑っていた。

「ジェイド先輩?」

 少女の静かなる怒りをジェイドは初めて目撃した瞬間だった。