当たり前が伴奏する悪癖


 ナイトレイブンカレッジの正門を出る直前、ジェイドがアウトドアジャケットの胸ポケットからマジカルペンを取り出して、ユウに向かって一振りした。

Salagadoola mechickaboolaサラガドゥーラ メチカブーラ

 まるで歌うかのような軽い口振りで唱えられる呪文に、ユウは何が起こるのかとジェイドの動きに注目した。その瞳は輝きに満ちている。

bibbidi-babbidi-booビビディ・バビディ・ブー

 ユウの頭上でくるくるとマジカルペンで円を描くように回せば、光の粒が宝石部分から零れ落ち、ユウの周りを螺旋を描くように頭から足元に向かって落ちていく。
 すると途端にユウの服装が変わった。アウトドアジャケットにスエットトレーナー、ショートパンツにタイツと、まさにマジシャンのような早着替えにユウは目を輝かせた。

「先輩、魔法使いみたいですね!」
「一応魔法士を目指している身分ですからね。これくらいは」

 ミドルレイヤーの中を確認すれば、ちゃんとアンダーウェアまで着ている。
 腕を伸ばしたり、背中を見ようとして片足を無意識上げたりして十分に楽しんだ頃合いで、再びジェイドがマジカルペンを振るって、バックパックとキャップをユウに装備させた。

「今回は日帰りの登山ですので、鞄は少し小さめにしておきました」
「はい」
「監督生さんが作ってくださった軽食も鞄の中に入れておきましたので。あと水筒やタオル、怪我をした際の手当てキットも入っています」
「凄いです!!」
「知ってますか? 僕、魔法使いなので」
「ははっ、知ってますよ」

 賢者の島にある双子山までは公共交通機関を使っていくようで、ユウは一瞬不安に駆られたが、魔法工学が発達しているこの島の公共機関は全て魔法で動いていて運転手がいない。賢者の島の中を走るバスも電車も全てだ。
 休日の朝早い時間ということもあってか、バスの客はジェイドとユウだけで、そのまま終点の双子山麓まで着いた。
 スライド式に流れる景色は何処を切り取っても、元の世界とは似ても似つかないものばかりで、どうしてかユウは酷く安心しながらも、心とは裏腹にキャップを深めに被った。

「では、登っていきましょうか。今回は夏の山を登りたいと思います」
「はい先生、質問です!」
「はい、なんでしょう監督生くん」
「夏の山には何があるのですか?」
「ふふ、それは着いてからのお楽しみということで」

 登山道入り口には双子山の案内看板があり、遠目でそれを見つめればざっくりとした登山ルートがわかり、道のりもあまり険しいものではなさそうだし、これなら大丈夫そうだと息巻いでから二時間後。ユウは疲労を隠すことも出来ず、山の中腹辺りで立ち止まった。

「先輩、もう頂上に着きました?」
「あともう少しですよ」
「それ五分前にも聞きました」

 力なく太い木に身体を預けているユウは目が死んでいる。心も死んでいる。

「休憩にしますか?」
「う……っ」
「頑張りますか?」
「ガンバリマス」

 オンボロ寮の監督生、猛獣使い、魔法の使えない異世界人、または宇宙人などユウのことを指す名称はナイトレイブンカレッジ生の中でも群を抜いて多い。何かと目を付けられるジェイドですらそこまでの異名は持っていない。そんなユウの性格は奇想天外な発想をもった負けず嫌いだろう。
 抜け目がないわけじゃない。納得の出来ないことについては譲れない性格で、それが負けず嫌いに繋がっていると言った方が正しい。

 では今回は何に拘って休憩をしないのだろうか。とジェイドはとぼとぼと歩くユウの背中に首を傾げた。
 ペースが落ちて帰宅時間が遅れるから? だったら確りと休憩して体力を取り戻した方が効率的だ。
 早く山頂の景色が見たいから? まだ明るい時間帯なのだから景色はまだまだ変わらない。
 疲れすぎて思考が低下しているから? それとも僕に気を使っている?

「僕のことは気にせず、監督生さんのペースで休憩に入りましょう」

 人の懐に入るのが上手いと評判のジェイドが算出した、ユウの性格も鑑みた答えは正しいものだと推測し、えっちらおっちらと歩く小さな背中に声を掛けた。
 ゆったりとした動きで振り返ったユウの顔は相変わらず死んでいて、これでは楽しめないだろう。と山を愛する会の会長らしく心配までしたジェイドだったが、ユウは頑なに首を縦に振ろうとはしなかった。
 それどころか――。

「このまま頂上まで行きます」

 ユウは頂上まで休憩なしで登ると宣言までしてみせた。

「どうしてです」
「何か負けた気がします」
「何にですか?」
「知りませんよそんなの!!」

 遂には逆ギレ紛いな発言をかまし、登山ルートを只管に歩き続ける。もうだめだ、とユウが弱音を吐いて立ち止まる瞬間はすぐにやって来るだろうと様子を見ていたジェイドだったが、何をそこまでさせるのか、ユウは口では弱音を吐いたものの、立ち止まることはなかった。
 滝があっても見向きもしない。花が咲いていても見向きもしない。石のドームが出来ていても関心を示さない。完全に濁り切ったユウの目は虚ろで、思わずジェイドがフロイドに助けを求めたくらい目から光を失っている。
 それでも前に進もうとするユウは何かに取り憑かれているようにも見えて、ジェイドはずっとマジカルペンを握り締めていたが、ペンは使用されることなく、二人は頂上に立つことが出来た。

「これが頂上!」
「はい。よく此処まで頑張りましたね」

 生気を失くし、ゾンビよろしく歩いていたユウの瞳には光が戻っている。それどころか、太陽の光を受けて輝く水面の光を、全て閉じ込めてしまったのではないのかと錯覚してしまう程に輝いてまでいる。

 賢者の島にある中でも標高が高い方ではないにしろ、頂上で見える景色は、学園から見える島の風景と全く違って見える。

 広大で雄大。眼下に広がる街並みはどれもがちっぽけなものに感じる。いつもよりもうんと空が近くて、手を伸ばしたらあの雲に触れるのではないのだろうかと、ここまで登ってきた達成感が告げている。

 届いてしまったらどうしよう。雲ってどんな感触なんだろうか。綿飴みたいに柔らかいのかな。それともホイップクリームのようにもっちりとしてるのかな。
 元いた世界では幼い頃に考えた雲について、今の歳になってもう一度夢を見るなんて、我ながら子供っぽいとは思うが、この世界は魔法があるのだから、夢ももしかしたら夢ではないのかもしれない。

「ふッ、はははっ!」
「先輩……?」

 夢想の中に入り浸っていたユウの思考を遮るように聞こえたジェイドの笑い声。
 空に伸ばしていた手を引っ込めて、後ろに立っているジェイドを見れば、何がそんなに面白いのか肩を大きく震わせて笑っている。それも珍しく、口を大きく開けてだ。
 ジェイドという男の性格は知っている。基本的に微笑んでいて、ハプニングすらも楽しめる冷静さを持っている、比較的大人しい人だ。

 ――それなのに。

 ギザギザの歯を隠しもしないで何がそんなにおかしいのか、声を出して笑っている。目尻には涙が溜まり、苦しいのかお腹まで抱え始める始末だ。

「監督生さんッ、貴方って人は……ンふ、面白い方ですね、ハハ」
「自覚がないんですが」
「それは大変よろしいことですよ」

 何が大変よろしいんだ。自覚なしの言動でここまで他人に笑われるなんて、自分の言動が常識を逸脱してるとしか思えない。
 いや、でも、この男の場合、感性が狂っているからな。寧ろそっちの可能性の方が高いかも。

「なんでそんなに笑ってるんですか」

 ユウが思っているよりも拗ねた口調になってしまった。全ての音を出し切ってから口元を咄嗟に抑えるも、一度口から出た台詞は戻って来ることはない。
 ユウは一瞬しまった。と表情を出しジェイドを一瞥すれば、一頻り笑って落ち着いたのか、目尻に溜まった涙を拭っていて、ユウの心配が杞憂に終わったことを察した。

「あんなに死にそうな顔をしていたのに、まさか、ここまで歩ききるなんて」
「えっと……」
「全く貴方はいつだって僕の予想を裏切ってくれる」

 皮肉な程に長い脚が動き出し、空を背景にしているユウの前に立つと、するりと丸みを帯びている頬を掌で包んだ。手袋という壁がない今、直にジェイドの体温を感じることが出来、慣れない体温に内側の熱が声を上げる。
 ただ触れ合っているだけ。それなのにどうしてこんなにも胸の奥底が小さな爆発を繰り返して、苦しくなるんだろう。掌に触れあっている頬に全ての神経が集中したのかと疑う程、意識がジェイドに向かっている。

 全身が、熱い。

「好きですよ。貴方のそういうところが」

 囁くように紡がれた愛の告白は、音に熱を乗せてユウの耳殻を震わせた。
 嬉しい、嬉しくない。ドキドキする、嫌な予感がする。信じみてみたい、信じられない。
 熱を上げていた情が急激に冷めていく。二律背反の感情が濁流のように押し寄せ、何が正しいのか判断が出来ない。

 見上げるジェイドのヘテクロミアはとろりと蜂蜜のような甘さを含んでいる。ねっとりと絡みつく蜜はユウの息をじわじわと奪っていくようで、短い息を繰り返した。

「それは、本当に、好意……なんですか?」
「好意? 恋慕という意味ですか? それとも愛情という意味ですか?」

 ジェイドの両手でユウの顔を挟むように掴むと、身長差を全く考慮していないジェイドがユウの顔を引き寄せ、爪先立ちになって震えるユウの額に、一つの口付けを施し、額を重ねた。

「どういう意味だろうと変わりません。僕は貴方という存在を手に入れたいですし、手放すつもりもありません」
「――!」
「僕は貴方の全てが欲しいんです。これが恋と……愛というものでしょう」

 恋とは何か。愛とは何か。それを語るにはあまりにもユウには経験がなさ過ぎた。それでも、ジェイドがユウに向ける感情が、恋や愛という言葉に収まらないことを理解することは出来る。
 ジェイドの口から語られるのは、愛という小綺麗な感情に隠している執着だ。人魚はこの執着を愛と呼んで歌を歌っているのだろうか。いいや、きっと違う。ジェイドは知らないだけなんだ。恋とは、愛とはどういう感情なのか。
 だが、それを伝えるにはユウは何も知らな過ぎた。

「ねぇ、監督生さん。早く僕のものになってください。そうして僕を楽しませてください」
「……私は、ジェイド先輩の番にはなれませんよ」
「まだ分かりませんよ。時間はあと三か月も残っていますから」

 流れ星に小さな希望を託す少年のようにジェイドはユウに強請った。
 何処までも身勝手で己の欲に忠実で誠実な願いを。それを叶えてくれるのはこの世でたった一人しかいないのだと、言外にジェイドはユウを追い込んだ。

 三度目の満月が夜空に浮かぶ時、この関係はなんて言う名前に変わっているのだろうか。
 近い筈なのに、果てしなく遠い未来のようにも思えるその日を思い浮かべ、どっと押し寄せた疲れに誘われるようにユウはそっと目を閉じた。