当たり前が相対する動脈


「ところで、夏の山の意味ってなんですか?」
「んふッ、それはですね――」

 額が重なっているままの至近距離にも関わらず、ユウは平常時となんら態度を変えない。よく言えば落ち着いている。悪く言えば感情の揺れ幅が小さく、人によっては欠如しているようにも思える。だが、ジェイドにとってユウの反応は好ましいものだった。
 普通の人間とは、生き物とは……そんな常識を、ある種の固定概念を悉く撃ち砕いて行くその様は、見ていてとても気持ちの良いものだった。

「夏の山と言われる所以は、道中にあったんですよ」
「え!? てっきり頂上にあるのかと思って一所懸命歩いちゃいました。言ってくれても良かったのに……!」
「そんな! あんなに真剣に歩いている後ろ姿を前に、あの光景が所以なんですよー、なんて、とてもとても」

 ユウの頬を挟むように触れていた両手を離して、小さな歩幅一歩分くらいの距離をあけながら、首を横に振って眉尻を下げた。困りました。と顔が語っているが、その実何も困ってなんかいないことをユウは経験から知っているし、人の反応を楽しんでいるだけだということも知っている。
 やはりこの男に、好意なんてものを抱かれているのは何かの間違いか、勘違いのようにすら思える。

 ユウが知っている人魚と言えば、一般的にアンデルセンの書いた人魚姫が有名だろう。幼い頃に何度も絵本を読んで貰ったらしい。その時の記憶はないものの、話の内容自体は大まかに覚えている。
 王子様に恋をした人魚姫が、魔女と契約し声を失う代わりに脚を手に入れ、最後は泡になる。
 幼心にこれが恋というものなんだと、ぼんやりとでも恋の形を想像したものだ。

 ――恋ってもっと、温かくて、キラキラしているものだと思っていた。

「――監督生さん?」

 ジェイドの声にユウは、ハッと意識を目の前に男に向けた。気が付かないうちに考え込んでいたようだった。
 ひらひらと右手を動かして、屈んで下から覗き込んでくるヘテクロミアの瞳が余りにも近くて、ユウは思わず半歩後ろに足を引いた。

「あ、すみません。ボーっとしてました」
「疲れてしまいましたよね。休憩をしましょう。丁度風も吹いていて気持ち良いですし」
「はい」

 その辺にあった岩に腰を掛けて、バックパックからお弁当を取り出して、アルミ箔で包んだおにぎりを一つ、隣に座っているジェイドに手渡せば、首を傾げられた。

「これは?」
「おにぎりです」
「オニギリ、とは一体なんですか?」
「え……知らないんですか?」

 おにぎりを知らないなんて……。愕然とするユウはふと、この世界は自分が住んでいた世界とは違うのだから、おにぎりという食文化がないのかもしれないという可能性を思いついた。
 食堂やオンボロ寮で食べるご飯が、あまりにも馴染み深いものばかりだから忘れていた。

「私が住んでいた国で食べられているご飯の一つですよ」
「なるほど。これが……可愛らしいですね」
「私の手が小さいので、このサイズでしか握れないんですけど、お父さんが作るおにぎりは、もっと大きくて、一つでお腹いっぱいになっちゃうくらいです」
「監督生さんは小食ですからね」

 食べ盛りの男子学生が一目置くくらいの大食漢であるジェイドに比べれば、大半の人がジェイドの言う小食に該当するに違いない。
 呆れた半分の愛想笑いを零しながら、おにぎりを包んでいるアルミ箔を剥がしていけば、のりに巻かれた角の丸い三角形のおにぎりが顔を出した。
 中身は、グリムのツナ缶を拝借して作ったツナマヨと夕ご飯の余りのから揚げ。本当は梅干しやおかかとか定番の具を入れたかったけど、冷蔵庫の中にそれらの具材がなかったのだから、仕方がない。次回にしようと潔く諦めた。
 おにぎりを何口か食べたユウは思い出したように、半透明の四角い保存容器をバックパックから取り出し蓋を開け、小さなフォークをジェイドに向かって差し出した。

「ありがとうございます」
「先輩の手にこのフォークは小さすぎましたね」
「僕もおにぎりを握ったら、監督生さんのお父様のように大きなものが出来てしまうかもしれませんね」
「ジェイド先輩の手は、うちのお父さんの手よりも大きいと思うので、もっと大きいのが出来上がってしまうかも」
「今度、オンボロ寮で作ってみてもいいですか?」
「是非! 色んな具を入れておにぎりパーティーをしましょう」

 保存容器の中には、甘い卵焼きと出し巻き卵、たこさんウィンナーに小さいサイズのハンバーグと彩り豊な温野菜。
 大食漢のジェイドには些か足りないメニューだったが、軽食としての食事と考えれば、十分すぎる量を用意している。
 オンボロ寮の経済事情は凡そ把握している。カツカツとはいかないまでも、切り詰めた上での贅沢が月に一度許させるくらいだ。
 そんな中で、食べ盛りよりも食べ盛りの男の胃袋を満たそうものなら、月に一度の贅沢すら危ぶまれる。
 それを十分に理解しているジェイドは、内心ユウを底なしのお人好し。と一蹴しながらも、胸の内からじんわりと滲み出る温かみに首を傾げ、自然と口を開いた。

「ありがとうございます」
「うん?」
「――いえ。おにぎりは初めて見ましたけど、この世界にもあるかもしれませんね。同じものが」
「リリア先輩とかに聞いてみようかな。色んな国を訪れたことがあるって前に聞きました」

 もしかしたら元いた国と同じような場所があるかもしれない。
 もしその光景を目にした時のことを考えると、どうしてかユウの気が沈んだ。きっと嬉しいと思える。だけど眼前の光景は似ていて非なるもの。本物を贋作の違いがある。

 この世界に私はたったの一人。
 知っていることは何もない。私を知っている人は何処にもいない。血が繋がった親族がいる訳でもないし、親友がいる訳でもない。魔法なんか使えないし、私の知識とこの世界の知識は異なるし、噛みあったことなんてない。

 なんで、“私”がこの世界に飛ばされてきちゃったのかな……。

「そろそろ移動しましょうか」
「はい」

 最高の不運と呼べばいいのか、最高の幸運と言えばいいのか。どちらも気の持ちようだとするのならば、ユウにとって、異世界に来てしまったことは、人生最大の不運だった。
 平凡に生きていたい。そこそこの大学を出て、就職して、慎ましく暮らす。休日は友達と買い物に行ったり、一人でのんびり過ごしてみたり、恋人を作って細やかなやりとりに胸を躍らせてみたり。そんな生活を送るものだと思っていた。

 登りと同じようにユウを先頭にして来た道を引き返して行く。
 今度はちゃんと周りの景色を見て歩こうと、景色が変わる度に辺りを見回しては、夏の山と呼ばれる所以を探し、見つからず、後ろに立っているジェイドを見上げては、どうなんだ。と目で語りかけていた。

「もう少し先に小道に入る分かれ道があります。そこを入って行けば自ずと見えますよ」
「わかりました」

 ジェイドの言葉通り、木々が生い茂る山の中に入る小道が見えて来た。ジェイドに確認を取って、頷くのを確認してからユウは小道に入って行った。
 山道から一本逸れた小道は予想以上に歩き難く、ユウの体力を遠慮なく奪っていくのがわかる。舗装なんてものは勿論されていない。立派な木の根が一部、徐に盛り上がっている上にゴロゴロと小石が転がっている。歩き難い道は本当に間違いがないのだろうか、とジェイドの方を振り返る余裕すらない。

「はぁ……はぁ、きっつ……ッ」
「あともう少しで見えてきますよ」
「あと、少し……って、どの位ですか」

 慣れない歩き難い道に息をあげるユウとは対照的に、ジェイドは息をあげる様子すらない。これが経験と体力の差なのだろう。

「本当にあともう少し……ほら、あそこです」

 後ろから肩に手が置かれ、立ち止まれば視界の端から腕が伸びて、ジェイドの指先に促されるように視線を向ければ、黄色、緑色、赤色、水色……と色豊かな羽を生やした小人のような存在があった。
 その姿はフェアリーガラの時に見た妖精のようで、ユウは咄嗟に息を殺した。

「あれは夏の訪れを告げる妖精。夏の妖精とも呼ばれる種族です。彼らは亜種ですがね」
「亜種?」
「監督生さんは、夏の妖精という存在はご存知ですか?」

 授業でも聞いたことがない種族の名前に、首を横に緩く振るった。

「夏の訪れを告げる。その通り、この賢者の島に夏を運んで来てくれる妖精です。とはいえ、彼ら自体が何かをするわけでもなく、春の終わりから初夏にかけて街に彼らの鱗粉が落ちていたら、夏がやってくる合図。くらいの認識だそうです」
「自然のサイクルの一つ、ってことでしょうか?」
「その認識で間違いありません」

 池の中で水遊びをしている妖精は、無邪気という言葉を体現したような無垢さだ。
 妖精と言われる種族は、フェアリーガラの時くらいでしか関わったことがないけれど、どの妖精もその瞬間を楽しんでいるように見えた。

 そう言えば、亜種というのはどういう意味なのだろうか。

「亜種というのは?」
「彼らの先祖は大昔にこの山に定着し、街には降りて来なくなりました。飛び回るのが生き甲斐のような妖精なのに。なので大昔の人々は、この山を夏の妖精が住み着いた山という意味合いを込めて、夏の山。と呼ぶようになったそうですよ」

 そんな歴史があったとは……。魔法史の授業では習わないような小さな山の所以をも知っているジェイドは、流石山を愛する会を発足させただけある。と妙な納得感を得たまま、水遊びに勤しんでいる夏の妖精を眺めていれば、耳元でジェイドが囁いた。

「此処で待っていてください」
「はい? ……え?」

 どういうことなのだろう。と、勢いよくジェイドの方に振り向くも、既にジェイドは夏の妖精に向かって歩き出している。一体何をしようというのだろうと、声を掛けても良いのかわからないくらいの緊張感に、ユウは無意識に息を殺し、じっとジェイドの背中を見つめていれば、妖精に近付き、目にも留まらぬ速さで妖精の羽根を掴んだ。

「先輩?!」

 空いている手で、ポケットから小さな空き瓶を取り出し、その口に向かって妖精を上下に振った。

「ちょッ! 何してるんですか!」

 思わず駆け出し、ジェイドの腕を掴むもビクともしない。これが男女の差なのか。いや、そんなことよりも、妖精を離してもらわないと、あまりにも可哀想すぎる。
 必死に腕を引っ張るも、ジェイドは困ったように笑うだけで、妖精を振る動作を止めることはない。その所為で、掴まれている妖精が悲鳴を上げている。

「監督生さん、落ち着いてください」
「先輩こそ落ち着いてください。何をやっているんですか?!」
「何って……これは浮遊させるのに必要な妖精の粉です。素材です。僕は今、素材の収穫をしているんです」

 わかり易く、端的に、単語を強調された説明は、混乱しているユウの頭にもすんなりと入り、素材だったらいいのかな。と、ユウはジェイドの腕を掴む手を緩めた。とはいえ、元々ユウがジェイドの腕に力を入れていたところで、何の意味もなかったのだが。

「これくらいで大丈夫ですね」
「あの、丁寧に離してあげてくださいね」
「それは勿論」

 そう言いながらもジェイドは、ごみを放るような軽さで妖精を手放した。

「先輩!」
「すみません。僕、監督生さん以外の方に優しくする心の広さは持っていないんです」
「そんな言葉で喜ぶと思われたのなら、心外です」
「まさか! 僕の“本心”ですよ」

 エアクォーツの動きをしてみせたジェイドは、何を考えているのかわからない笑みを浮かべている。
 あの愛の告白が、本心なのかさえもわからない。ジェイドは己の心の内側を他人に見せるようなことはしない。そういう男なのだ。だから余計に疑わしく見える。

 ――信じられない。

 信じられないとはなんだ。信じなければいいのに。だってどうせ、いつかは元の世界に帰るんだから。どうして先輩の言葉を信じようとしないといけないの。

 私はもしかして、“期待”をしているの? あの愛の告白が、ジェイド先輩の気持ちが、愛と呼べるものであって欲しいと、期待し、願ってしまっているの?

 初めての登山をしたユウは、翌日、フロイドに「先日の返事ですけど、山に行ってきました」と報告すれば、大げさな溜息を吐いたフロイドに、こめかみを指の関節で捻じるように圧迫された。
 もう二度と、フロイドに報告をしないでおこうと、悲鳴を上げながらユウは誓った。