明日を見つめる翁草と手を繋いで


 学園長に頼まれたことを大まかに話すと、リドルは「ジェイドが適任なんじゃないか」と結論をだした。
 曰く。月光の採取方法はいくつかあるが、ポピュラーかつ単純なのが、海に反射した月明かりを海水ごと瓶に詰め濾過し、光だけを採取するというものらしい。
 次に深海の真珠は、海の魔女が売買を独占しているから、ミステリーショップでも手に入らないものらしい。これは本当に簡単なおつかいで、魔女に会ってマドルを渡せば完了するらしい。ただ、真珠は高価なもの故に、身を守る術を持っていないユウが一人で行くのは自殺行為と同じ。ボディーガードとして、人魚のジェイドを連れて行くのが最適解だ、とユウにわかるように説明をしてくれたお陰で、ユウは一つの疑問に辿り着いた。

「真珠の件はわかりました。学園長から薬ももらったのでジェイド先輩に頼んで一緒に行ってもらうことにします」
「はい。監督生さんとなら、何処にでも行きますよ」
「月光の方なんですけど、海水と月光を分ける際、魔法は使わないんですよね?」

 学園長が“ユウ”に頼んだくらいなのだ。魔法は使わないこと前提の話しに違いないと思っていたものの、リドルの説明を聞いた今、ユウの脳裏に拭えない不安が過る。
 濾過だって装置を使うんだろう。だから分離だって簡単に出来るに違いない。そうだ。そうだと言ってくれ。

 半ば祈るような心境でリドルに問いかけるも、スレートグレーの瞳が訝し気に歪んだ。

「何を言っているんだい? 魔法を使って分離させるに決まっているだろう」

 月の光にも海水にも魔力はないのだからね。そう付け加えたリドルは、ハッとし、眉間に皺を寄せた。

「なんで魔法を使うのに、魔法が使えないユウにそんなことを頼んだのだろうか」
「いや、ホントそうなんすよ。うちの監督生が困っちゃうのなんのって」
「監督生、大丈夫か? 魔法を使わないといけないんだったら、僕が力を貸すぞ! ……上手くいく保証はないが」

 分離させる為の魔法は何年生になったら習うのか、それもわからないユウたちは教科書片手に繰り返しやっていくしかないだろう。魔法の使い方が論外なグリムは置いておいて、今のところ大釜以外のものが出せないデュースと、風魔法が得意と言っているエース。どちらに頼んでも、二リットル以上の月の光に照らされた海水を用意する必要がある。
 トライアンドエラーでやっていくしかないのだろうか。

 絶望にも似た無気力さがユウの全身を支配し、ただ茫然と立ち尽くすことしか出来ない。

 ――そんな、まさか。
 学園長、まさかうっかりして私が魔法を使えないことを忘れていた……?
 いや、違う。あの人はこう言っていた“監督生くんが一人で出来ないようであれば、誰かに手伝ってもらって大丈夫です。生徒との友情を深める機会を与えるなんて”と。つまり、覚えている上で頼んだのだ。なんて奴。なんて烏。あのペストマスク仮面野郎。

「学園長は誰かに手伝ってもらっても構いませんよって言ってたので、そういうことだと思います」
「そうか。どちらにしてもジェイドの手を借りた方が良い。残念なことに分離の仕方を習うのは一年生の後半なんだ。うちの二人が予習をしていたら、出来たかも知れないけど……」
「確かにリドルさんはテストで一位以外の順位を取ったことはありませんね」

 ちらりとスレートグレーの瞳がテラコッタとネイビーに視線を向けると、二人は首を左右に振った。

「流石に何習うかなんて知らないっすよ」
「今日の授業に付いて行くのが精一杯の僕に、予習なんてとても……」
「全く。予習復習をしておけば、テストに困ることなんてなんだ。もし次赤点を取ったらどうなるか、おわかりだね?」
「はい! 寮長!」

 二人揃った返事に気を良くしたのか、リドルは息を吐くように笑って、次の授業に遅れないようにとだけ注意をし、自分の席に戻って行った。
 残っているジェイドに視線を向ければ、人受けの良い笑みを浮かべた男はゆっくりと腰を折り曲げてユウの耳元に唇を寄せた。

「では今夜」

 なんでもない連絡の筈なのに、いつもより艶っぽく囁かれるだけで意味合いまで変わったかのように思え、びくりと肩を跳ねたユウの顔に熱が集まってくる。
 艶めいた行為なんてほとんど何もしていない。それだというのに、どうしてか、ユウの心臓は大袈裟なほど大きく鼓動し、唇の隙間から漏れる息が熱くなる。

 ジェイドの宣言通り、月が僅かに昇り始めた頃にオンボロ寮のドアノッカーがコンコンと、軽い音を鳴らし訪問人の存在を知らせた。

「はーい」
「貴方のジェイド・リーチです。開けても?」
「どうぞー」

 確認しないで扉を開けたあの日から、このやり取りが加わるようになった。
 最初こそ、貴方のジェイド・リーチという言い回しに疑問を抱いたユウだったが、回数を重ねる度にそんな疑問すら抱かなくなった。

 解錠して扉を開ければ、にっこりと笑うジェイドの姿があり、ユウは無意識のうちに顔を綻ばせた。

「お疲れ様です。先輩」
「監督生さんもお疲れ様です」
「ありがとうございます。でも先輩ほど疲れてはいないですよ」

 来訪人を快く受け入れたユウと、勝手知ったるオンボロ寮と言った具合に我が物顔で歩くジェイド。どちらの姿もゴーストたちにもグリムにも見慣れた光景だった。

「今お茶の用意をしますね」
「いえ、実は提案がありまして」
「なんですか?」

 これまたいつものようにジェイドが持って来てくれた茶葉を掴んだユウの手に、大きな手が重なって動きをやんわりと制した。

「本当は学園でお伝え出来れば良かったのですが、準備にどれくらい時間がかかるか読めなくて、今になってしまいました」
「えっと……?」

 話の流れが全く読めないユウは、ジェイドの口から与えられる情報を上手く処理することが出来ず、首を傾げるしかない。

「月光、取りに行きませんか?」
「えっ?! 今からですか?」
「善は急げと言うでしょう?」

 確かに善は急げと言うけれども、今日の今日に取りに行くことになるなんて思いもしなかった。

「な……っ、う、なん……」

 何を準備したらいいのだろうか。海までどうやって行くのだろうか。月明かりが反射した海面まで行く手段は?
 色んな疑問がユウの頭の中を凄まじい勢いで駆け巡っていく。
 言葉に出来ないほどの驚きは、ユウの身体を支配したかのように硬直する。

「行ってみませんか? 僕と。今日は満月です。きっと、監督生さんは気に入ってくださると思いますよ」

 ゆっくりと雪解けを促す春の日差しのような穏やかさと、蠱惑的で魅力的な誘い文句に、時を止めていた好奇心がむくりと目を覚ました。

「……っ! 行きたい、です!」
「では行きましょう」

 部屋着のままだと風邪を引いてしまうかも。というジェイドの助言のもと、ジェイドの式典服を借りて外に出た。
 月が完全に天にまで昇ってはいないものの、宵闇の風は冷たく、オンボロとはいえ建物から外に出れば、多少の寒さを感じ、ユウはジェイドの式典服のローブを首周りを風から隠すように持って行くと、風が遮られ寒さが軽減し、温かさを感じられる。

「先輩、寒くないですか?」
「はい。大丈夫ですよ」
「寒くなったら言ってください。ローブ半分こにしましょう」
「半分こ……随分可愛らしい言い方をされるんですね」
「普通、では?」
「どうでしょう。少なくとも僕の周りに半分こ、なんて可愛らし言い方をしている人はいませんよ」

 確かに男子学生が半分こ、なんて言葉を使いそうにはないが、どうしてかユウの脳裏に「小エビちゃん」と甘ったるい音で名前を呼ぶフロイドの声が再生された。

「フロイド先輩とか言いそうですけど」
「フロイドは半分こなんてことは言いませんよ」
「と、言うと?」
「フロイドは己のモノと他人のモノを明確に分けているタイプですので、自分のモノを中途半端に分け与えたりはしませんよ。身内には特別甘いんです」

 フロイドの身内とは何処から、何処までの範囲のことを言っているのだろうか。
 家族だけ? それとも幼馴染まで? 友達? 部活の先輩、後輩? 明確な差は一体何処で生まれるのか、全くわからないが、家族でもない、幼馴染でも友達でもなく、部活の先輩後輩でもないユウは間違いなくフロイドの身内の中には入っていないだろう。
 悲しいとか、寂しいと思えないのが、ユウとフロイドの距離感である。

「身内には特別甘い、か……ジェイド先輩みたいですね」
「僕が甘いのは監督生さん限定ですよ」
「あはは、先輩は嘘つきですね」
「おやおや」

 何もジェイドが甘いのはユウに対してだけじゃない。フロイドやアズールにだって甘いところはある。その二人を差し置いて、特別だと言われるわけがないと、ユウが笑い飛ばせば、隣を歩くジェイドが困ったように笑った。

 オンボロ寮を背にして歩き始めてから数分。途切れることのない会話をしながら歩いていると、不意に二人の肩と腕が軽くぶつかった。
 そんなに近くにいただろうか。と思うよりも先にユウが僅かにジェイドから距離を取った瞬間。ジェイドの手がユウの指に絡まった。
 今にも解けてしまいそうなくらい緩く繋がっている手。もしここでユウが手を離してしまえば、ジェイドは手を繋いで来ないかもしれない。いつもと同じような会話をしていても、きっとこの名前のない関係性は明確に色を失っていく。

 思えば、ユウから手を繋いだことなんてなかった。
 手を繋ぎたいとか、繋ぎたくないとか、そんな理由じゃなくて、ジェイドという存在を受け入れていいものなのかがわからなかった。
 ジェイドを好きになれば、元の世界に帰りたいという気持ちが揺らいでしまうかもしれない。そうなった時、本当に世界を繋げていたか細い糸が完全に断たれてしまうような気がして、ユウはジェイドという男の存在を受け入れられない。

「先輩、綺麗な満月ですよ」
「はい」

 それでも、どうしてもこの手を振り解くことなんて出来ない。

 今にも解けそうな手を、ユウはその日初めて己の意思で強く握った。