明日を目指すルドべギアに笑って


 学園の正門を出るのは二度目のことだった。
 山に登りに行った日の出来事を思い出したユウは、「そういえば」と呟いた。

Salagadoolaサラガドゥーラってどういう意味なんですか?」
mechickaboolaメチカブーラという意味です」
「え? bibbidi-babbidi-booビビディ・バビディ・ブーは?」
「重要な魔法の言葉ですよ」

 「うーん?」と首を傾げるユウを横目に見たジェイドはクスリと静かに笑った。

 階段を下り、街を横目に海に続く小道を行く。遊泳禁止と書かれた看板を無視して進むジェイドの足取りは確りとしていて、罪悪感なんて微塵にも感じられない。本当に入っても大丈夫なのかと心配するユウを他所に、ガツガツと進み、小道から抜けた先に砂の上に佇む木造の小舟があった。
 オールが一つ。それ以外の部品は何も付いていないシンプルな作りの小舟が一隻。ジェイドに聞くまでもなく、今日の為に用意してくれたものだとわかった。

「これに乗ってください」
「はい。あの、ありがとうございます」

 街の中を通らなかったのは、ユウが山を登る前に怖いと言っていたからだろう。賢者の島の海水浴場は街の方にあると聞いたことがある。

 さり気ない気遣いに頭を下げれば、ジェイドは緩く口の端を上げた。

「なんのことでしょうか」
「いえ、気にしないでください」

 緩く首を振ってユウは小舟に手を掛けた。腕に力を入れて船を押すも、誤差の範囲程度にしか動かず、今度は足に力を入れて小舟を海に浮かべようと、言葉になっていない声をあげた。

「ふんぬぁぁあ!」

 動いた実感はあるものの、船はまだ半分以上が砂浜の上にある。これでは航海出来そうにない。どうしたものかと小舟から手を離して立ち尽くせば、脇腹を確りと掴まれ足先が砂浜から浮いた。

「きゃぁ!」
「おや、意外と可愛らしい悲鳴を上げるんですね」
「失礼過ぎません?」

 流れるように横抱きにされたユウはそのまま小舟の上に乗せられた。これで船の重さは人間一人分重くなったわけだが、これからどうするのだろうか。と、ちゃんと船を海に浮かべることが出来るのだろうか。と不安を隠すことなく砂の上に立っている男を見れば、ジェイドは胸ポケットから取り出したマジカルペンを振るった。
 すると途端に船は独りでに動き出し、寄せる波を掻き分けるように沖に向かって進み出した。
 ぐんぐんと進んで行く小舟の進行方向には、海面に映った月の光で出来た道がある。動き出した振動で転がって来た小瓶の中に海水事閉じ込めてしまえば良いらしいが、月の道まで余りにも遠く思える。

 あそこまでオール一本で行けと……?

 筋肉痛を超えて腕が捥げてしまう。せめてジェイドと交代しながら進みたい。
 ユウは振り返ってジェイドに提案しようとするも、当人の姿はそこにはなく、視線を左右に動かしてジェイドの姿を探すも何処にも見当たらない。

 もしかして、私、置いて行かれた? え? なんで? どういうこと? 新手の嫌がらせ? なんで?

 宵闇の中でぽつんと一人。その状況はユウの精神を何処までも不安定なものにさせていく。

 もしかして嫌われてる? 私がはっきりと返事をしないから? 付き合っていられなくなった? 私が、私が――。

 完全に波に乗ってしまった小舟は砂浜に引き返すことは出来なくて、かと言ってこのまま一人で月光を採取しに行く元気も気力もない。このまま広い海を一人で漂い続けていくしかない。
 自分の身体を抱き締めるように膝を立てたユウは、首をもたげて腕の中に顔を埋めた。
 ジェイドに借りたローブのお陰で寒さをあまり感じないのが、一人になった悲しさを助長させ、ユウはおずおずとローブを脱いで、畳んで隣に置いた。風で飛ばされないように手で押さえるも、さっきまでは感じなかった気まずさに、ユウはローブを触ることすらも躊躇い、体育座りをしたままローブから目を逸らすように、残った腕の中に顔を埋める。

 誰かに拒絶されるということが、こんなにも心の温もりを奪うものだとは知らなかった。
 胸の奥が締め付けられて苦しい。フロイド先輩に絞められた時よりもずっと苦しい。ううん。比較になんてならない。だって、今は苦しすぎて涙まで溢れてくる。

 告白の返事だって碌にしていないくせに。お試し期間なのに、ジェイド先輩のことを知ろうという努力をしなかったくせに。自分の気持ちの変化を後伸ばしで考えたりするくせに、嫌いにならないで欲しいなんて、側にいて欲しいなんて、いつから私はこんなにも我儘になってしまったんだろう。
 同じ気持ちを返せていないのだから、離れていっても仕方がないことなのに。それが叫びたくなる程に辛い。

「ジェイド、せんぱい」

 自然と零れた声は情けなく力の入っていない、無気力なものだった。
 誰に拾われることなく、この宵闇の中に消えていくだけ。その筈だったのに――。

「はい。貴方のジェイド・リーチですよ」
「ッ?!」

 近くで聞こえた耳馴染みのある声に、ユウは驚き顔を上げた。
 船縁に手をかけ、顔を覗かせるジェイドの耳には見慣れないエラがあり、皮膚の色は全体的に青みがかっている。アトランティカ記念博物館で見た時よりも、トーンが落ち着いて見える。

 夢? 幻覚?
 だって、先輩はもう帰っちゃったんじゃないの? あれ? なんで……。

 夢と現実の区別が出来ないでいるユウは、涙でぼやける視界をクリアにしようと、袖で拭おうとすれば、水かきの付いている手に止められた。
 瞬きを一度。衝撃で落ちた涙とクリアになった視界の先には、眉間に皺を寄せている端正な顔が一つ。

「…………せんぱい」
「はい。貴方のジェイド・リーチですよ」
「ばかっ!」

 弾かれたようにユウはジェイドの首に腕を回した。膝がぶつかりガタンと音を立てた小舟は揺れ、小さな波をたてる。

「ばか。ジェイド先輩のばか」
「あの、監督生さん?」
「……どこにもいかないでください。側にいてください」

 ぎゅうぎゅうと力一杯ジェイドを抱き締めるユウの声は、隠しきれないほど震えているのが自分でもわかった。

「…………監督生さんが望むのなら、僕はずっと、ずっと貴方の側にいますよ。貴方が望んでさえしてくれれば」
「……トイレは一人でしたいです」
「んふっ、仕方がないですね」

 ユウの頬に重なるエラが、ジェイドが喋る度に僅かに動いていて、本物のジェイドがいるのだと、ユウは口元を緩ませる。
 ほう、と息を吐いてジェイドの首に回していた腕を解いて、崩した身体を立て直した。

「すみません。突然、こんな」
「いえ。気にしないでください」
「ありがとうございます。……どうやってあそこまで行きましょうか」
「僕が誘導するので、監督生さんはそのまま座っていてください」
「わかりました」

 下手にオールを動かして、海の中にいるジェイドに当たったら危険だと、ユウは言われた通りに座り直した。すると、不意に小綺麗に畳んであるジェイドのローブに目が行き、厚みのある布に指先で触れるも、なんの罪悪感も感じないことに気が付いて、ユウはそのままローブを羽織った。
 磯の香りの中にジェイドの匂いが遠く感じ、ユウは無意識に口元を緩ませた。

 ゆっくりと、されど風を頬で感じる速度で進む小舟は、三十分もしないうちに目的地にたどり着いた。
 風で小さな瘤のように波立つ海面は真っ黒の色をしている筈なのに、月明かりに照らされているところだけ真っ白に見える。まるで道のようにも見えるその景色に、ユウが目を奪われた。

「今日は満月です。満月は一番月の光を集めやすく、素材としての価値が高いと言われています」
「だから先輩は、今日、誘ってくださったんですか?」
「はい。それに、監督生さんは自然なものを好む傾向が強いと思ったので」

 ユウは自分が自然が好きかどうかなんて、考えたこともなかった。それなのにジェイドは自身が考えて来なかったようなことにまで気が付いてくれる。
 己のことを蔑ろにして来たつもりはないが、自分のことを自分よりも慮ってくれる人がいる。

 胸が擽られるような感覚に、ユウは唇の隙間から息を零すように笑った。

「ありがとうございます」
「喜んでもらえたようで何よりです。手短に光を採取してしまいましょうか」
「はい」

 足元に転がっている小瓶を手に取ったユウは、コルクを外して月光で輝く海面に瓶を半分沈めた。
 酸素が抜けていく代わりに入って来る海水は、どうしてかキラキラと輝いている。
 手に持ったままの小瓶を目線の高さまで持ち上げて、瓶を軽く揺らせば、月光が混じった海水が小さな波を立てる。円を描くように回せば、小さな渦を真ん中に作りだす。あちこちに散らばる月の光がキラキラと小さな光を放っていて、凝縮された星空のようだった。

「綺麗ですね」
「気に入りましたか?」
「はい。とても」

 出来れば毎日この小瓶を眺めていたいくらいには。そう付け加えれば、ジェイドは眉尻を下げた。

「生憎、それは一晩が限界なんです。太陽光が少しでも入ってしまったら、月光は全て消えてしまうんです」
「儚いんですね」
「だから余計に魅入られるのかもしれませんね。手に入らないものほど、どうしようもなく手に入れたくなる」

 不意に何を考えているのかわからないヘテロクロミアと目が合った。
 いつものように笑みを浮かべているジェイドは、何事もなかったかのように唇を動かした。

「一つ、質問してもいいですか?」
「なんでしょう」
「先程は、どうして泣いていたのです?」

 聞かれたくない質問だった。上手く答えられないのはわかり切っていて、それを濁すようなことも出来ないユウは、視線を彷徨わせ、なんて誤魔化そうか。なんて考えていると、船縁に鋭い爪を持つジェイドの手が置かれた。

「ちょっと傾きますけど、気にしないでください」
「はい?」

 二本の腕力だけで海から上半身を持ち上げたジェイドは、そのまま小舟の中に胴体を下ろした。何処までが胴体なのかわからないが、長い尾びれが縁を越えて海の中に沈んでいる。
 てらてらと月の光を受けて輝く剥き出しの肌は何処を見ても青みがかっていて、人の身体にはない部位まである。
 様々と人とは異なる種族であると、この世界に来るまでは見たこともなかったその異端とも呼べる姿を前に、ユウは目を奪われた。

 ――綺麗だ、と。

 ジェイドの問いから逃げようと思っていた筈の心が、一瞬にして奪われ、気付かされる。

 私はまた、私以上に私を思ってくれている先輩の気持ちから逃げるつもりだったの? と。

 唇を噛んだユウは、ゆっくりと唇を動かした。

「後ろ、振り返ったら、ジェイド先輩がいなくて……私、怖かったんです」
「一人になってしまったと思ったからですか?」
「違います。ジェイド先輩に愛想と尽かされたと思ったんです」

 俯き膝の上で両手を握り締めているその手は、温度を何処かに置いてきてしまったかのように冷たい。

「先輩が側にいてくれなくて、拒絶されたんだと、知らない間に嫌われたんだと思ったら、胸が潰れてしまいそうなほど痛くて、苦しくて……。私、先輩に甘えてばかりいるのに、こんなの狡いですね」

 ぽたりと零れていく涙を水かきのある手が優しく拭うも、いつも以上に体温を感じない。それどころかひんやりとしている。

「監督生さん」

 温もりに満ちた声に、ユウは思わず顔を上げた。

「好きです」

 もう何度目になるのかわからない告白。恍惚とした色違いの瞳の向こうにはどろりと蜜が溶けている。それを怖いと思わないのは、ジェイドという男を知っているからなのか、自分も同じものを持っているからなのか。

「知っています」
「忘れないでください。僕は、いつでも、いつまでも貴方が好きですよ」

 すぐ傍で囁かれた愛の告白。目に入る美しい景色を脳裏に焼き付けるように瞼を閉じれば、唇が重なった。
 名残惜しいように離れていく唇を追いかけるように、ユウはジェイドの肩に手を乗せそのまま船の外へ押し倒し、自分も一緒に海の中に飛び込んだ。

 静かな宵闇の中に響く水飛沫の音の直後、泡が水面に浮かんでいく音がした。
 背中に回った腕に力強く抱き締められ、前後感覚がわからないまま浮上していく。

「なにを……ッ!」
「待っていてください。もう、逃げないから」

 元の世界に帰りたいと願う気持ちの一方で、認めないといけない芽生えてしまった心。
 そのどちらも手に入れることが出来ないのであれば、選ぶしかないのだ。
 ユウが掴める未来は、たった一つしかないのだから。

 ──そういえば、彼岸を過ぎたら海には入ってはいけないよってお婆ちゃんに言われてたっけ。
 あの世に連れていかれちゃうからって。

 この人の大きな手は、私をどこに連れていくのだろうか。