明日を夢想する雲南月光花に溺れて
太陽の日差しを浴びる前に月光と海水を分けなければならない。採取した素材を分離させるタイムリミットは一刻、一刻と近付いている。疲れたからという理由で時間を蔑ろにするわけにはいかなかった。
準備のいいジェイドは薬学室の使用許可を既に取っていて、ポケットから取り出した鍵でガラス張りの扉を開けた。
「寒くはありませんか?」
「大丈夫です。先輩が乾かしてくれましたから」
「ふふ、監督生さんはあんなに情熱的な方だったなんて、嬉しいです」
「情熱的……?」
何処の誰の話しだろうか。全く身に覚えがない。
薬学室の蝋燭に火を灯すジェイドのマジカルペンから出る光を、目で追いながら内心首を傾げれば、何がおかしいのか、ジェイドは小さく肩を揺らし頬を桜色に染めた。
「あんな強い抱擁をしてくださるなんて……!」
「どっちかっていうと、ジェイド先輩が離してくれなかったですよね。最後の方」
言いたいことを言えてすっきりしたユウは小舟に乗ろうと、ジェイドの肩に置いている手に力を入れて、腕を伸ばそうとするも、ジェイドの腕と尾びれが胴体から脚に絡まり、身動きが取れなくなり、そのまま暫く二人で海に漂ったのだった。
楽しくなかったわけではないのが、何だか悔しい。ユウは口を小さくすぼませ両手で持っている小瓶を適当な机の上に置いた。
「しかもキスまでしてくださるなんて」
「あれは……!」
「キスはキスでしょう?」
机に手を置いているユウの白魚の手と重ねるように、ジェイドは自身の手を重ねた。
巻き付いて来る腕と尾びれをいい加減に離して欲しいと、ユウが口を開くよりも先に、何を思ったのかジェイドの身体が反転し、抱き締められているユウはそのまま海に沈み、ジェイドが追い打ちをかけるように、潜っていった。突然のことに驚き、息を止めるも、肺の中に大した酸素は入っていない。となれば、酸欠になるのも必然。
限界が近いとユウが小さく開けた口から、最初の泡が零れると、ジェイドは見計らったように唇を重ねた。
それは人工呼吸ではない。悪意のない殺人的なキス。受け入れれば最後、ジェイドがつけ上がるのは目に見えてわかっている。それでもユウはキスを拒むという選択を用意されていない。
受け入れるのは当然だった。
「さて、濾過の仕方ですが、原理は至って簡単です」
「はい」
「先ず、このビーカーに小瓶の中身を入れます」
予め机の上に置かれていたビーカーに手を伸ばしたジェイドは、ユウの前にそれを置いた。コルクを抜いたユウは、海水をビーカーの中に入れれば、ジェイドがガラス棒を入れ、円を描くように掻き混ぜ始めた。
「こうして、光と海水を分離させていきます。この時に魔法を使うのですが、何の魔法を使うのか予想はつきますか?」
「変換、ではないですし、新しいものを生み出すわけでもないので、無属性の魔法ですか?」
「正解です。海水にも月の光にも魔力は付与されていません。なので、魔力を付与し、融合している素材を二つに分け、一つの素材として取り出すのです」
小さな渦を作るくらいの速度でガラス棒がビーカーの中を旋回している。
薄暗い室内に灯る蝋燭の光を浴びて淡いオレンジ色の海水の中でも目立つ月の光は、欠片のようにも見えるし、海を泳ぐ魚の群れのようにも見える。
ジェイドの指先から出るα波を肌で感じながら、月の光を眺めていれば、光の粒が次第に塊になり始めた。
「この位で大丈夫ですね」
「なんで塊になり始めたんでしょうか」
「無属性の魔力を帯びた粒は、近くにいる粒と一つになろうという働きをするんです。その方が沢山の魔力を自身に纏うことが出来ますから」
「素材としての自覚が芽生えた、ということですか?」
「フハッ!」
予想にもしなかったユウの一言にジェイドが咽た。
素材に自覚なんてものはないだろう。あの叫び声を上げるマンドレイクですら感情なんて崇高なものは備わっていないのに、明らかな無機物に自覚という概念を付着させるなんて、夢にも思ってみなかった。
「その通り……ふッ、ふふ、ですよ」
「違うんですね。わかりました」
「おや、折角面白かったのに。フフっ」
ガラス棒の刺さっているビーカーを机の上に置いたジェイドは、次に三角フラスコを用意した。濾過をするのだと察したユウはろ紙を取り出して折りたたんだ。
丸めたろ紙を受け取ったジェイドは、三角フラスコにセットしそこに月光混じりの海水をゆっくりと入れていく。ろ紙に海水が染みて、吸い取れなかった分の液体がフラスコの中に落ちていくが、小さな塊となった月光がろ紙に溜まっていく。最後の一滴。光を伴った海水がビーカーから落ちた。
ろ紙から海水が滴らなくなると、ジェイドは掌大の正方形の紙を取り出して、そこにろ紙に溜まっている月光を移し、紙を半分に畳むように持ち上げて小瓶の中に移した。
「これで月光が出来ましたよ」
「キラキラしてます」
「はい。この状態になった月光も太陽光には弱いので、確りと保護をしないといけません」
「なるほど」
ジェイドは取り出したマジカルペンでコルクを二回軽く叩いてから小瓶に栓をした。
なんの魔法を使ったのかはユウにはわからなかったが、β波――人属性の魔法を使ったことだけはわかった。
「このアタッシュケースに入れてください」
「ふぁい」
話しかけられたタイミングと、思わず飛び出したタイミングが絶妙にかみ合ってしまい、ユウは酷く間抜けで気の抜けた返事をしてしまった。
「す、すみません。折角手伝ってもらっているのに」
「いいえ。可愛らしかったですよ……あぁ、もうこんな時間になっていたんですね」
その言葉につられるように壁に掛かっている時計を見れば、何時間も前に日付を跨いでいたようで、あと三時間で夜が明ける時間になってしまう。今が何時なのか自覚してしまえば、自然と眠気がやって来る。明日は休校日で学校もないから夜更かししたって問題は何処にもないのだが、ユウの体力の限界はすぐそこまで来てしまっていたようだ。
立ちながら船を漕ぎ始めたユウは、何度か頭を振って頬を両手で勢いよく叩いた。
「寝てしまってもいいんですよ。ちゃんとオンボロ寮までお送り致します」
「いえ、先輩に手伝ってもらっているのに、私が先に寝るなんて、それでなくとも役になっていないのに」
「ふふ。では、小瓶をこちらに」
「はい」
アタッシュケースの中に小瓶を入れ一息つけば、気が抜けたようにユウは椅子に腰を掛けた。
普段だったら聞こえる喧騒も聞こえないこの空間は、賑やかすぎるほど静かだ。唯一今聞こえる音と言えば、ジェイドがアタッシュケースの金具を締めた音だだったが、そんなの一瞬で終わりを迎えてしまう。
嗚呼、ダメだ。椅子に座ったのが間違いだった。
早く、立ち上がらないと。本当に――寝て…………。
船を漕いでいた頭は、知らない間に大海原にでも出ていたのか、ユウはすんなりと意識を手放した。
「監督生さん?」
カタン。と音がしたと思いジェイドがユウに視線を向ければ、少女は机に突っ伏して小さく寝息を立てていた。
体力の限界がしてしまったらしい。
無防備にもあどけない寝顔を晒しているユウは、年の割に幼く見え、ジェイドは無言でスマホを取り出して、アプリを起動させるとシャッターを切った。勿論無音タイプだ。
ぺったりと机に頬を付けて眠るユウの隣に腰を掛けたジェイドは、それに倣うように机に頬を付けてみた。
「貴方の視界にはどんな世界が映っているんでしょうか」
今は閉じられているその双眸に、この世界はどんな風に見えているのだろうか。
何を見せても目を輝かせているその目は、純粋で、汚いものなんて見たことがないようで、ジェイドは時折劣情に駆られる。
濁りを知らない燦然と輝く宝石のようなソレを、曇らせてみたくもなく。どうしようもない絶望を与えてみたくなる。そうしたら、あの宝石は他人の目に価値のないものに下がるのだろうか。あの輝きをこの手に閉じ込めることは出来るのだろうか。
そう考えてはジェイドは思い直すのだった。
濁った瞳は宝石に戻ることはないのだと。
眠るユウの頬に掛かる髪を、耳の後ろに流れるように梳いて、ジェイドは空気に曝された頬に唇を落した。
「あの時、死ぬほど嬉しかったのですよ」
ジェイドはユウ身体を持ち上げて薬学室を後にした。
このままオクタヴィネル寮に戻るのもいいし、オンボロ寮に向かうのもいい。
どっちの寮で朝を迎えた時、ユウがびっくりするだろうか。そう考える時間は楽しく、ジェイドは腕の中で眠るユウを眺めながら暫く考え、オンボロ寮に足を向けた。
――オクタヴィネル寮で朝を迎えれば、間違いなくユウさんは面白い反応を見せてくれるはずですが、フロイドにまで、ユウさんの寝顔や寝起きの顔を見せるわけにはいきません。
僕ですら寝顔を見るのも寝起きの姿を見るのも初めてなのに。
紛れもない嫉妬心から、ジェイドはオンボロ寮を選び、立て付けの悪い扉を魔法で開け、二階にあるユウの寝室に足を向けた。
前に一度、オンボロ寮をモストロ・ラウンジ二号店にする為に視察として、全ての部屋を見た際、ユウの寝室と思われる部屋も見たのだ。場所は完璧に覚えている。
鍵もかかっていなければ、きちんと扉が閉まっているわけでもない。足先で扉を軽く蹴れば、金切り音を上げて木製の扉が開いた。
「んん……」
「煩かったですか? すみません」
ユウの意識が浮上したのは一瞬だけだったようで、すぐに寝息を立て始めた。
ベッドの上にユウを横たわらせ、その隣に寝そべったジェイドはユウを緩く抱き締めながら目を瞑った。
明日、ユウがどんな反応をするのか。数時間後を夢見てジェイドは眠りに就いた。