明日を眺めるチューリップに恋して
身体の上に何かが乗っかているような重みを感じてユウは目を覚ました。
珍しくグリムが身体に乗っかっているのだと、寝惚け眼でお腹に感じる重さを撫でれば、いつも感じるあの短毛特有の柔らかさがなくて、枕に乗せている頭を回転させるも、状況が飲み込めず、唸り声を上げた。
「ぅう……んー……?」
寝返りを打って頬を枕に押し付けると、圧迫感が何故か増して、これは只事ではないとユウは漸く瞼を開けることにした。
ぼやける視界が徐々にクリアになっていくと、ターコイズブルーの何かが見え、どういうことだろうかと瞬きを繰り返した。切れ長の双眸が閉じられているが、間違いなくジェイドだ。
――なんで。
なんでこの部屋にジェイド先輩がいるんだろう。いつの間にオンボロ寮にいたんだろう。魔法薬学室からの記憶がない。どうしよう。迷惑をかけた挙句に、寝顔まで見られた。どうしよう、いびきとかかいてなかった? 大丈夫?
混乱し硬直した体は金縛りにあったかのように動かない。これはもう、一周回って夢なんじゃないかな。うん。そう。これは夢だ。変な夢を見ているに違いない。もう一度目を閉じて寝て、また目を開ければいつもの光景に戻っているに違いない。
現実逃避とわかっていながらも、ユウは妄想に縋りつくしかなかった。
息を吐いて、身体の緊張を解してユウは瞼を閉じた。このまま寝てしまえばいける。と根拠のない自信に縋るも、寝られるわけもなく、ユウはゆっくりと枕から頭を上げた。
古びたマットレスに肘をついて腕一本で身体を支え、ジェイドの顔を覗き込む。
寝顔すら完成されている。と同じ生き物とは思えないな。と端正な顔つきと羨んでは、ジェイドが人魚であることを思い出した。
人魚という種族は揃いも揃って顔が良いのかも。
普段、じっと観察することは人道的に憚られる為、こんなにも間近で異性の、しかもジェイドの顔を見続けたことはない。長い睫毛が目元に影を作っているし、形のいい薄い唇が桜色に染まっている。枝毛という存在を知らないのではないかと思う程、髪の一本一本が生き生きとしているし、肌艶なんて比較するのもおぞましいほどきめ細かく潤っている。
耳朶に存在している小さな穴。普段チョウザメの鱗を加工したピアスが我が物顔で収まっているが、寝る前に外したらしく不在だ。
「あれ?」
よくよく見れば、耳全体が化膿しているかのように赤くなっている。腫れているわけでもないが、ジェイドの白い肌に赤はよく目立ち、ユウは小声で「失礼します」と声を掛けてから、肩まで被っている布団を捲ってみた。
何処から持って来たのか、襟元が寄れている寝間着から覗く首筋も不自然に赤くなっていて、こっちは軽い火傷のような状態になっている。
なんでこんなことになっているのだろうか。と考えるよりも先にユウはベッドから飛び出していた。
「こ、氷!!」
「かんとくせい、さん?」
「氷持って来ます!」
ジェイドの怪我に焦り、反射的に大きな声を出したユウは駆け足で扉に駆け寄り、廊下に足を踏み入れた。
その途中でジェイドの呼ぶ声も聞こえたが、必要最低限の会話にもならない単語だけを置いて階段を下って行く。
キッチンに行くまでの間にゴーストたちに「おはよう」と挨拶をされたが、精神的緊迫感に挨拶を返せることも出来ず、無言のまま走った。
薄手のビニール袋の中に氷と水を入れ、口をきつく縛ってからもう一度寝室まで駆け出した。
開きっ放しの扉から滑り込んで、悠々と朝の支度をしているジェイドにビニール袋を渡すも、男は小首を傾げるだけでユウが握っている氷入りの袋を受け取ろうとはしない。
「これは?」
「先輩、火傷してますよね? これ、応急処置程度でしかないですけど、しないよりはマシだと思うので」
「あぁ、それでコレですか。ありがとうございます」
袋を受け取ったジェイドは肩を揺らしながら、耳元と首筋に当たるように肩で袋を挟めた。
取り敢えず、これ以上酷いことにはならないだろうと、安心したのも束の間。ユウの頭の中に疑問が浮かびあがる。
「いつ怪我をされたんですか?」
「いつだと思いますか?」
「はぐらかさないでください」
「すみません。監督生さんの真剣な眼差しがとても好ましいものだったので、つい」
何となく、こういう時のジェイド先輩は本気ではぐらかそうとしているような気がする。これは経験則と呼ぶにはあまりにも経験不足だが。七割の勘と三割の経験。そのどちらも、ジェイド先輩は答える気がないと告げているのだ。
どうして答える気がないんだろう。理由もなくそんなことをするような人……ではあるけれど、少なくとも私を前にして、そんな意味のない悪戯をするような人じゃないのに。
――私が関わっているから?
ユウは一つの仮説に辿り着いた。
本人が深く関わるから、だからジェイドははぐらかそうとしたのではないか。
とはいえ、ユウの記憶の中にジェイドに熱湯ないし、何か火傷をさせるようなものをかけた覚えも、触れさせた覚えもない。何が原因なのだろう。肩と耳に挟まれている氷袋は汗をかき始めていた。
そう言えば先輩が怪我している場所って、私が触れたところだ。確かあの時、人魚の姿になった先輩と船の上で抱き合った時に触れていた場所……。
「先輩の火傷って、私の所為、ですね」
「どうしてです?」
「否定しないってことは、そういうことですよね」
私の所為でジェイド先輩が怪我をしてしまった。
自覚した瞬間から生まれる強烈な罪悪感と自己嫌悪にユウは顔を顰めた。
無意識に作った握り拳は力が入り過ぎていて、指先が真っ白になっている。
「違いますよ」
「違くないです」
うんと柔らかいジェイドの言葉を拒絶するかのように、ユウは首を左右に振って否定した。その声はいつになく固く、震えている。
俯き涙を流すことを堪えているユウに近付こうとジェイドがベッドから降りようとすれば、音と気配を察したユウは一歩後ろに足を下げた。
こんな時ばかり鋭い。とジェイドが内心苦笑いをし、手に持っているマジカルペンを振るい、ユウの背中にある扉を閉め鍵をかける。
「先輩ッ」
「僕から逃げようとする監督生さんが悪いんですよ」
「だって、私ッ、先輩が怪我していることに気が付けなくて……痛かったですよね」
「いいえ」
古びたスプリングが年季の入った悲鳴を上げる。絨毯の上を歩くジェイドの足音は殆ど聞こえて来ないが、一度だけ床が鳴った。
唯一の逃げ口は塞がれたユウに、退路はない。かと言って何処かに進むわけでもない。逃げ場を失った小さな身体は、罪悪感から逃れるように、踏ん張ることすら諦めたように背中を扉に預けたまま床にお尻を付け、しゃがみ込んだ。
痛くないわけがない。なのに先輩は優しいからそんなことを言うんだ。私が私をこれ以上責めなくてもいいように。でも、それでも、私は私を責めてしまう。だって、他人に怪我を負わせたのなんて初めてで、どうしたらいいのかわからない。しかも、先輩は種族が違う。もし、この火傷が一生の傷になったらと思うと、震えが止まらない。
吐き出す息が喉に詰まったように苦しい。でも、一瞬でも口から漏らせば、同時に涙が出てしまう。
それだけは、それだけはなんとしてでも阻止しないと。泣けばいいと思っているなんて、ジェイド先輩には思われなくない。
それなのに――。
「泣かないでください」
「ごめんなさい、私、私……ッ!」
堪えていたものが噴出したかのように、涙が次から次へと頬を伝う。謝罪する声も涙ぐんでしまい、取り繕うことも出来ない。せめて泣き顔を見られないように、顔を手で覆うも、ジェイドの大きな手がやんわりとユウのか細い手首を掴んだ。
「監督生さんが謝るようなことは何もありませんよ」
「だって、もし、痕残っちゃったら……」
「痕が残っても構いません」
「なんで……!」
思いもよらない発言に驚き咄嗟に顔を上げたユウの真ん前にジェイドの顔があった。
蜂蜜を垂らしたような甘いヘテロクロミアは、先程の発言が本心だと、心の底から思っているようで、ユウは目を張った。
「貴方に付けられた傷なら、僕にとって喜びなんです。そこに痛み何て存在しません。例えあったとしても、僕は、その痛みさえ愛おしいのです」
「わけが、わかりません」
震える唇をそのまま、ユウはジェイドを見つめる。
痛いものは、痛い。それが愛おしいに変わることなんて、あり得ない。
「わからなくとも良いのです。今はただ、僕の側にいてください」
「でも、治療が」
「そんなもの、後で魔法薬を塗っておけばどうとでもなりますよ」
「へ?」
扉に手を付け、囲うようにユウを閉じ込めたジェイドは、気分良くまろみを帯びている頬に唇を落した。
ちゅ、ちゅ。と可愛らしいリップ音が数回。瞼の上や額、最後にユウの唇にキスをしたジェイドは、丸まっているユウを持ち上げて、ベッドの上に降ろした。
「折角なので、監督生さんに塗ってもらいましょうか」
「私、魔法薬持ってないです」
「そうですね。買いに行きますか? サムさんの売店にも売っていますから」
「はい」
力強く頷くユウを他所に、ジェイドは細い肩を掴んで押し倒した。
急にブレる視界。気が付けばユウは再びベッドの上に寝転んでいて、数回瞬きを繰り返す。
うん? 今から、サムさんのミステリーショップに行くんじゃないの?
「折角の休日です。もう少し、ゆっくりしてからにしましょう」
「ダメですよ。早く処置しないと、本当に痕残っちゃうかもしれないです」
「そうなったら、僕のお嫁さんになってくださいね」
「そんな馬鹿な……」
そんな成り行きで結婚なんて嫌だ。と抗議をしようにも、ジェイドは何故か目を瞑ってしまっている。
「先輩、起きてください」
「眠っているので起きられません」
「がっつり起きてるじゃないですか」
肩を揺すってみるも、起き上がる気配なんて何処にもなくて、ユウは深々と溜息を吐いて身体の力を抜いた。
これは何を言っても無駄だ。知っている。これは勘とかそんな曖昧なものではない。経験則として知っている。フロイド同様、我を押し通す傾向が強いジェイドは、こうなったら何がなんでも寝ていると言い張るに違いない。
「一時間だけですよ」
「はい。もう少し、このまま、一緒にいましょうね」
そう言うや否や、ジェイドはユウを抱き締め、流されるままユウはよく鍛えられている胸板に頬を寄せた。すると、旋毛にジェイドは擦り寄り、二人はぴったりと隙間なく抱き締め合った。
「ふふ、この後は何をしましょうか」
「お薬を買いに行きます」
「その前に朝ご飯を食べたいですね」
「確かに……一緒に作りましょう」
「はい。喜んで」
「先輩、今日はモストロ・ラウンジのシフトは何時から入っているんですか?」
「午後三時からです。それまでは監督生さんと一緒に過ごせますよ」
背中に回る熱と、頬から伝わる熱。どちらも普段のジェイドからは感じることの出来ないものだった。
時折顔を上げれば、穏やかな瞳と目が合って、また温もりを求めて顔を埋める。
微睡のように穏やかな空間は、時間という縛りから二人を切り離したようだった。