明日を食べるヤドリギに囁いて


 週明けの月曜日。放課後にジェイドと共にユウは学園長室を訪ねた。
 半ば強引に頼まれたおつかいの内、月光が完成したからだ。

 その時に出来たジェイドの火傷は、ミステリーショップで買った軟膏を塗れば、一日で元の状態に戻り、ユウが安堵の息を吐いたのは今朝のことだった。

「学園長。取り合えず、頼まれたものの一つを持って来ました」
「……ん? あ、あぁ〜。はいはい。覚えてますよ。監督生くんに頼んでたんでしたっけ」
「学園長?」

 今の今まで忘れていました。とでも言わんばかりの反応に、ユウは眉間に皺を寄せて首を傾げた。
 この月光を今すぐ光の下に曝してやってもいいんだが? と言わんばかりの態度に、学園長は入学したての時はあんなに素直だったのに、今は見る影もない。と嘆いたのも束の間。
 人差し指の鈎爪で漢数字の一を書くように空間を切れば、窓という窓のカーテンが閉まった。瞬間、部屋の壁や、宙に浮いている蝋燭台に淡いオレンジ色が灯る。

「では気を取り直して。月光を見せてもらっても?」
「こちらです」

 ジェイドが手に持っているアタッシュケースを学園長に差し出せば、喜々としてケースを受け取り、早速金具を外して中身を取り出した。小瓶の半分程度に入っている月光。量の指定はなかったが、学園長が何も文句を言ってこないのを見れば、採取量に問題はなかったようで、もう一度夜に取りに行く、なんてことにならなそうでユウはホッと息を吐いた。

「これはこれは。この輝き、満月の月光を採取したんですね」
「はい。ジェイド先輩と一緒に」
「そうですか。でしたら、残りのおつかいもジェイド・リーチくんに同行してもらうと良いでしょう。あぁ、一生徒の友好関係まで気遣う私、なんて優しいのでしょうか」

 まるで自分で自分に酔いしれているような、気色の悪い発言を受け、ユウの目尻がぴくりと跳ねたが、この烏の自画自賛は通常運転だから、反応する方が体力の無駄なのだ。気にしない、無視をする。それが最適解だ。とユウは一度頷いた。

「あの、海の魔女さんとは約束をしているのでしょうか」
「いいえ? 向こうも商売をしているのですから、営業時間内に行けばいいじゃありませんか」
「そういうものですか?」
「そういうものです」

 予約なしで深海の真珠なるものが買えるのだろうか。と小首を傾げるも、商売と言われてしまえばそれまでで、ちらりと隣に立つジェイドを見上げるも、いつものように笑みを浮かべているだけで、特に何かを言うこともない。
 そういうものらしい。と半ば無理矢理納得すれば、ポン、と肩を叩かれた。

「ではそろそろ僕たちはお暇致しましょうか」
「あ、はい。失礼します」
「失礼します」

 仰々しくも重々しい扉の外は長い廊下が続いている。ワインレッドの絨毯を踏みながら学園長室に背を向け歩き始めると、どうしてか学園長の叫び声が聞こえ、咄嗟に振り返るもタイミングが悪く無駄に豪華な装飾が施された扉は閉まってしまった。
 中から「誰ですか?! 蛇……いや、ウツボの悪戯をしかけたのは! お陰で月光がちょっと零れたじゃありませんか!」と怒りの声が聞こえた。

「学園長――」
「ふふ、行きましょうか」
「え、あの、でも……」
「大丈夫ですよ」

 本当に大丈夫なのかな。完全に閉まり切ってしまった扉を開けるには、中から開けてもらうか、魔法で開けないといけないから、自力では開けることも出来ない。
 困惑したまま立ち往生しているユウの背中に、ジェイドの手が回り、寮に帰ろうと促してくる。
 ユウはジェイドと扉に視線を往復させたあと、曲がりなりにもあの人はこの魔法士成学校、ナイトレイブンカレッジの学園長なのだから自分で何とかするだろう。と考え、ユウはジェイドに促されるまま、もう一度扉に背を向け歩き出した。

 ナイトレイブンカレッジはいつだって賑やかで、遠かれ近かれ何処にいたって喧騒の声が聞こえてくる。普段から大人しいユウにしてみれば、一体毎日何にそんなに騒いでいるのだろうか。と笑ってしまうのだが、何処か羨ましいと思う感情もある。

 中学生の時、高校生の学校生活って毎日輝いているものだと思っていたな。
 実際、高校生になったと思ったら、何故か異世界に飛ばされたんだけどね。

 そんなこともあると笑ってしまえる程豪胆でもない。でも笑ってしまう程に毎日トラブルに巻き込まれて、ふと一人になった瞬間に元の世界のことを思い出しては涙を流した日々。いつしか、一人になっても涙を流すことは無くなってしまった。それは元の世界のことを忘れてしまったからではないけれど、確実に恋しいという感情は薄れてしまった。
 帰りたい。その意思は確かにあって、でもそれは恋しいからじゃない。白い服にこびりついた醤油の染みに似ている頑固な意地が、今にも揺らいでしまいそうになっている。

 ――もう、揺らいでいる。
 側にいたい、いて欲しいと願う人が出来た。その人は意地悪で、何を考えているのかわからなくて、近寄りがたいのかと思いきや案外甘えたで、でも甘えさせるのがとても上手で、スマートに我儘で、困っていると絶対に手を差し伸べてくれる、ちょっと……いや、大分普通とは違う愛情を向けてくれる人だけど、それでも、その人と過ごす一刻が穏やかで、でも心臓が忙しなく動いて。

 これは恋じゃないと誰が否定出来るのだろう。
 少なくとも私は、この気持ちを恋ではないと否定することは出来ない。

 私の歩幅に合わせて歩いてくれる優しい人。私より、私のことを慮ってくれる奇特な人。

 不意に見上げればジェイドと目が合い、ユウはへらりと顔の筋肉を緩める。無意識に口角が上がり、瞳が弧を描く。眉尻を下げて笑うのは未だに困っているからだ。
 恋しいと思う人が出来たからこそ、ユウは迷い続ける。

「僕も好きですよ」
「……私、先輩に好きって言ってませんよ」
「すみません。でも、目が僕のことを好きだと訴えていたので、つい先走ってしまいました」
「それは……困ります。あれだ、まさに目は口程に物を言うってやつですね」

 男から視線を逸らし、顔を進行方向に向け、緩む頬の筋肉に刺激を与えるように、ユウは指の背を頬に押し当て小さな円を描いた。意識して筋肉に力を入れて頬を軽く叩いて、もう一度ジェイドを見上げると、タイミングを見計らったように唇が重なった。

「……! 先輩!」
「他の雄の前でそんな顔はしないでくださいね」
「しませんよ。…………先輩だから、顔が緩んじゃうのに」

 拗ねたように唇を窄ませれば、一瞬だけ影が重なった。

 不意打ちで重なる唇は心臓に悪く、ユウの頬が一瞬で赤に染まる。
 恥ずかしさで右往左往する視線は、眉尻を下げ、水の膜を張った深い色の瞳でジェイドを捉える。引き寄せられるようにもう一度影が近寄れば、小さな手が二人の間に壁を作った。

「ふぁんとくせいはん?」
「ダメですよ。付き合ってもいないのに、キスなんて」

 掌の中でもごもごと動く感覚がくすぐったく、今にも離してしまいそうになるが、この手を離せばまたキスをされるのは何となくわかる。男女の恋愛について詳しくは知らなくても、空気は何となく読める。

 意地でも離さないと視線で訴えれば、ジェイドはにっこりと目を細める。

 ――あ、これ。わかってくれてない時の顔だ。

 自分よりうんと背の高い男の口を塞いだまま、ユウは半歩分足を後退させた。弱者が強者から逃げる時背中を見せてはいけない。死角に入れれば何をされるのかわからないからだ。本能と呼ばれるに近い危機感に、ユウはまさにジェイドという名の強者か逃げようとした。

 大丈夫。大丈夫。何も大丈夫じゃななさそうだけど、大丈夫。落ち着いて。私。

 自己暗示をかけるように、心の中で何度も逃げるイメージを繰り返す。そのどれもが失敗に終わっているが現実味を帯びていて、背中に冷やりと汗が伝う。

「先輩、悪いこととか、考えてないですよね?」
「いいえ」
「ああっ、その返事はどっちの意味なんだろう!」

 勿論考えていないです。という意味の“いいえ”なのか、考えている“いいえ”なのか。どちらとも取れる曖昧な返事にユウは一か八かで手を離した。そのまま脱兎の如く逃げてしまおう。
 そんな思惑は強者の前に呆気なく崩れる。

 キスを阻んでいた腕を掴んだジェイドは、そのまま引き寄せ流れるようにユウの腰に手を回して密着させた。

「ひッ――んん!」

 悲鳴すら飲み込むキスは角度を変え、唇を食み、ユウを道の世界へ連れ出していく。
 腰や項に回っている手が無遠慮にユウの身体を持ち上げる。ただでさえ爪先立ちになっているユウの片足は浮いているし、残っている脚は慣れない体勢に筋肉を震わせている。
 その様子をバルカスが見ていたら「筋肉が足らん!」と言っていただろう。いや、教師にこんなシチュエーションを見られたくはないが。

「せんっ、ぱい……ん、あし」
「ん? あぁ、すみません。無意識で」

 唇が解放されると同時にユウはジェイドに枝垂れかかった。

 何、今の……。あんなの、知らない。
 あんな、キス上級者みたいな……。というか、どうしよう。腰抜けた、かも。
 早く先輩から離れないといけないのはわかってるけど、足に力が入らないから、退くことも出来ない。多分、私邪魔だよね。
 ちらりとジェイドを見上げれば、白い頬を桜色に染めて口角を上げていた。

「デーティングとは、相手との相性を確かめる期間と言った筈ですよ」
「それって、性格とかの話しですよね……?」
「いいえ? 相性とは、全てのことですよ」

 そう言うや否や、腰を支えてくれている手がブレザーの裾の下に潜り込んでベストに触れる。拙いとユウが逃げようと、腰を前に突き出すも、目の前にはジェイドがいるのだから、逃げ切れるわけもなく、容易くベストの中に入った指先の感触がブラウス越しに感じる。
 指先で肌を撫でるジェイドの手付きが確固たる意志を持ち、ぞくりと項が逆毛立つ。

「そんな話、聞いてないですっ」
「おや? 何も言わずに僕と契約を交わしたのは監督生さん。貴方ですよ。今更契約を破る、なんてことはしませんよね」
「……悪徳商法だぁ!」

 兎に角ジェイドから離れたいユウが、ジタバタと自身を閉じ込めている腕の中で暴れると、すんなりと拘束が解かれた。

「もう監督生さんは僕のものですよ」
「だから、気が早いんですってば」
「いけない。ついうっかり、監督生さんが全身で好きだと伝えてくるので」
「そんな馬鹿な」

 今のは割と本気で嫌がっていたぞ。と眉間に皺を寄せ視線を向けていると、軽快な電子音が二人の間に立ち入った。
 スマホを取り出したジェイドは親指を動かして、そのまま端末を耳に当て、二、三誰かと話し終えるとすぐに通話を切った。

「すみません。用事が出来てしまいました」
「いえ、モストロ・ラウンジですか?」
「はい。監督生さんをお送りしたかったのですが。急ぎのようで」
「気にしないで行ってください」
「ありがとうございます。……では」

 背を向け歩いているジェイドが何処か寂しそうに見えるのは、気の所為、なのだろうか。
 もしかして自分がそう思っているから、相手にも同じような感情を抱いていて欲しいと、無意識にも思ってしまっているのかも。
 これは勘違いかもしれないけれど、そうじゃないかもしれないなら――。

「先輩、行ってらっしゃい」
「――! 行ってきます」

 今度こそ送り出したその背中には、もう寂しさは残ってはいないように見えた。