明日を蹂躙すクサギの糸を結んで


 思えば、あのジェイド・リーチと奇妙な期間を設けること早四か月。
 あのジェイド・リーチに絡まれる以外は穏やかに過ごして来たと、振り返りたくとも、最近どうも毛色が変わってきたな、なんて校舎の廊下から空を眺めていれば、飛来する影が一つ。

「小エビちゃーん」
「こんにちは」
「こんなところで何してんのぉ?」

 リブヴォールドの柱から顔を覗かせているフロイドは、どうにも機嫌が良いらしく、垂れ目で弧を描いている。

「こんなところでって聞きたいのはこっちですよ」
「んー?」
「そんなところで何してるんですか? そっちに歩くところなんてありましたっけ?」

 ユウが立っている場所は廊下だが、フロイドが立っている場所は柱の向こう――つまり外だが、一階ならまだしも、二人がいる場所は二階。外壁をちゃんと記憶しているわけではないユウだったが、それでも足場があったような記憶はなく、もしかして宙に浮いているのではないのかと思い、教材を両腕に抱えたまま、ユウがフロイドに近付こうとすれば、「よっ、と」と掛け声を入れたフロイドが、軽い身のこなしで腰壁にも満たない足場に両足を付けた。

「俺ねー、足を生やしてからパルクールするのはまってんだよね」
「パルクールって確か、あの忍者みたいな奴でしたっけ?」
「ニンジャ? 何それ」
「おっと」

 そう言えばこの世界に忍者はいないんだった。口を滑らせて要らない単語を言ってしまった。
 咄嗟に口元を隠しても、フロイドの耳には一字一句間違いなく届いたようで、子供のように純粋な瞳で小首を傾げている。

 ――怒ったらあんなにも怖いのに、なんでこんな不意打ちで可愛いのだろうか。大変狡くないか。

「忍者というのはですね……詳しくは知らないんですけど、スパイ的な役割を担っていたり、暗器を使って戦ったり、壁を走ったり、水の中に潜んだり、道具を使って空を飛んだりしたらしいですよ。所説ありますけど」

 歴史の授業にも出て来ない時代の影の立役者がどんな人達だったかなんて、詳しく調べようと思わない限り知りもしない。俗にいう創作物で取り上げられているから、何となくどんな役割を担っているかくらいを知っているだけだ。
 それをわざわざフロイドに伝える必要はないだろうと、所説ありとぼかした所為か、話を聞いたフロイドはあまり忍者という存在にピンと来ていないようで唸り声を上げている。

「え〜、魔法使えば全部出来んじゃん」
「私がいた世界には魔法がないので、出来る人は、すげぇ! カッコイイ! って言われてたんですよ」
「んー、じゃあ、魔法使わないでパルクールしてるオレ、カッコイイ?」

 下から覗き込むようにユウを見るフロイドは年上だというのに、幼さを発揮していて、ユウは反射的に首を縦に振っていた。

「先輩はカッコイイです」
「やったぁ。ジェイドよりも?」
「あ、そこは答えたくないです。どう答えても良いことなさそうなので」
「ちぇー。最近小エビちゃん警戒心強くなってね?」
「先輩方の教育の賜ですね」
「生意気ー」

 ジェイドと同じくらい大きな手がユウの頭を鷲掴んで、無造作に前後左右へ振り回す。三半規管がやられてしまう一歩手前くらいの速度を理解しているのか、天才的嫌がらせのセンスなのか。どこか親密みすら感じる戯れに、短く笑い声を零した。

「小エビちゃんこの後暇?」
「いや、授業がありますけど。普通に。というか先輩もありますよね?」
「暇だよな?」
「えー……強制じゃないですか……」

 これがエースが言っていたフロイド先輩の圧か……。
 部活をしている時、疲れて死んでいてもフロイドがミニゲームをやると言ったら、足が捥げていようが、腕が砕けていようが参加しないといけない。明日を生きる為にも。と言っていた。
 先輩の圧力超えて、最早パワハラじゃん。とエースの話を引きながら聞いていたユウは、部活動やっていないし、そこまで接点ないし、まぁそんな被害に遭うことはないだろうと高を括っていたというのに。まさかこんなところでフロイドに絡まれることになるとは……。

 さようなら魔法史の授業。私のマブたち。ちゃんと授業を聞いていてね。

 端から親分であるグリムを期待していない辺り、グリムという生き物のことをユウは正確に把握している。
 正直エースとデュースも授業中に寝てしまうこともあるが、メッセージをスマホに入れておけば、もしかしたら今日くらいは真面目に授業を受けてくれるかもしれない。
 淡すぎる期待を込めてユウは二人にメッセージを送った。

 “フロイド先輩に拉致られた”
 “あとは任せた”

 既読が表示されるのを確認出来ないまま、フロイドに腕を引っ張られたユウは人が行き交う廊下を歩き出した。
 授業開始三分前だというのに、廊下で生徒が屯している。予鈴ギリギリに教室に滑り込む生徒がいるのは、どの世界でも同じだけど、ここの学園の生徒はその数が異様に多い。
 堂々とサボる生徒に比べれば、出席するだけマシだろうけど。

 トレイン先生。ごめんなさい。人生初のサボりをします。責任は全てフロイド先輩が負ってくださいますように。

「先輩、何処に行く予定なんですか?」
「決めてねぇよ。小エビちゃんといたら楽しそうだなぁって思っただけだから」
「口説き文句がホストのそれ」

 まだまだ未成年であるユウは、お酒を伴う接待のお店に行ったことはないが、システムくらいは何となく知っている。
 店員が上手いこと言って、客にボトルを入れてもらう。故に容姿は勿論、口まで上手じゃないといけない。世知辛そうな界隈だと認識していた。
 もし仮にフロイドがホストだとしたら、持ち前の甘いマスクでボトルが飛ぶように入るだろうし、踏み倒した客から直接有り金を毟り取ることも出来る。集客も用心棒も出来るなんて一石二鳥だ。が、難点は気分にムラがあり過ぎることだろう。
 そう考えると、やっぱり向いていないのかも?

 アズールとつるみ続けている限り、天地がひっくり返ってもフロイドが夜職に就くことはないだろうが、他人の将来を好き勝手想像するのは案外楽しく、ユウは一人へらりと笑った。

「何一人でニヤニヤしてんのぉ? 行きたい所でも決まった?」
「へ?! あー、お散歩しませんか?」

 まさか顔に出ていたなんて思ってもみなかったユウは、咄嗟に口元を隠してフロイドを見上げるも、つまらなそうに眉間に皺を寄せて眉尻を下げ小首を傾げているだけだった。
 仲間外れにされた子供のような、幼い顔を前にユウは一瞬胸を痛めた。

「えー! オレ散歩の気分じゃねぇんだけど!」
「今日は天気が良くてポカポカで、きっと歩いてて気持ちいですよ」
「別に今じゃなくてもよくね」
「今しか出来ませんよ!」

 なんで私の方が積極的に授業をサボろうとしているんだろう。不意に脳裏に過った疑問は見なかったことにして、フロイドの背中に回り、壁のように大きな背中を両手で押せば、渋々と壁が前に動き出した。

 雪解けが進んで、まだ少し冷たい風と太陽の日差しは、凍える冬の間溜まっていた熱を放出するように、どうしてか浮足立ってじっとしていられなくなる。
 メインストリートの脇にまだ僅かに残る雪を横目に、早歩きでフロイドの隣を歩けばふらりと長い脚が進行方向を変えた。

「こっちに行った方が面白そ〜」
「いいですね」

 丁度サムが経営するミステリーショップに続く道だった。

「オレさ、ミント味の飴好き」
「私はー、うーん。イチゴ味の飴が好きです」
「へー。オレ今気分いいから、小エビちゃんに飴買ったげる」
「わーい。ありがとうございます」
「感謝して」

 長い脚でずんずんと歩くフロイドに置いて行かれないように、ユウも小走りで並走するが、基本的に体力が並しかなく、足の筋肉がそろそろ限界だと訴え始めて来た。
 ジェイドと歩いている時は、こんな疲労は感じなかったのに。とターコイズブルーの髪を見上げた。

 わかってたけど、先輩、ここまで速度落して歩いてくれていたんだ。きっと歩き難かっただろうに。

 これからはジェイドの歩幅に合わせられるくらい体力と筋力をつけようと、決意しバルカスの顔を思い浮かべる。

「あれ、ウミウマくんが外にいるの珍しいね」
「本当ですね。休憩中とかですかね。今授業中ですし」

 ミステリーショップの出入り口の前で日光浴をするように、両腕を上げて背筋を伸ばしているサム。
 何食わぬ顔で近付けば、二人に気が付いたサムがいつもの決まり文句を口にした。

「ようこそMr.サムのミステリーショップへ……て、小鬼ちゃんたち、今授業中じゃないのかい?」
「ウミウマくん、飴ちょーだい」
「それならいつもの籠の中に入っているよ」
「はーい」

 サムの問いかけを当然のように無視し、フロイドは扉の梁に頭が当たらないよう、気持ち身体を屈めて中に入って行く。どこまでも己のペースを貫くのは、どんな状況になっても変わることがないらしい。
 サムが教員ではないというのもあるが。

「えっと、お邪魔します」
「ようこそ。小鬼ちゃんは彼に連れられて来たのかい?」
「はい」

 眉尻を下げて小さく笑みを浮かべて頷けば、サムは「やれやれ」と言った具合に両肩を上げ、ユウをミステリーショップの中に誘導した。

「ミント味の飴は見つかったかい?」
「うん。二つ頂戴」
「二百マドルだよ」

 会計をしているフロイドを他所に、ユウはまじまじとミステリーショップの店内に飾られている品物を眺めていた。そんな中、ふと、目に留まった商品があった。

「サムさん。これはなんですか?」
「これは運命の赤い糸。その名の通り、一度繋いだ縁は赤い糸を切らない限り切れない強力な“運命”に繋がれる」
「あー、うーん?」

 いまいちピンと来ていないユウは、運命の赤い糸を手に取って眺めてみるも、何処からどう見てもただの赤い糸にしか見えなくて、首を傾げる。

「小エビちゃん運命の赤い糸知らねぇの?」
「基本的にこの世界のことは知りませんよ」
「あー、そっかぁ。これねー、一度繋がれたらクソ怠いから、使われないようにした方が良いよ」

 げんなりと顔を歪ませるフロイドの口振りは、以前何処かで使われたことがあるようにも聞こえる。
 この世の中に、あのリーチ兄弟に手を出そうとする恋する人がいるのかと思うと、世界は広いのだなぁ。なんて途方もなく遠いことを悟る。

「使用されたことが?」
「んー、まぁ」
「それで?! どうなったんですか?」
「出会い次第ボコった」
「ドウシテ」

 恋愛をするような性格には見えないが、性格を抜きにて恋愛対象になれるだけの顔面を持っているフロイドだ。運命の赤い糸を使用されるくらいなのだから、それなりの話が出てくるだろうと期待したユウを裏切る回答に、思わず思考が急ブレーキをかけて停止した。

「オンナノコ、ボコッ、タ?」
「ハァ? 何言ってんの?」
「だって、運命の赤い糸って好きな人との間に繋ぐんじゃないんですか?」
「運命の赤い糸って言うのは、強制的に運命を捻じ曲げる糸のことを言うのさ」

 強制的に運命を捻じ曲げる糸とは……?

「例えば?」
「行く先々に現れたり、強引に仲が深まっていったりとか」
「ジェイド先輩の話ししてます?」

 心当たりがあり過ぎる事案を口にすれば、フロイドが大きな口を開けてゲラゲラとお腹を抱えて笑い出した。

「マジで?! 小エビちゃんもしかしたら、運命の赤い糸、ジェイドに結ばれてんじゃない? ウケるッ!」
「ウケないでください」
「小鬼ちゃん、一応専用のハサミを買っていくかい? 赤い糸を切るには糸を見る魔力が必要だけどね」
「意味ない上に商売が上手すぎませんか」

 その後、ユウは運命の赤い糸を断ち切るハサミを購入することなく、フロイドと共に店を出た。
 何がおかしいのか、フロイドはずっとお腹を抱えて笑っている。

「はぁー、笑った」
「良かったですね」
「ご褒美に小エビちゃんにはこれをあげる」

 何をくれるのだろうか。と小首を傾げながら掌を差し出せば、棒付きの飴がコロンと転がった。
 ペパーミント色の包装から漂うミント臭。

「小エビちゃんもミント味好きでしょ」
「フロイド先輩、人の話、聞く気なさすぎませんか?」
「オレが好きだからいーのー」

 何処までもマイペースな彼は、近くのベンチに腰を掛けると、長い両足を放り投げるように伸ばし飴を咥えた。
 ユウもそれに倣うように、ベンチに腰を掛けて飴を頬張った。

 いつもは好んで食べないミント味。久々に食べてみたら案外美味しいなんてことも。
 そんな淡い期待は口に含んだ瞬間に消え去った。

 やっぱりミント味は好きじゃないなぁ。