明日を誘うヒイラギナンテンに落涙して


 糖分補給という名の小休憩を挟んだ二人は、また当てもなく歩き出した。
 メインストリートに引き返すことなく歩き出したフロイドの後を、雛鳥のように一所懸命についていくユウ。距離が出来ないように必死に早歩きしているのに気が付いたフロイドは、わざと歩幅を大きくして歩けば、健気にもユウは半ば軽く走るように付いて来た。
 意味が分からない。何を考えてそこまで頑張っているのだろう。
 フロイドはピタリと足を止めた。

「小エビちゃんさー、そんなに走って疲れないの?」
「疲れないとでも?」
「なんで無理にオレについて来ようとすんの?」
「だって、一緒にお散歩したいじゃないですか」
「意味わかんねぇー」

 無理して他人のペースに合わせる必要なんて何処にもない。と考えるフロイドに対し、ユウは多少無理をしても他人のペースに合わせる、というもの。全く正反対の考えをしている二人の速度が合うはずもなく、フロイドはそのまま速度を落とすことなく植物園に向かって歩き出す。
 その足は速く、長い脚を素早く前後に動かしている。これでユウは諦めて己について来なくなるだろう。纏わりつかれていたわけじゃないが、無理して隣を歩いているのかと考えれば、意味が分からなさ過ぎて、フロイドの頭が痛くなりそうだった。

 さて、どのくらい距離が開いただろうか。速度を緩めて振り返れば、全力疾走してくるユウの姿があり、フロイドは目を張った。
 驚き足が固まっているフロイドの進行方向に回り込んだユウは、通せんぼするように両手を真横に伸ばした。

「フロイド先輩!」
「……なあに?」
「なんで先に行っちゃうんですか」
「小エビちゃんが遅いからだけどぉ?」
「先輩が歩くのが速いだけです! もう少し私に合わせてください」
「なんで」

 ワントーン落ちた声色に、ユウの肩がびくりと跳ねる。まるで被食者。力もなく強者に食われるただの餌の生き物。
 これのどこに片割れが魅力を感じたのだろうと、思わざるを得ない程、伸ばしている指先が震えている。
 力もない。魔法も使えない。特別容姿が整っているわけでも、歌声が美しいわけでもなさそうなこの生き物の何処に魅力がある?
 遂に狂ったか?

 顔を歪めただけですぐにこれなら、追いかけ回した時はどれほどその身体が震え上がるのだろう。
 小エビの如く跳ねるその様は――正しく餌だ。

「私、人生初のサボりなんです! 先輩はその責任を取って、私に歩くスピードを合わせてください!!」

 顔を真っ赤にして声を張る小エビは、睨みつけるようにフロイドを見上げるも、慣れない怒声を張り上げた所為か、薄らと瞳に水の幕が覆っている。

 今にも泣きそうにも見えるが、多分この餌は泣かない。
 これは、そういう生き物だから。

 滅茶苦茶な理論だ。誘ったのは自分でも、ついて行くと決めたのはユウだ。その責任を負えと言うのは、フロイドにしてみれば責任転嫁のように思えてならないが、威勢のいい怒声を浴びたフロイドは、どこか清々しさすら感じ、地面に張りつけていた足を、一歩前に出した。

 重力っての? 歩くのが億劫だと思う時があるのに、今は羽根でも生えてるのかと錯覚するくらい軽いのはなんでだろーね。

「先輩?」
「意味わかんねぇーけど、小エビちゃんの頼みならいーよー」

 真横に伸びている腕の先にちっこい手。こんなちっせー手で何を防ごうとしているんだろうな。

 フロイドがユウの小さな手を包むように握り、そのまま上に持って行く。
 両手を強制的に持ち上げられたユウは、フロイドの行動についていけず、無言のまま瞬きを繰り返す。
 目の前の男の機嫌がジェットコースター並に変化するのはわかってはいるものの、こうも数秒毎で変わると、流石についていけそうにない。

「先輩……?」
「んじゃ、出発進行ー!」
「おー?」

 ユウの手を離したフロイドは、細い肩に手を置いてユウをくるりと回転させて後ろから抱き締め、押し出すように歩き出せば、ユウも足を一歩前に出して歩き出す。
 小さな歩幅はフロイドにはかなり遅く、ユウを抱えて歩くくらいが丁度いい。

「小エビちゃんさー、ジェイドと歩く時もあーやって走ってんの?」
「ジェイド先輩は歩く速度を合わせてくれていたので」
「はぁ?! あのジェイドが?」

 驚きの声を上げたフロイドの声が頭上で響くと同時に、旋毛に顎がぶつかって痛い。
 ずっしりと両肩に掛かっている重さも相まって、なんでこんなことになってしまったのだろうか、と首を傾げようにも、旋毛に固定された顎が痛くて動かす気にもなれない。それなのに、後ろからフロイドが押すように歩くから、止まることも出来ない。あぁ。なんて理不尽。

 大体、外見的にも内面的にもこの双子だったら、まだジェイドの方が常識を持っているのではないだろうか。というのはユウ談だ。
 アズールに言えば、「ユウさんはあの双子のことを何もわかっていませんね」と鼻で笑われるのは必須。
 確かに常識を確かに持っているが、持っているだけで、常識という枠の中に収まろうという気がない分、非常識なフロイドよりもタチが悪いというのはアズールの談だ。

 偏にユウがジェイドの方が常識的だと思っているのは、フロイドとそこまで親交があるわけでもない上に、ジェイドが上手く誤魔化しているからに過ぎない。
 皮を一枚向けばこの双子、性質的には何も変わらない歩く災害だ。

「そんなに驚かれるほどですか」
「だってあのジェイドだよ? 自分以外の生き物は基本的に玩具としか思ってないあのジェイドが、小エビちゃんを尊重するなんて……オレ、もしかして妄想話聞かされてる?」
「片割れによくそこまで悪口言えますね」
「言ってなくね?」

 見上げたフロイドの顔は純粋そのもので、ユウはフロイドが本心から言っているのだとわかると、双子の温度差に苦笑いを浮かべた。

「ジェイド先輩はフロイド先輩のこと、身内には特別甘いって言ってましたよ」
「それジェイドにも言えんじゃん」
「そうなんですか?」
「オレとかー、アズールにも甘いけどー、小エビちゃんは別格に甘いよね」

 ジェイドの一番の理解者であるフロイド口から言われると説得力が増す。
 今振り返れば、出会った頃と比べて確かに差があるように思えた。
 あの頃は、興味がない、もしくは嫌っている節すら感じていた。こちらを試すような発言ばかりで、苛立つ様子を見ては楽しむ悪趣味な人だった。
 今となってはその影すらない。目が、態度が、声が、愛おしいと訴えかけてくる。

 一体何がそこまであの男を突きたてるのだろうか、と受け止める此方が切なくなるほどに。

 植物園の扉を開け、誰もいない花と木と草が溢れるその場所に足を踏み入れる。
 土の匂いに混じって鼻孔を擽る花の匂いは、元の世界でも嗅いだ気もするが、生憎と花に詳しくないユウは、この匂いが何という名前の花なのかわからない。

 温室ゾーンを抜けた先でユウの足が止まった。
 何かを見つけたのか、それとも具合でも悪くなったのかと、フロイドが自分よりうんと背の低い昇叙の顔を覗き込めば、控えめに指先が伸び、フロイドの頬に触れた。

「なぁに?」
「先輩はどうしたら火傷しますか?」
「小エビちゃんはオレに火傷を負わせたいの? 返り討ちにすんぞ」
「いやそうではなく。火傷とかするのかなって」
「そりゃ酸とかかけられりゃ火傷するけどー? 小エビちゃんが聞きたいのはそういうことじゃないんでしょ」

 あの満月の夜の話をどう切り出せばいいのか分からないユウは、遠回しにしか聞くことが出来ないでいた。
 聞こうと思ったまま、本人に聞けずにいたあの日の出来事。不意に思い出したのは、夏の山で見た花が植えられていたからだ。

「人魚の姿になったジェイド先輩に、火傷を負わせてしまって、でも、私は何で火傷したのか分からなくて」
「元の姿に戻ったジェイドとでもヤッた?」
「ヤッタ?」

 何を? 殺人を? そんな物騒なことをするわけが無いだろうと、呆れた目でフロイドを見つめるユウの視線を受けたフロイドが、そういうことではないらしい。と二人の関係について逡巡させた。

 んー。と考え込むフロイドの頭の中には色んな可能性が平等に存在している。
 というのも、フロイドの中で男女のあれそれが、一番大きな可能性だったからだ。

「フロイド先輩が言っていることはわかりませんが、火傷した原因は私であることは間違いないと思うんです」
「あー、オレわかっちゃったかも。天才すぎじゃね」
「流石、頼りになる先輩は発想から違いますね!」

 下手な営業トークよりも下手くそな褒め言葉だったが、気分が良いフロイドはその言葉に乗せられてあげることにし、得意気な笑みを浮かべてユウの手を掴んで、そのまま己の頬に掌を当てた。

「陸にいる時に、ジェイドの肌に触れたんじゃない?」
「ッ! はい、性格に言うと船の上ですけど」
「だからだよ。人魚の肌って、熱に弱いんだよねぇ。その辺の魚と一緒。海の中だったら大丈夫なんだけど、陸の上だと身体を冷やせないから火傷しちゃう」

 人間の姿だと大丈夫と付け加えた一言はユウの耳に辛うじて入って来た。
 が、それよりもフロイドが言っていた言葉の方が気になって仕方がない。

 熱に弱いって――人肌もダメだったなんて知らなかった。
 触らないでって言ってくれたら、その一言があったら、先輩に火傷を負わせることなんてなかったのに。どうして言ってくれなかったのだろう。
 ――どうして。

 ――“貴方に付けられた傷なら、僕にとって喜びなんです。そこに痛み何て存在しません。例えあったとしても、僕は、その痛みさえ愛おしいのです”
 ユウの記憶の中のジェイドが愛おしそうに微笑んだ。
 痛みを感じないなんて嘘だ。痛みすら愛おしいなんて嘘だ。

 ジェイドと反対側の耳に存在している、チョウザメのピアスがユウの指先に触れた。

「痛みを愛おしいと思えるのでしょうか」
「……知らね」
「はい。私も知りません」

 与えられる愛情はいつだって抱えきれなくて、背負い込もうとすれば潰れてしまいそうになる。空気を求めて与えられる情の海の中で藻掻く私を見て、あの人は何を思っているのだろうか。
 藻掻く姿を前に、あの人は愛おしいと口にするのだろう。