明日を記憶するゼラニウムに歌って


「先日はフロイドとデートをしたようで」

 笑みを浮かべているのに、笑っていない。そんなジェイドを前に、ユウは何処からそんな誤情報を聞きつけて来たのだろうか。と噂の出処であろうフロイドを思い浮かべて睨みつけるも、頭を鷲掴みにされ見事返り討ちにあった。
 想像の中ですらフロイドに勝てなかったのは、墓に入るまで誰にも言わないでおこう。

「監督生さん」
「あ、はい。聞いてます」

 夕日が落ちたオンボロ寮。久し振りに二人と一匹で夕飯を囲み、グリムが食休みと言わんばかりに眠りに入り、ゆっくりとした時間を過ごす為にもお茶を淹れている最中のことだった。
 キッチンに立っているユウの背後に、気配なく近寄ったジェイドは、後ろから囲むよう天板に手を付いた。
 身長差もあって、檻に入れられたのかと錯覚までしてしまうほどの威圧感に、紅茶を淹れるユウの手が電池が切れた玩具のように止まる。

「無言、ということは僕以外の雄とデートをしたことを認める、ということでしょうか」
「いや、それはないですね。アレをデートと称するのは……ちょっと……」

 嫌だなぁ。と、薬缶で作ったお湯をティーポットに注ぎながらボヤけば、頭上でジェイドが首を傾げた。

「だって、フロイド先輩に強制的にサボらされたんですよ」
「僕はフロイドから、小エビちゃんが叱って来たから一緒に歩いてあげた。と聞かされましたが?」
「誤情報にもほどがある」

 深く疑っているわけではなさそうなジェイドではあるが、あまりされて気持ちのいい勘違いでもない為、ユウは何があったのかを全て説明しようと、手早くポットに茶葉を入れて振り返った。
 突然半回転した所為か、びくりと動きもしなかったジェイドとの距離は予想以上に近く、ユウの視界には制服の第一ボタンが飛び込んだ。

「先輩、近くないですか?」
「そうですね。抱き締めてもいいですか?」
「なんでですか」
「いいじゃないですか。減るもんじゃありませんよ」
「増えるものでもありません」
「では試してみましょうか」

 そう言うや否や、ジェイドの長い腕がユウの背中に回り込んだ。
 力一杯に抱き締められるのかと一瞬覚悟し、襲ってくるであろう圧迫感に身体を固くさせたユウだったが、ジェイドの抱擁は真綿のように柔らかく、肩や腰に触れている手は何処か遠慮すら感じられる。

 こんな抱き締め方をするような人だっただろうか。
 記憶の中のジェイドは、もっと力を込めて抱擁をする人だ。そんな人がどうしてこんな優しく、まるで腫れ物に触るかのような手付きなのだろう。

 確かに抱き締められている筈なのに物足りない。温もりを感じてはいる筈だけど足りない。
 少し痛いくらい抱き締めてくれるあの腕が、今は潰してしまわないようにとでも思っているのか、繊細な力しか感じられない。

「先輩」
「はい」
「増えました?」
「増えたと言えば、増えたように思えます。監督生さんは?」

 抱き締められている筈なのに、寂しいと思うのは我儘だろうか。未だに迷い続けている心で、もっと存在を感じたいと願うのはおかしなことなのだろうか。物足りないと俯くのは、求めすぎているのだろうか。
 この気持ちを増減で考えたら、きっと――。

「私は……どちらかと言えば、減ったように思えます」

 足りないと、もっと欲しいと思うのは温もりでも力でもなく、愛情なのだと気が付いていてもなお、ユウは選択をすることが出来ない。
 一生この世界にいる覚悟が出来ない。だが、ジェイドのいない世界に帰ることも出来ない。そして、突然この世界にやって来たように、突然この世界を去ることになるかもしれないと考える度に、ジェイドの気持ちを受け入れることも出来ない。
 何かを決断しようとする度に、胸の奥が張り裂けそうなほど痛み出す。

 今の世界も、元の世界もどちらも大切で、手放したくなくて、それでも一つしか選べない。覚悟を決めて選ばないといけないと、頭ではわかっているのに、気持ちがずっと追いついてくれない。時間に身を委ねてどうにかなる問題でもない。
 解決する手段は知っているのに、決定を下すことを恐れている。

「すみません。やっぱりなんでもないです」
「…………わかりました」

 ジェイドの広い背中に腕を回すことも出来ないユウは、頭を振ってもう一度ジェイドに背を向けた。
 ガラスのポットの中身が濃い琥珀色に変わっている。空のカップを二つ用意し、ポットと一緒にトレーに乗せてると、横から手が伸びトレーが奪われた。

 ジェイドがトレーを持って談話室に向かう。その背中を見るユウの胸の奥が軋み、目を逸らすも痛みに反して感情がジェイドの背中を追いかける。
 
 ――熱い、な。

 手の甲で触れた頬も、背中を見つめる視線も、ジェイドに向かう情も何もかもが熱い。
 気付かなければ、考えなければ、そうすればこんなに苦しまなくて済んだのに。なのに不思議と知る前に戻りたいとは思わない。現状が最善というわけでもない。寧ろ、自分の首を絞めて苦しめている状態だ。
 離れていく背中を追いかけるように足を前に出し、いつもよりも早い速度で歩くジェイドに追いついて、制服の裾を遠慮がちに掴めば、長い脚が動きを止めた。

「監督生さん?」
「嫌な訳じゃないんです。ただ、その……えっと……上手く言葉に出来ないんですけど。兎に角、嫌ではないんです」

 減る、なんて言ったら、抱き締められるのが嫌だと思ったと勘違いされてもおかしくはない。寧ろ足りないと思ったくらいなのに、そんな勘違いされたくはない。が、そんなこと口が滑っても言えない。ただ一人、たった一人を選らぶことも出来ないくせに、そんな強欲めいたこと、口に出来るわけがない。

 結果、訂正をするも言葉を濁したユウだったが、曖昧な説明を聞いたジェイドは小首を傾げるだけに留まった。

「知っていますが?」
「ん?! しッ! なんで?!」
「言っているじゃありませんか。貴方の目が、表情が、吐息が、僕を好きだと言っていると」
「目は聞いたことありますが、顔を息は初耳ですね」
「そうでしたか? 些細な違いです」

 口の端を上げるジェイドはそのまま、談話室のテーブルに紅茶の乗っているトレーを置いてソファに腰を掛けた。オンボロ寮にジェイドが通い始めた頃は、ユウを隣に座らせる為に座面を叩いていたが、今はそんなことをしなくともユウは自然とジェイドの隣に腰をかけている。
 この時間が日常に変わり、グリムの目にもゴーストの目にも当たり前になっている今日。エースやデュースと一緒にいる時のような穏やかさとはまた違う安寧。
 心地よさすら感じるこの空間は、二人がいて初めて成り立つものなのだと、ユウは吐息を吐いた。

「それで僕に黙ってフロイドとデートをしていた件ですが」
「あ、その話まだ終わってなかったんですね」
「貴方のその口で弁明されない限り終わりませんよ」

 弁明、と言われても、強制的にサボらされて、歩くの早くて置いて行かれそうになって、怒って、そのまま――。

「そう言えば、どうして火傷の原因を教えてくれなかったんですか」
「言う必要がありますか?」
「ありますよね。また先輩に火傷させてしまうかもしれないのに」
「監督生さんに与えられる痛みは、全て愛おしいと伝えた筈ですよ」

 当たり前のように音を紡ぐ唇を、指で摘まんでやれたらどれだけ良かっただろうか。痛みが愛おしいわけなんて絶対にないのに。でも、それを否定することも出来ない。知らない、わからないでジェイドを否定したくはない。知らないからわかりたい、わからないから考えたい。少しでも知っていきたい。

「いつか、私も、ジェイド先輩に与えられる痛みが、愛おしいと思える日が来ますか?」
「来ませんよ。貴方に痛みを与えたくはないですから」
「その気持ちは私にもわかりますよ」
「ありがとうございます。優しいですね」
「何も、優しくはないです」

 どちらかを選びきれない人間を優しいとは言わない。相手を思いやるなら、今、この瞬間にも切り捨てるべきだ。それが相手の為になる。
 二人掛けのソファに並んで座っている二人の隙間に、ユウの握り拳が置かれている。己の甘さに嫌気がさし、きつく握る指先が白く変わっている。

「監督生さんは優しですよ。あの日、泣いている僕を慰めに来てくれたのは、貴方だけでした」
「だから“優しい”、ですか?」
「はい。“甘くて”“優しい”、僕の好きな人です」

 エアークォーツの動きをしていたジェイドの手が、握り拳を作っているユウの手に触れ包み込んだ。
 手袋越しに手の感触が伝わるも相変わらず体温が感じられないその手を、いつから好ましいと感じるようになったのだろう。
 握り拳を解いて掌を上に向ければ、大きな指先がユウの指の間に収まり緩く握る。

「僕だけに優しい人であってください」
「それは、ちょっと」
「フロイドにもアズールにも、エースくんやデュースくんにも優しさを見せないでください」

 肩がそっとぶつかりがっしりとしている肩に頭を預ければ、頭に重さが加わった。
 叶えられそうにない我儘を言うジェイドの口調は、懇願しているようで、そんなことは叶わないと諦めも内包している。
 それでも口に出してしまいたかったのだろう。

「そのお願いは叶えられませんが、ジェイド先輩が泣いていたら、私が必ず涙を拭ってあげますからね」
「ふふっ、はい」

 いつだったか、ジェイドに伝えた百回分の一の涙は果たして本当にやってくるのかすら怪しいが、寧ろ、やって来ない方が良いのだが、万が一、そんな機会が訪れたら、その時はきっと。

「ところでフロイド先輩とのデート、疑っていました?」
「いいえ? ですが、二人で散歩したのは羨ましいので、今度僕とも散歩してください」
「置いて行かないって約束してくれるなら」
「えぇ。勿論です」

 ゆっくりと目を閉じれば、そう遠くない未来で手を繋いで隣を歩いている二人の姿が見え、ユウは口の端を上げ、繋いでいる手に力を込めた。