明日を蔑む黒百合を抱いて
迎えた週末、前日の昼休みに学園長に呼び出されたユウは水中呼吸が出来るようになる魔法薬を手渡され、そう言えばおつかいはまだ終わっていなかったな。と、占星術の授業のことを思い出した。
――他人の好奇心に付き合わされてトラブルに巻き込まれる。
それが学園長のおつかいのことだとしたら、まだトラブルに巻き込まれるようで、あまり気乗りしないがやらないと終わらないのだから頑張るしかない。
溜息を吐きつつ両手で握り拳を作ったユウが、気合を入れたのは金曜日の放課後。
学園長のおつかいである“月光”と“深海の真珠”の内、月光は既に学園長に手渡し、残りは深海の真珠のみ。与えられたのは水中呼吸の魔法薬一つ。特別に闇の鏡の使用許可も下りた。――とはいえ、この外出は学園長の私用なのだから職権乱用というやつだ。
お昼過ぎにジェイドと鏡の間の前で待ち合わせをしている。
約束の時間十分前に着けば、既にジェイドの姿があった。
その姿を見てユウは待たせてしまっていると焦り、小走りで腕時計を眺めているジェイドに近付いた。
「先輩! 待たせてしまってすみません」
「いえ、僕も今来たところですよ」
「良かったです」
焦った気持ちを落ち着かせるようにホッと息を吐いて、ジェイドが背にしている鏡の間を覗き見る。
何処にでも繋がることが出来る闇の鏡に導かれ、気付けば異世界にやって来ていた。確実にこの世界と元の世界は繋がっている筈なのに。
――こんなにも遠い。
闇の鏡の前に並んで立ち、ユウはポケットの中に入れていた魔法薬の蓋を開け口を付けた。
不快だと身体が反応するほどの苦みと、舌と喉に感じる重ったるい飲み心地。酷く飲み難い魔法薬を何とか飲み干し終えたところでジェイドが鏡に行先を告げた。
光出した闇の鏡に足を踏み入れると、水の膜が衣服に張り付き、鏡の中を進む度に手や顔にも水の膜が張り付く。左足まで膜が張り付いた瞬間、重力に引き摺られるかの如く身体が下へゆっくりと落ちていく。
衣服から出ている素肌に触れているのは、膜ではなく水そのもの。
「監督生さん」
「………………はい」
「呼吸は大丈夫そうですか?」
「なんとか」
海の中にいるのだと理解した刹那、息苦しさを覚えたが、次第に呼吸が楽になっていき、冷たい筈の海水も常温に感じる。水の中に適した身体になったのだと、目を開けば目の前には人魚の姿に戻っているジェイドがいた。
鮮やかな青の肌と見慣れないエラ、胸元に添えられた手の先は鋭く胴体から伸びる尾ビレは海の中を揺蕩うほどに長い。四度目の人魚の姿は見慣れているようで、やはりどこか違和感を覚える。当の本人にしてみれば、人間の形をしていることに違和感があるのだろうが。
「大丈夫であればこのまま深海の魔女に会いに行きます」
「はい。案内をよろしくお願いします」
陸の上と同じくらい呼吸が整ったユウがジェイドの言葉に頷けば、ジェイドはくるりと背を向けて泳ぎ出す。遅れないようにユウも足を上下に動かし、両手で水を掻き分けるように泳げば、スピードを落としたジェイドに並んだ。
「疲れたら言ってください。僕が抱えて泳ぎますので」
「バルカス先生のお陰で体力には自信があるので、多分大丈夫かと」
体力育成の授業でもユウは基本的に男子と同じメニューをこなす為、ツイステッドワンダーランドに飛ばされてからバルカスの扱きを受け、筋肉隆々とまではいかないものの、元の世界にいた時よりもずっと体力が付いた。
握り拳を作って体力に自信があると伝えてから実に一時間――ユウはジェイドの腕の中にいた。
「すみません」
「いえいえ、慣れない海の中で泳ぐんですから疲れてしまって当然です」
「先輩に向かって大口叩いておきながら、一時間も泳げないとか恥ずかしすぎます」
「あの時の自信満々なあの表情は大変可愛らしかったですよ。スマホで連写したくらいには」
「止めてください恥ずかしい……うん? したくらいには?」
したかったくらいではなく? ジェイドの台詞に疑問を覚えたユウは、眉間に皺を作り首を傾げた。あたかも既に撮ったと言っているニュアンスに焦りが足元からやって来る。
違う、そんなことはない。だってシャッターを切る音が聞こえなかった。先輩だってそんな素振りは見せてなかった。
落ち着けといくら心に言い聞かせても、せり上がってくる動揺と焦りがユウの視線を右往左往させる。
「……っ、ふ、フフ……ふは、ははははっ」
「先輩?!」
「嘘ですよ。冗談です。流石にスマホを出すタイミングがなかったので、あの可愛らしい顔を電子媒体に記録していません」
「良かった。本当に」
きっと間抜けな表情をしていたに違いないから。
そんな顔をいつでも見られるような媒体に記録されなくて、本当に良かった。とユウが胸を撫でおろせば、ジェイドが「そろそろ」と告げた。
「そろそろ海の魔女に会いに行きましょうか」
「はい? 最初からそのつもりですが?」
「ただ行って帰ってくるのでは芸がないので、少し進路変更をしていました。気が付きませんでしたか?」
クスクスと小さく笑うジェイドの腕の中でユウは溜息を吐いた。
ユウが想像していた暗くて冷たい深海とは違い、海のランタンがあちらこちらにとあって明るいが、初めての地域、しかも海の中にいるのだから進路変更されたってわかるわけがない。
そんなことジェイドだってわかっている。わかっている上での発言だ。
これは一種の意趣返しのようなものだろう。
「これ、デート、ですか?」
「お散歩です。デートはまた今度しましょう」
「フロイド先輩の件まだ気にしてたんですか?」
あの夜に全て解決したと思っていたが、どうやらジェイドの胸の内で小さくも燻っていたらしい嫉妬心が此処にきて火を上げたらしい。
海の魔女が何処にいるかなんてわかりもしないユウは、見事ジェイドに振り回されていたわけだが、不思議と怒りや悲しみといった感情は沸いて出て来なかった。それどころか、仕方がない人、だと呆れた笑みを思わず零してしてしまう始末。
ジェイドが満足するならなんでもいいか。と腕の中で揺蕩っていれば、紫の光を発する海のランタンを見つけた。
「先輩、あのランタン、色違いませんか?」
「あれはウルスラのランタンですね。この先にユウさんが会う予定の魔女の住処があるんですよ」
「ランタンが目印って、なんかお洒落ですね」
淡い紫色の光を発するランタンは、等間隔に設置されていて、五つ目のランタンを横切った辺りから、その間隔が短くなっていき、最後は一本道を照らすようにランタンが設置されていた。
海の中に道を作ってしまうほど完成された光の先に海の魔女がいる。初めて会う魔女と呼ばれる存在にユウは小さく息を飲んだ。
「行きましょう」
「はい」
ジェイドの腕の中から脱し、代わりに手を繋いだ。これで離れることはない、と安心していたのも束の間で、泳ぎ出した二人に向かって女の声が響いた。それは耳殻を通して聞こえるものではなく、脳を揺らして音を出している感覚を伴うもので、乱れる三半規管に咄嗟に口元を覆って吐き気を堪えた。
“人間の子なんて久し振りだねぇ”
妙齢の女の声と、少しだけ間延びした口調はフロイドを彷彿とさせたが、甘ったるだけではなく、妙な色気を孕んだその声に酔うユウは、渦巻く腹部の気持ちの悪さに、口を覆う掌の中に胃の中の物を出してしまいそうで、制服の腹部を鷲掴む。
“この私に用があるのは、その人の子だろう。人の子、早く来なさいな”
真っ暗で冷たい何処までも深い海の底に誘われているようで、熱を感じなかった肌が冷えていく。
「監督生さん大丈夫ですか?」
「…………はい。行きましょう」
「具合が悪いなら僕が代わりに行きますが」
「大丈夫です」
首を横に振って紫に光るランタンの道を前に進み始めれば、再び三半規管を揺らす声が脳内に響いた。
“人の子、一人でおいで”
「えっ――うわッ?!」
「監督生さん!!」
甘い色気のある声に誘われるようにユウの手がひとりでに動き出し、引っ張られるように前に進む。突然のことに驚き抵抗しようと、腕に力を入れるも、海中で力を入れたところで何の意味もない。腰をエビのように丸めて抵抗する形をとったまま、光の道を駆け抜けていく。
咄嗟に伸びたジェイドの手が、ユウの視界を掠め、助けを求めて小さな手を精一杯広げて腕を伸ばすも、掠めるのは冷たい水だけだ。
人ではないあの青い肌が、瞬く間に遠ざかっていく。
「先輩――ッ!」
叫び声が海中に掻き消され、混乱の中背筋に伝う冷や汗すら置いて行くスピード。泳ぎが得意なジェイドが全速力で追いかけても二人の距離は毎秒開いていき、目を吊り上げ鋭い歯を食いしばるジェイドの顔が滲んで見えなくなった瞬間――視界がブラックアウトした。
水の中で揺蕩う感覚と歌声に、そっと目を覚ます。
波もない、温度もない。ただ聞こえてくるのは、女の鼻歌混じりのタイトルも知らない歌声。
耳を澄ませばもっと聞こえてくるのかも、と意識するがゴポッ、と空気が抜ける音が数回聞こえるだけで、今何処にいるのかもわからない。
視線を彷徨わせれば、いくつかの気泡の先に見えた景色は洞窟の中のらしく、紫色のランタンで照らされる部屋の中には奇抜な色の液体が入っている瓶が幾つもあり、魔法薬を作って売っているのだろう。
店と言われていたらか、ミステリーショップのような店内なのかと勝手に思っていたが、実際は魔法薬の工房に近い店構えだ。
「起きたのかい?」
「……はい」
「お前、何をしに来たんだい」
「ディア・クロウリーの名代で深海の真珠を買いに来ました」
「あぁ。あの烏の使いかい」
あの烏と評される我らが学園長は一体、この魔女に何をしたというのだろうか。
「えっと、海の魔女のウルスラさんで間違いないですか?」
「気安く話しかけないで貰えるかい。鳥肌が立っちまう」
「すみません……?」
話しかけるなと言われてしまえば、後は何をすればいいのだろうか。学園長に持たされた大量のマドルがチャージされているカードを出すタイミングすら計れそうにない。
何が欲しいかは伝えたが、ウルスラは商品を持ってくる気配も見せない。
このまま時間が溶けてしまえば、水中呼吸の魔法薬が解けてしまい、最悪溺死コースだ。それだけは是が非でも避けたい。
となれば、話しかけないという選択肢はないだろう。
「あの――」
「聞こえなかったかい? ヒトは耳がないのかね」
「深海の真珠をください。いくらですか?」
「ヒトには売らないよ」
「何故?」
人間お断りの店に一応の保護者である学園長が、人間をおつかいに出すわけがない、筈。
となれば、学園長はこのウルスラの態度を知らなかった、というわけで、ユウは頭を抱える事態を対処しないといけない状況に自ら飛び込んだも同然で、ふと、視線を彷徨わせた。
「あの、私の隣にいた人魚は何処に?」
「この中には入って来れないよ。寂しいかい?」
「寂しい、というよりは不安です。側にいてくれないのは、凄く」
己の胸の内を言葉にするのは難しくて、言葉を選びながら感情の形をなぞり、確かめながら音を紡ぐ。たどたどしくもはっきりとしたその口調は、水を揺らしてウルスラの耳殻を震わせた。
「ヒトは傲慢だ。利己的だ。何処までの残酷で、浅ましい」
鼻で笑いヒトという種族を見下すウルスラを前にして、ユウはピクリと眉尻を跳ねらせるが、喧嘩をしてまでヒトを庇おうとは思わない。ウルスラの言っていることも一面の真実であるからだ。
「お前に惚れこんだあの人魚は可哀想だな。お前、この世界の人間でもないんだろう」
「なんで、それを……!」
「わかるよ。お前の魂は欠けているからね」
魂が欠けているなんて初めて言われた。
闇の鏡にも薄っすらと魂の色がない的なことを言われたが、それは、欠けているから、完全な形をしていないから判断が出来なかった、ということなのだろうか。
「お前を元の世界に返してやろうか」
「そんなこと、出来るんですか?」
「出来るよ。アタシは魔女だ。この広い海の中で一番の魔女。出来ないことなんて何もないさ」
それはツイステッドワンダーランドという地獄に垂れた、蜘蛛の糸のようにか細い希望の糸。
これを捨て置けば、次の機会はないと言外に言われている気すらする。今すぐにウルスラの手を掴んでしまいたい。でも、掴んだら最後、この世界に何も残せないまま完全に消えてしまうかも知れない。
「今すぐ返事は出来ません。元の世界に帰りたとは思いますが、この世界でお世話になった人が沢山いるんです」
「いいや。お前は孤独だよ。この世界はお前を受け入れない。お前がこの世界を受け入れないように」
「私は――!」
「さぁ帰れ、一匹の愛すら受け入れぬ異邦人。対価の心配は要らないよ。お前の中からもらって行くからね」
「待って!」
スクリューで作られたような回転する流体がユウの腹部を押し出し、洞窟の中から追い出され、ただ一人果てのない深海の世界に放り出される。
無抵抗のまま海中に漂い、強い衝撃を与えられた腹部が強烈な痛みを発し、今にも意識を失いそうになっていれば、ユウの耳殻が震えた。
「監督生さん!!」
視界の端に青い肌をした人魚を入れた瞬間、ユウの意識が海の底に沈んで行った。