それは、日常を彩る提案


 一方的な約束の放課後。これまた一方的な約束を果たす為にジェイドは、ホームルームが終了する鐘の音が鳴り終わる頃、ユウを迎えにやって来た。
 マジで来やがったよ。あの人魚……。と驚きと恐怖と呆れがごちゃ混ぜになった目で教室の出入り口に立っているジェイドを見つめた。なんであんなところに立ってんだよ。帰れねぇじゃねぇか。と恨めしく背の高い男を遠巻きに見る一年生らの頭の脳内には、未だにイソギンチャク事件のことがチラついている。

 何もしなければ無害なヤツではあるが、嫌な奴であることに変わりはない。
 触らぬ神に祟りなしとはどの世界にも通用する常識なのだから。

 おい、何してんだ監督生。さっさとあの先輩に話しかけろよ。と教室の比較的真ん中に立っているユウに視線が集まる。いくら目線で抵抗しようにも、ユウが見つめる先にいる生徒全員の目が何処かに飛んでしまっている。これでは話にならないと、マブに視線を向けるも、二人とも流れるように目線を逸らした。

「オレ、今日ハリネズミ当番なんだよね」
「すまない僕もフラミンゴの世話があるんだ」
「……仕方がない。許す」

 ハーツラビュル寮生はハートの女王の法律を守らないと、寮長によって首が刎ねられてしまうのだ。文字通り、首輪を付けられ魔法が使えなくなる。この名門魔法学校においてそれは最大の罰であり、その様子をユウは間近で見ていたから、首を刎ねられたくない心理は理解しているつもりだ。
 仕方がない。許してやろうという気にはなる。
 薄情者め。とも思っているが。

「グリムはどうする?」
「オレ様は先に帰るんだゾ! 今日はゴーストたちとマジフトの練習をする約束だからな!」
「……わかった」

 最初から頼るつもりもなかったが、あっさりグリムに捨てられたことに、ほんの少しばかりショックを受けたユウは、鞄を脇に抱えて出入り口で己を待っているジェイドに近付いた。
 近付けば近付くほど己との身長差が明確になる。歩幅二つ分の距離を開けて向かい合う二人の身長差は頭一つ分よりもずっと空いている。

 これはユウが小さいのか、ジェイドが大きいのか。
 そのどちらでもあるような気もするし、片方の所為であるような気もする。

「では行きましょうか」
「はい」

 何処に行くのか? とはあえて聞かなかった。
 背中に痛いほど突き刺さる視線から早く逃れたかったのが一番の理由だ。前を歩くジェイドの大きな背中の後ろを雛鳥のように忙しなく歩いていると、次第に校舎から離れ、次いでに学園の喧騒からも離れていった。
 あまりにも見慣れない風景に、もしやいつの間にか魔法でも掛けられたのか? これは引き返さなくても大丈夫なのか? と不安を感じ始めたユウは鞄を両腕で抱え直して辺りを見回す。

「監督生さんはこの辺りに来たことはありますか?」
「ないですね」
「そう警戒なさらないでください。二人きりで話したいだけですよ」
「はぁ……。話ですか」
「えぇ。大切なお話です」

 あそこにあるベンチに座りましょうか。と黒の手袋に包まれている人差し指が、数メートル先に設置されているベンチを指さした。
 丁度大きな木の下に設置されているから、昼に来ても木陰になって気持ちのいい場所なのだろう。なんて呑気に考えつつ足を前に動かすユウを横目にジェイドは口の端を上げた。

「疲れてしまいましたか?」
「疲れてはいないです。ただ、お昼寝に丁度良さそうなところだな……と」
「確かにそうですね」

 思わず賛同を得たユウはこの人魚も昼寝をするという考えがあるのか。なんて軽く失礼なことを思いながらも、筋張った手に誘導されるままベンチに腰を掛けた。
 ユウが座った隣にジェイドが同じように腰を掛けた。その距離およそ拳一つ分。それはあまりにも近すぎではないのか。と直感的に判断したユウは、ジェイドが座った直後軽く腰を浮かして少し離れて拳三つ分の距離を開けて座り直した。
 ユウにしてみれば、バス内で二人掛けの席に知らない人が座って来て少し端に寄る。そんな感覚で、決して嫌悪感がある行為ではなかったのだが、ユウの行動を見ていたジェイドが、水流のように伸びる瞳を伏せ、眉尻を下げて「しくしく」と声を漏らした。

「え?!」

 唐突に泣きだしたジェイドにユウは困惑し焦った。それもそうだろう。ユウが暮らしていた世界では当たり前の行為なのだから。何か悲しませることをしたという自覚もないまま、ジェイドを泣かせている事実は淡々と叩きつけられている。

「あの、すみません……私、何か……」

 フロイドやアズールが見れば「何も思ってもいないくせに」とジェイドの嘘泣きを指摘しただろう。
 もしくは指摘もせずに放置をしているだろう。ユウの隣に座っている男は幼少の時より本気で泣いたことなど記憶の隅にもないような男だ。そんな男が女に少し距離を取られたからという理由で涙を流すわけがない。
 察しのいい者ならば気が付いただろう。そして真剣に心配しているユウに対して哀れみすら抱くかも知れない。

 あぁ、可哀想に。その感情すらこの男に弄ばれ、蹂躙され食い物にされるだけだというのに、と。

 生憎この学園においてユウにそんな親切をする人間はほとんどいない。いたとしてもごく少数だ。しかも今この場にはユウとジェイドしかいないのだから、誰もユウにその男は今嘘泣きをしているぞ。なんて忠告してくれる他人はいない。
 二人の間にある拳三つ分の隙間に掌を置いて、泣いているジェイドを下から見上げるユウの目は困惑と悲しみが入り混じっている。それを見てジェイドは満足感に似た何かに満たされた。

「監督生さんはどうして僕から離れていくのですか?」
「離れる……という距離でしょうか? 少し空間があるだけですよ」
「僕は監督生さんの近くにいたいです」
「そうですか……うーん、では、失礼して」

 再び腰を浮かしたユウは拳一つ分距離を詰めて座り直した。ジェイドとユウの距離はこれで拳二つ分。二人の意見を丁度折半する形で落ち着くと、しくしくと泣いていたはずのジェイドが手本のように完璧な笑みをユウに見せてみせた。

「ありがとうございます」
「……いえ」

 ――今回も違った。泣いてなくてよかった。

 内心ホッと息をついたユウは小首を傾げてジェイドを見つめた。
 この男立つと首が痛くなるくらい背が高いというのに、座ると少し見上げるだけになるのだ。つまりその長躯の大半はスラリと伸びる脚だというのだから、世の中まことに理不尽である。

「お話があってここに来たんですよね?」
「えぇ。僕のお嫁さん、もとい番になって頂くには、先ずは僕の気持ちを知ってもらおうかと思いまして」

 番とはこれまた動物のような関係を言葉にしてきたものだ。
 普通であれば、恋人という間柄になるのではないだろうか。少なくともユウが暮らしていたところではそれが一般的だった。

「一目惚れ、というと少し語弊が生まれてしまいますね。だって僕は初めてモストロ・ラウンジに来た時、あれがオンボロ寮の監督生か。くらいにしか思っていなかったので」
「……はい」

 相槌が必要なのかわからなかったユウは、少しタイミングをずらして頷いて見せた。するとジェイドは力が抜けたように口の端を緩めたのだから、その判断は間違ってはいなかったのだろう。

「恋に落ちたと自覚したのは今日です。貴方が僕を心配してくれたから」
「どういう……?」
「どうしてか僕が泣いていると、他の方――フロイドやアズールも僕を放っておくんです。酷いでしょう?」

 それは嘘泣きをしているからではないだろうか。と言ってしまえば、この時間は終わるのだろうか。と一瞬考えたユウだったが、人の話を遮るのは失礼か。と考え直して、一度こくりと頷いた。

「ですが、監督生さんは僕を心配してくださいました。嬉しかったのです。どうしてあの時走って来てくれたのですか?」

 僅かに身を乗り出してユウに近付いたジェイドは救いを求めるような目で女を見つめた。
 一体その視線一つで何人の女を落としてきたのだ。と問いたくなったユウは口を噤み、一瞬視線をさ迷わせ観念したように息をついた。

「泣いていたからです」
「ですが貴方は僕が嘘泣きをしていることを知っていたのでしょう」
「……まぁ、はい」
「ではどうして?」

 ユウはジェイドが嘘泣きを手段として用いる人物であることを知っていた。
 お世辞と建前で本音隠すような人たちの中で生きてきたのだから、長躯の男が「しくしく」と泣いている姿を見て嘘だとわからないわけではないし、ユウ自身そこまで馬鹿ではない。
 では何故一々心配しているのかといえば、理由は一つだ。

「たとえ百回中九十九回嘘泣きだとしても、今回は本当に泣いているのかもしれないって思うから、です」
「――!」

 ジェイドの背が粟立った。
 寒いわけでも恐怖心を覚えたからでもない。

 女の考えに強烈な興味を引かれたからだ。
 なんて愚かで、くだらなく、自己満足に溢れた考えだろうか。この女は偽善的とも呼べる考えのもと行動していたのかと。アズールと契約した時もそんな自己満足に溢れた偽善的、もっと言えば独りよがりの考えで動いていたのかと考えれば考えるほど、ジェイドの目にユウの姿は可笑しな生き物のように見えた。

 人魚である自分の方が、人間のように感じたのだ。

「ふ、はっ、フフフ……貴方って本当に」

 ――可哀想で愛おしい愚か者なんでしょうね。

「先輩?」
「いえ、すみません突然笑ってしまって。どうか気を悪くしないでください。嬉しかったのです」

 ――貴方が僕の日常を壊してくれそうで。

「そんなことは気にしてませんが、私そんなに可笑しな回答をしたでしょうか?」
「どうでしょう。僕の周りにはいないような返答でしたよ」

 ――それもそうだ。誰しも他人を犠牲にして生きていくことに抵抗はないのに、この人間は真逆だ。他人の為に自分の気持ちや考えを押し殺して手を差し伸べるようなお人好し。他人に消費されて捨てられるような哀れで、悲しいイキモノ。
 そんな奇特な生き物はそうそういない。
 僕の手の中で踊っていて欲しい。僕がこの生き物を食い潰してしまいたい。そうして僕のこの好奇心を満たし続けて欲しい。想像するだけで甘美な痺れが淡く心臓の脈に合わせて血管に伝播する。
 これを愛おしいと呼ばずになんと呼ぶのだろうか。

「改めて愛おしいと思っただけです。監督生さん、僕の番になりませんか?」
「なりませんね」
「理由をお聞きしても?」
「番って夫婦ってことですよね。私は元いた世界に帰る人間です。帰ろうとている人間に、ジェイド先輩が時間を費やす必要は何処にもありません」

 何もジェイドの眼鏡に適う人はいくらでもいるだろう。固定概念かも知れないが、種族人間よりも人魚の番を探す方がジェイドにとってもメリットしかないはずだ。最も、この若さで番を探さないといけないのかはユウの知るところではないが。
 少なくとも恋愛感情を抱くことが出来るのであれば、いつかは番を持ちたいと思うはずだ。その相手を異世界から来た人間に向けたばかりに、限りある時間を捨ててしまうのはあまりにも勿体ない。

「僕のことであればお気になさらず。然しそれだけが問題だというのであれば、夫婦関係になっても監督生さんは問題がない、ということですね」
「そういうことではないですね。相手のことを知りもしないまま即結婚、というのはあまりにも性急的に感じますし」
「デーティングが必要ということですね」
「デーティング……?」

 なんだそれ。海にはそんな文化があるのか? と訝しげにジェイドを見つめるユウに気が付いた男は、「おや」と声を出した。

「陸にはデーティングという文化があると訓練学校で教えてもらったのですが」
「……私は聞いたことがない文化ですね。どういうものか聞いてもいいですか?」
「勿論です。相手のことを知る為のデート期間というものらしいです」
「はえー……」

 言っちゃ悪いが、本当に聞いたことがない。とユウは様々な文化があるなぁ。なんて他人事のように感心してしまった。
 今まさにジェイドからその期間を設けようと提案されたばかりだというのに。

「番がダメなのであれば、僕のことを知る機会を設けさせていただけませんか?」
「……時間を無駄にしても文句は言わないでください。あと、期間を設けてください。この二つが守れるのであれば、私は構いません」
「ええ。勿論です。ありがとうございます」

 番になることを頑なに拒んでいたユウから許しをえたジェイドは笑みを深めた。
 何を言われても側にいることを許可してもらうつもりだったとはいえ、最悪は友人という関係に甘んじてもいいとすら思っていただけに、今回の件は勝利と謳っても過言ではないだろう。

 お人好しの性格の監督生は断り切れなかった。何度の何度も相手の提案を蹴り続けるのはお優しい監督生の心に罪悪感を生み続ける筈だ。ドア・イン・ザ・フェイス。心理学上断り続けることに罪悪感を感じ、相手が譲歩したのであれば、こちらも譲歩し快諾してしまう。ナイトレイブンカレッジに通っている間は使わない技法だと思っていたジェイドは、まさかこの手法をこの学園にいる間に使う日が来るとは。と内心監督生を嘲笑った。

「では期間は……そうですね。一年は如何でしょう」
「長すぎます。三か月が妥当だと」
「それではあまりにも短いです。半年はどうでしょう」
「……わかりました」

 またしてもジェイドの思惑通りの期間を設けられたユウは、掌で踊らされていることも知らないまま、大変な提案を呑んでしまったなぁ。なんてやっぱり何処か他人事のように、ヘテロクロミアの歪んだ瞳を見つめていた。