それは、日常を遮る侵略


 デーティング期間を半年と設けてから一週間が経った。二人の関係に変化があったのかと言えば、何も無かった。が正しい回答だ。
 ユウはいつものように、グリムと共にオンボロ寮で寝起きしているし、昼間はエースとデュースと一緒に授業を受けている。
 そこにジェイドの姿はなかったし、昼休みですら共に過ごすことはなかった。
 だからナイトレイブンカレッジでは、あのウツボは振られたらしいなんて噂すら流れているのだ。

「監督生はそろそろオレらに話してくれてもいいんじゃない?」
「話って?」
「ジェイド先輩のことだよ! 噂になってんじゃん」
「あぁ。その話しね」

 エースも大概噂話好きだよね。とユウが揶揄う口調で言えば、エースは「はぁ?」と口を開いた。

「オレは、お前が変なのに引っかかんないか心配してるわけ!」

 少しムキになって言い返すエースの表情は、確かに心配の色も見えている。

 昼休みの食堂で、ユウの向かい側に座っているエースは、フォークでカルボナーラの最後の一口を巻き付けると、パクりと口の中に収納した。そこまでムキになってはいないけれど、ちょっとは思うところがあります。というアピールにユウが短く息を吐き出して笑う。

 ここは素直に「ごめんね」と言うべきか。とユウが口を開くよりも先に、ユウの隣に腰をかけ、メンチカツを頬張っていたデュースが「確かに」とゆっくりと口を開いた。

「監督生はこの世界のことについて疎いから心配な部分もあるのはわかるが、あの監督生だぞ? 心配するほどか?」
「確かにコイツ人の心あんのか? って疑いたくなる時はあるけど、一応女のコだしさー」
「待って。二人とも普通に失礼すぎて心配が伝わってこない」

 やっぱり謝らなくてよかった。と一分前の自分の判断に感謝した。
 が、一応心配してくれているらしいから、ことの顛末だけでも伝えておこうかな。私自身もうよく分からないし、話すことで客観的に物事が見えるかも。と、本日の特売だったサンドウィッチを皿に戻したユウは、一週間前のことを思い出しながら言葉を選びつつ、現状を整理し始めた。

「えっ、とね。あの後、ジェイド先輩と色々話し合って、お互いを知る為にもデーティング? っていうのを設けましょうって」
「ブハッ!」

 ハートの女王が定めた法律に従い、角砂糖を二つ入れたレモンティーを飲んでいたエースは、ユウの話の内容を聞いて思わずレモンティーを吐き出した。
 正面にいたユウにかかることはなかったが、エースが食べかけのカルボナーラが盛られている皿の上に、黄色味を帯びた液体がいくつか散る。

「うわ、汚い」
「だって、お前! デーティングの意味知ってんの?!」
「お互いのことを知る期間でしょ? 教えてもらったもん」
「間違いはねぇけどさ!!」

 そうじゃねぇじゃん?! と怒るエースを前にユウは困惑していた。然しそれはユウだけではなかった。

「エースは何をそんなに怒ってるんだ?」
「この恋愛初心者共が! いいか。よく聞け、デーティングとは、相手を知る期間なのはわかってんな?」

 カルボナーラ以外のもので汚れた皿を腕で退かし、テーブルに肘をついて前のめりになったエースに合わせるように、ユウとデュースの体勢も前のめりになる。
 グリムはお腹いっぱい食べて今は夢の中だ。

「相手を知るって色々あるのはわかるな?」
「性格とか?」
「趣味とかか?」
「まぁ、そうだけど……えぇ、こいつら知らなさすぎじゃね? なに、俺が間違ってんの? まぁいいや。でな? デーティングって相性を確かめる側面もあるわけ。性格とかの相性もあるけど、世の中には他にも大事な相性があるわけよ。から――」

 言いにくそうにしているエースの顔が突然見えなくなった。
 エースがマジックや魔法を使って消えたわけじゃない。ユウの視界が黒いものに覆われたのだ。

「だぁれだっ」
「――声は、フロイド先輩ですけど……目隠ししてるのは、うーん。ジェイド先輩、ですかね?」
「せぇかーい!」
「こんにちは監督生さん」

 触れ合っている肌から革手袋の感触がしたから、何となくジェイドだろうと考えたユウは違う可能性――フロイドが革手袋をしている、という低い可能性を頭の中に思い浮かべながらも、予想を口にすると、正解だったらしくジェイドの手で遮られていた視界が光を纏って帰ってきた。

 先輩とよくわからないこの関係になってからまともに姿を見たかもしれないと、ユウは上半身を捻るように振り返りジェイドを見上げた。

「お久しぶりです。お元気そうで何よりです」
「まさか! 監督生さんに会えない日々はとても辛くて、毎晩枕を涙で濡らしていましたよ」
「そうですか。大変ですね」
「つれないですねぇ」

 ところで皆さんで何のお話をされていたんですか? とジェイドが小首を傾げた。自分より背の高い男が小首を傾げたところで可愛く見えるわけがないのに、ユウの目にその姿はどうしてか愛らしく見えた。

 ――顔がいいのは得しかないな。

 流れるような動作でユウの隣、デュースの反対隣に腰をかけたジェイドは己よりも小さな身体のユウの腰をするりと触った。
 それがあまり気に食わなかったユウが自身の腰に回る腕を一瞥すると、ジェイドは「残念です」とでも言いたげな顔で、腰に回した手を離した。

 そんなやり取りが隣で行われていることを知りもしないデュースが、後輩らしくハキハキと返事をした。

「デーティングについてです!」
「先日監督生さんにお話しましたよね?」
「はい。ただエースがなんかもう少し詳しく教えてくれるみたいで」
「――そうですか」

 ヘテロクロミアの目がゆっくりと細められ、チェリーレッドの瞳を見つめる。
 蛇に睨まれた蛙はなんの意地なのか、瞳を大きくさせたものの落ち着きを取り戻して革手袋をしている方の手を肩の高さまで上げ、掌を天井に向き合わせて毅然とした態度をジェイドに見せた。

「監督生はこの世界の常識に疎いみたいですし? 教えてやろうかと思っただけっつーか」
「監督生、デーティングすら知らなかったもんな」

 デュースだってあんまり詳しく知らなかったくせに。と拗ねたように睨み付けるもデュースはユウの視線に気が付かぬまま、食後のレモンティーで喉を潤わせている。

 その傍らで驚いていたのはフロイドだった。

「えぇ?! 小エビちゃん、デーティング知らねぇの?! 陸の生き物なのに?!」
「……私の住んでいた所にはない文化なもので」

 ジェイドが訓練学校で教えてもらったのであれば、フロイドだって教えてられていて当然である。

「小エビちゃんのところは、デーティングしないでどうするの?」
「……どう、って……普通に告白してお付き合いしてって流れです」
「相手のことなんも知らねぇのに告白すんの? なんで?」
「なんでって言われましても……好きだからでは? 相手に触れることに許しを得る関係になりたいのでは? 一刻でも早く自分のものにしたいって欲なんじゃないでしょうか」
「ハグもキスも付き合ってからってこと?」
「それが一般的では?」

 きょとんと首を傾げるユウを見てエースは泣きたくなった。
 デーティングとは、お付き合いを始める前に様々な相性を見る期間のことだ。
 その中には勿論身体の相性だって含まれる。ハグやキス、それ以上のことを確かめ合って初めてユウの言うところのお付き合いに発展するのがこの世界の常識だ。
 海の中はまた違うのであろうが、少なくともジェイドはこのデーティングという常識を教えられているし、陸の文化を常識としているユウに合わせるつもりだったのだろう。
 だと言うのに、当の本人の常識がここまで違うとは……! 

 エースは思わずテラコッタの頭を抱えた。嘘だと言ってくれ。と言わんばかりの絶望感である。

「ユウがいたところの方がはっきりしていていいな!」
「そうですね。曖昧な関係はあまり好きではありませんので、僕もデュースくんと同じ意見です」
「そう? オレはやだァ。気分乗んねぇもん」
「双子でも意見が別れるんですね!」

 この状況に気が付いているのは自分だけなのか? 嘘だろ? とエースは更に頭を抱えてしまった。

 童貞のデュースでは気が付くことは難しいかも知んねぇけど、もっと危機感持てよ! とエースはヘラヘラと笑うユウを叱責したい衝動に駆られた。

 ユウの隣に腰を掛けているターコイズブルーの男は、「はっきりとしていていい」と言っただけで、「デーティングを止めよう」なんて言ってないんだぞ! つまり、ユウの常識以外の行為を、常識として押し付けられることになるんだぞ! と流石にユウが可哀想に思えたエースが、テラコッタから手を離して、ユウの名前を呼ぶ為に唇を動かした。――瞬間。

 ジェイドが人差し指を唇の前で立て、「シー」と囁いた。
 薄い唇の端が上がって、綺麗に歪められているその様は絵画のように美しい。が、エースの背筋は凍てついた。

 ――余計なことを言わないでくださいね。

 目が笑ってはいなかった。
 ヘテロクロミアの瞳は珊瑚の海よりも温度がなく、逆らえばイソギンチャクでは済まないと、脳裏で警鐘が鳴り響いている。

 ごくり。とエースの喉が生唾を飲み込む。嫌にその音が耳殼を大きく震わせた。

 指くらい簡単に噛み千切れそうなギザギザな歯が珍しくチェリーレッドに映り込んでいる。

「はぁ……監督生さー、頑張れよ」
「え? 次のテストの話? エースもじゃん」
「アズールと契約したら高得点間違いなしですよ」
「先輩ら全く反省してないんすか……」
「なに〜サバちゃん生意気ぃー」

 エースはユウを見捨てた。
 ま、オレに関係ないし。と言った具合で直ぐにポイと捨てたのだ。
 その事実をユウが来る日はそう遠くはない。

「ところで、監督生さんは誰かとお付き合いされたことは?」
「…………ありませんけど」
「そうですか! それはよかったです」

 僕だけの監督生さん。なんて副音声が聞こえてきそうなほど、甘露を煮詰めたような瞳でユウを見つめるジェイドの姿は、エースとデュースの目に異様な姿に見えた。

 二人同時に角砂糖が二つ入ったレモンティーの最後の一口を飲み込むと、さっきまで飲んでいたレモンティーよりもずっと甘く感じ、いつ砂糖を入れたのだろうか。とねっとりと喉に張り付く甘味に、眉間に皺を寄せた。