そして、私たちの怖に滲みる


 冷たい水の底にいる。
 唇を動かせば、空気が逃げて泡となって揺れながら浮いていく。
 暗くて、冷たくて、周りに何も無くて、ただ海の底に一人。
 まるで孤独というものを客観視した光景。

 ――夢、だ。

 陽の光も届かない深海。手を伸ばした先には遠く昇っていく泡が二つ。指の隙間から零れていく光が遠くに思え、背中から奈落に落ちていく。
 どうしたら目が覚めるのだろうか。もうこんなにも意識がはっきりとしているのに、どうして夢から覚めることが出来ないのだろう。
 それともいつもの夢のように、見せたい光景でもあるのだろうか。もしそうなら、もう少し目を瞑ってみようか。

 唇から零れた泡が揺れて真上に昇っていく姿を最後に、ユウはもう一度目を閉じた。
 深く浅く、眠りと目覚めの間を揺蕩うと、遠くから音が聞こえた。それは、波紋を広げる水音に似ていて、ユウは意識を集中させ耳を澄ませた。

「――さ――と――」

 あぁ。知っている。

「んと――せ――ん」

 この声は、私を呼ぶ声だ。

「かん――せい――」

 これは、ジェイド先輩の声だ。

「監督生さんッ!」

 その叫びにユウは目を覚ました。
 海の中を揺蕩う感覚はどこにもなく、背中に感じる硬いマットレスと、右手を包み込む体温のない手。
 ぼんやりとした視界の中、仄暗く室内を照らす橙のライトすら眩しく思え、煩わしく視線を逸らせば、オレンジの光を受けたターコイズブルーの髪が見えた。

 ユウの手を掴んだまま、大きな身体を丸めて眠る男が一人。ターコイズブルーの髪が特徴的な男は、腕で片割れと左右対称のメッシュもピアスも見えないが、ユウは確信を持っていた。

「せんぱ、い?」

 ぐっすりと眠ってしまっているらしい。
 窓の外に目を向ければ、随分高い所に丸には程遠い月が昇っている。いつの間にこんなに時間が過ぎていたのだろう。どのくらいの時間寝てしまっていたのだろう。時計を見ようにも、手元にスマホもなければ、目覚まし時計なるものもない。
 何処かに時間がわかるものはないかと、はっきりとし始めた頭が、現在時刻を知りたくて上半身を起こせば、足元に丸まって寝ているグリムがシアンの瞳が開いた。

「ユウ!」
「おはよう。グリム」
「ユウ、ユウ……お前、何日も目を……」

 四つの足を動かしてユウに近付き、太腿の上に乗って短い脚を下腹部に軽く押し付ける。その小さな重みと、涙を流すシアン色のビー玉。随分と心配をかけてしまったようだ。と、小さな親分の頭を撫でれば最後の一粒がシーツに染みを作った。

「子分、もう体調は良いのか?」
「うん。大丈夫――ゴホッ」

 喉の奥が張り付いて呼吸が歪み、無理矢理息を吐き出そうとして咳き込めば、グリムが「子分っ!」と叫んだ。獣の形をしている相棒を安心させようと、口を開こうとすれば、また咳き込んでしまう。

「――! 監督生さん! 大丈夫ですか?!」

 咳をする音が思ったよりも響いたようで、ビクリと肩を跳ねらせ勢いよく折れた身体を起こした。
 目を皿にして驚くジェイドを安心させるように、ユウはへらりと笑ってみせるも喉の奥が張り付いているままで、口元を掌で覆ったまま喉を痛みつける咳を繰り返す。

「せんぱ、い……ゴホ、ゴホッ、少し、咳き込んでしまって」
「ゆっくり呼吸してください」

 背中を大きく擦る手は大きく、時々背中を叩く力が心地いい。
 ジェイドがベッドに腰をかけ、ユウを抱き寄せ肩口に頭を軽く押し付る。伝わる温もりに包まれて、漸くユウは安堵を覚えて息を吐いた。

「ゴホっ」

 口を覆った掌に何かが飛び散った。唇に砂のような感触がしたと思いきや強い塩味を感じ、磯の香りが鼻孔を通り抜ける。
 なんで。どうして。そんな疑問がユウの脳内を駆け巡って行き、突然のことに身体が硬直した。

「子分、お前海の匂いがするんだぞ」
「海? なんで? 海に行ってないのに……」
「はい?」

 背中を撫でてくれていたジェイドの手がぴたりと止まる。何かおかしなことを言ったのだろうか。いや、でもこの時期に海なんて行く用事なかったし。なんでそんなに驚いているのだろうかと首を傾げてジェイドを見上げれば、怪訝に顔を顰める端正な顔がユウを凝視している。
 何か悪いことでもしてしまったかと、首を傾げたままグリムとジェイドの顔を往復で見やるも、一人と一匹はお互いに顔を見合わせて、理解が出来ないと言った表情を浮かべたままユウにもう一度視線を戻した。

「本当に覚えてないのですか? 僕と海の魔女に会いに行った記憶は?」
「学園長のおつかいの話しですよね。それってまだ先なんじゃ……?」
「お前、このそっくり兄弟と出掛けに行ってたんだゾ。――二日前に」

 二日前って……。そんな記憶は何処にもない。一体、何がどうなっているというの。
 だって学園長のおつかいはまだ行っていないのに、二人はもう行った後だという。しかも二日も前。その間の記憶が全くなく、視線を彷徨わせて自分の身に何があったのだろうかと、記憶の底に手を伸ばすもジェイドと一緒に海に行ったという出来事が思い出せない。脳内で再生される映像にモヤのようなものがかかり、上手く記憶を起こせない。

 言っていない、と言い張るのは簡単だが、この掌に散らばる塩と鼻腔の奥を通り抜ける磯の匂いを説明出来ない。これが海に行ったという証拠にもならないが、確実に記憶を一部飛ばしている、という証拠に思える。

「――何があったのか、説明してください」
「始まりは――」

 海に二人で入って海の魔女の住処の近くにまで行ったこと。海の魔女に呼ばれてユウだけが住処に連れて行かれたこと。住処を捜し回ったけど影も形もないこと。捜し回っている時に唐突にユウが現れたこと。目が合った瞬間意識を失ったこと。

「あの時は心臓が止まるかと思いました。急いでオンボロ寮に戻って先生方に診てもらいましたが、原因が不明で、そのまま二日も目を覚まさなかったんです」
「すみません。海の魔女に会った記憶どころか、会いに行った記憶すらないんですけど。海の魔女ってことは、深海の真珠を買いに行ったってことですよね」
「はい。ですが監督生さんの手にはそれらしいものはなく……」
「おつかいに失敗したってことですか?」
「中に入れなかった僕にはわかりませんが、恐らく」

 話を聞いても全く何も思い出せないのは、海の魔女に何か、魔法をかけられたからだろうか。でも、先生方が診てくれたけど、何も異変はなかったと言っていたとさっき聞いたばかりだ。ナイトレイブンカレッジの先生方が小さな変化を見逃すとは思えない。とすれば、海の魔女の技術がそれだけ高い、ということだが……。

「私の記憶を一部失くして、何が目的なんでしょう」
「今は何もわかりません。兎に角、監督生さんが無事でよかった」

 ジェイドの手が頭の後ろに回り、そのまま抱えるように抱き締められる。背中にも腕が回り、きつく抱き締めれるその痛みが、ジェイドの心配と安堵の表れだと思うと、ユウは痛みを訴えることも出来ず、寧ろ甘んじて痛みを受け入れた。それがまるで心地のいいものだと甘く痺れた。

 どのくらいの時間抱き締められていたのか、ユウが目覚めたことに安心したグリムは子分の足元で丸まって眠っている。短毛の背中を撫でようかと、ジェイドの身体に挟まれている手をそろりと動かしてみれば、素早く手を取られた。
 掴まれた手首がジェイドの口元まで誘導され、掌に柔らかいものが触れる。

「監督生さん好きです。良かったです。僕の所に戻って来てくれて」
「先輩……っ」

 小さなリップ音が繰り返され、こそばゆいのと恥ずかしいのが同時に襲って来る。離して欲しいと願う一方で、どうしようもなく伝わる愛に胸を締め付けられ、酔いにしれてしまいそうになる。
 愛情を乞う口付けが終われば、流れるように耳元にジェイドの唇が近付きまたリップ音を立て始める。耳殻を掠める吐息と終わることを知らない愛の告白。
 心臓のすぐ傍で囁かれていると錯覚を覚えてしまうほどの破壊力を伴った口付けは、ユウの心音を追い詰めるように駆り立てた。
 もうだめ。心臓が壊れてしまう。
 悲鳴と吐息が混じった小さな嬌声を漏らさぬよう、唇をキツく結ぶも、鼻の天井を突き破った甘い揺れが二人の耳殻を震わせる。

 グリムに聞かせないよう口元を掌で覆い、もう片方の手でジェイドの肩を強く押して僅かに距離をあければ満足したのか、穏やかに目を細めていた。

「監督生さん。先ずは先生を呼びましょうか」
「先にそうして欲しかった、と言いたいところですが、今日はもう夜遅いので、明日の朝にします。先輩はこの後どうされますか?」

 もう月が真上に昇っているような時間帯だ。今から先生を叩き起こして診察紛いなことをさせるのはユウの罪悪感を強く刺激する。
 咳もいつの間にか落ち着き、口から塩を吐き出す謎の現象も落ち着きを見せているし、まだ鼻に磯の匂いが微かに残るが、慣れてしまえば気になる程でもない。
 このままもうひと眠りしてしまっても問題ないだろう。と結論付けた。

 そうなれば、今度はジェイドの動向だ。
 記憶が一部失われているとはいえ、身体に緊急性の高い違和感も痛みもない。自分で言っておいてなんだが、オンボロ寮にいる必要がなくなったジェイドは、オクタヴィネル寮に帰るのだろう。それはなんだが寂しく思えるが、仕方がない。
 男女の関係ではないのだから、引き留めるもの何かおかしな気がして何も言えないのは弱虫な証拠なのだろう。

「監督生さんがよろしければ、このままオンボロ寮に泊まりたいと思っています」
「えっ、ほんと――っ」

 思わず漏れる本音を防ごうと慌てて口を手で塞ぐも、半分以上零れてしまった所為でジェイドの耳にしっかりと届いてしまった。
 しまった。と目を大きくさせたユウの視界には目を細めて口の端を上げているジェイドが映っている。

 コレはまずい、非常にまずい。
 このままだとジェイドの思い通りに事が進んでしまう。

「なんで、ですか」
「何処で寝ましょうか。一緒のベッドで寝ても差し支えないですね」
「いやありますよね?」

 そうは言っても、二日間も寝ていた身体で押し返すが強情な男の教鞭な手段を前に、細腕はなんの役にも立たず、なし崩しでジェイドはユウのベッドの中に収まった。

「……先輩、狭くないですか?」
「監督生さんは小さいですからね。僕にはかなり手狭ですが……そうですね。こういうのはどうでしょう」

 そう言うや否や、ジェイドはベッドには収まらない足を折り曲げユウの足を挟んで、ついでに同じ目線にある頭を抱え込んで逃げないように抱き締めれば、抵抗を止めたユウはジェイドの胸に頭を預けて両目を瞑って温もりに意識を委ねた。

 ――お前は、与えられる愛を受け入れない。世界を受け入れないお前は、この世界にたった一人の異質で孤独だ。

 海の魔女と同じ声が、さざ波と共にユウの記憶の中で囁いた。