そして、私たちの愁に繋がる


 グリムの尻尾が顔面に直撃した痛みで目が覚めた。
 三叉の尻尾は体毛に覆われているとはいえ、大半が筋肉ナノだから当たり前に痛い。
 じんじんと痛む鼻頭を、のそのそと半分寝ている腕を動かして、痛む鼻を抑えて薄っすらと目を開ければ、カーテンの隙間から差し込む朝陽が、瞳孔を刺激して思わず顔を顰めた。

「んんー、朝ぁ……」

 今日は学校に行く日だ。
 あの記憶喪失事件、と言えばいいのか、おつかい失敗事件と言えば良いのか。名称不明のあの一連の出来事から目覚めて一日お休みを頂いた。学園長の指示ではなくクルーウェルの指示での休みだったが。
 その間、何故かジェイドが甲斐甲斐しく世話を
 身体に異常がなかった為、ユウは本日から再び学業に専念することが出来る。それが嬉しい、というわけではないが、学生という身分で学校に行く以外の生活が想像出来ないユウは、根が真面目な性格だと言える。

「グリムー。起きてー」
「……むにゃ……ツナ缶、まだ……食べれる、だゾ……」

 枕元で丸まって寝ているグリムの背中を撫でるように軽く叩くも、返ってくるのは夢の中の出来事が想像しやすい寝言だけで、ユウは自分の支度を先にしてしまおうと、もぞもぞとベッドの上で体勢を変えた。
 腹筋に力を入れて上半身を起こせば、普段感じないような疲労感を覚えるも海から帰って来た日から殆ど寝たきりの状態が何日も続いていたから、それで体力が落ちてしまったのかも。
 いきなり筋トレをすると身体が吃驚してしまうから、通常通りの生活が出来るようになったらトレイン先生に相談してメニューを作ってみようかな。

 起き上がるだけにしては首が擡げてしまうような疲労感に、トレインのあの筋肉を思い浮かべながらユウはベッドの虫から脱出して自室の扉を開いた。
 小さな悲鳴を上げる木製の扉の音を聞いても、グリムは起きる気配を見せやしない。
 これもいつも通りの日常だ。

 気怠い脚で階段を降りて、寝間着姿のまますれ違うゴーストたちに挨拶をして台所の前に立つ。
 夢の中でまでツナ缶を欲していたグリムの為に、何かツナ缶料理を作ってあげようと、エプロンの紐をお腹の前で結んで気合を入れる。
 何が良いかな。ツナがメインの料理と言われても、あまり思い浮かばないけれど冷蔵庫の中身と相談して決めないといけない。
 手始めに冷蔵庫の中を見れば、卵が三個と野菜室にピーマンが二つ。

「うわ……」

 思わず引いてしまうくらいに空っぽな冷蔵庫。悲しいくらいに何も入っていない、最早、冷蔵庫がなくてもいいのではないだろうかと思ってしまうほどの空具合に、ユウは自分が寝たきりの状態の時、グリムは一体何を食べて飢えを凌いでいたのだろうか。と一瞬小首を傾げるも、すぐにターコイズブルーの男の顔が浮かんだ。

 どうやら、あの人はグリムの世話までも焼いてくれていたらしい。と知ったユウは申し訳ない気持ちと共に、この恥ずかしいまで何も入っていない冷蔵庫を見られなくて済んだと、ホッと息を吐きながら唯一の野菜であるピーマンを手に取った。

 グリムの味覚は子供のように敏感だ。
 旨味を繊細にキャッチ出来ると言えば素晴らしいものだが、作る側としては好き嫌いをせずに食べてくれ。と願うばかりだが、悪食が過ぎるのもどうにかして欲しいところ。なんであんな黒い石とか、平気で食べれるのかわからない。
 何度注意しても止めないんだから、どうすることも出来ない。

 グリムの悪食さを思い出して溜息を吐くユウは、手に持っている少しばかり草臥れた二つのピーマンをまな板の上に転がせて包丁を手に取った。
 ヘタを取って半分に切って、中の種を取り除いて千切りにしていく。加熱させてツナと和えて適当に味を付けただけのシンプル料理。それとオムレツが二つ。おかずとしてはかなり少ないが、病み上がりなのだからこれで勘弁してもらおう。

「グリムー、朝だよー」

 そうしてユウは漸く日常に身を戻した。
 心配をかけたマブに、もう大丈夫だと伝えれば安心したように息を吐き、肩に腕を回して笑い合った。暫く何処かに行ってしまっていたユウの“日常”が戻って来たのだと、もう一度実感したユウはへらりと笑って、日常の続きを楽しむようになんてことのない話のネタを口にした。

 「昨日、ジョンの奴が占星術で自分を占った結果さ〜」と語り出すエースの口振りに合わせるように、デュースが肩を震わせた。

「あぁ。ジョンのスラックスがズレ落ちたやつだな。アレは……ジョンにはすまないが、笑ってしまった」
「えっ?! なんでそうなったの?」
「なんだっけ。あれだ。ジョンの占いの結果が要約すると、ツイてないって感じだったんだけど」
「何かの間違いだろうってジョンが笑い飛ばしていたら、フロイド先輩が箒で乱入して来て……」
「あー……何となく、予想がついたわ」

 フロイドと名前が話題に入ってくれば、結末なんて聞かなくてもわかる。何を考えているのかわからない、寧ろ何も考えてないあの男が場を掻き乱したその末にジョンのスラックスが如何にかなってしまったのだろう。
 よく見る光景、とまでは言わないが、ナイトレイブンカレッジにおいてフロイドに絡まれて被害を被る生徒はままいる。寧ろ台風のような騒がしさと迷惑を巻き散らすフロイドを前に、何事もなく済む方が珍しいと言える。

「そう言えば、課題とか出てたりした? ずっと寝てたからグリムが課題をしていたのかもわかんなくて」
「ンぐッ!」
「そ、そんなの俺様の手に掛かれば、あっという間に終わってるんだゾ!」

 課題の話題を出せば二人と目が合わなくなった。足元を見れば一瞬だけ焦った表情を見せてすぐに胸を張るグリム。二人と一匹の様子を見てユウは全てを悟った。

 成程。何も大丈夫ではない。とがっくりと肩を落として足元で虚勢を張っているグリムを抱き上げれば、三叉の尻尾が白い腹に向かって丸まった。
 そんな可愛いことをしたって、課題を終わらせていない事実は変わらないのだから仕方がないのに、ついつい愛らしい姿に許してしまいそうになって、ぐっとグリムを抱き締める腕に力を入れる。

「帰ったら一緒に出された課題を片付けようね」
「い、嫌なんだゾ〜!」
「嫌でもやるの」
「そうだぞグリム。勉強しないと立派な魔法士にはなれないんだからな」
「流石デュース。優等生は言うことが違うわー」

 あからさまにデュースを揶揄う口調だったにも関わらず、エースの悪意に気が付かないデュースが胸を張って握り拳を胸元まで持ち上げた。

「あぁ! 母さんの為にも、もっともっと頑張らないとな!」
「あー、うん。そうね」
「エースも頑張らないとだよ」
「オレは器用だから二人よりマシですー」
「うわわっ」

 無遠慮にエースがユウの頭を撫でるその手付きは乱雑で、まるで犬にでもなったかのような錯覚さえ覚えるそれは、間違いなく友好の証であり、朝丁寧に梳いて髪がボサボサになることも甘んじて受け入れた。

 放課後まで授業を受け、鞄を持ってユウはグリムを抱えて教室を後にした。
 向かう先はミステリーショップだ。殆ど寝たきりだったユウとグリムの世話をしてくれたはジェイドだ。
 貸し借りという認識は流石にないが、お世話をしてもらって何もお礼をしないのは気持ちが悪い。何かお礼の品になるようなものをプレゼントしたいが、相も変わらずユウは、ジェイドが何を好んでいるのかわからない。
 紅茶と山が好きだということしか知らない。山をプレゼント出来るような財力は持っていないし、紅茶に明るいわけでもない。
 何か好ましいとはいかなくても、貰っても迷惑じゃないようなものがあればいいが。それも予算内に。

「どうしたんだ子分。何処か行くのか?」
「ミステリーショップに行くんだよ」
「ツナ缶を買いに行くのか?!」
「違うよ。ジェイド先輩のお礼を買いに行くんだよ」

 ツナ缶を買いに行くのではないと知ったグリムが、ユウの腕から逃げ出し猫よろしく華麗に着地を決め「マジフトしに帰るんだゾ」と捨て台詞紛いの言葉を残して四本脚でオンボロ寮まで駆け抜けていく。
 その小さな背中は、いつもよりも素早くて追いかけようにもグリムは風のように去って行ってしまった。

「うわぁ……行っちゃった……」

 恩を仇で返す、とは非難しないが世話してもらった相手に対してその態度というのは如何なものなんだろうか。
 これはオンボロ寮の監督生として、グリムに常識をきちんと丁寧に与えないと。将来グリムが一人になっても困らないように。

「どうかされましたか?」
「――ッ!」

 背後から話掛けられたユウは肩を跳ねあがらせ、大きな音を響かせる心臓を両手で押さえつけながらゆっくりと振り返ると、いつもの笑みを携えたジェイドが立っていた。
 どうしてこう気配を消して近付いて来るのだろうか。と眉間に皺を寄せてジェイドを見つめるも効果は全くない。口で言ったって伝わらない——正確に言うと理解しながらも尊重してくれないのだが——上に、無言で見ていたって何も伝わるわけがないが、言葉にしても理解してくれないのなら意味がないか。と溜息を吐いたユウは「こんにちは」と当り障りのない挨拶をするだけに留まった。

「こんにちは監督生さん。お買い物ですか?」
「はい。丁度良かったです。ジェイド先輩に選んで欲しいものがあって。この後お時間ありますか?」
「ええ。何でしょうか。僕が力になれるといいんですけど」
「むしろ先輩じゃないと意味がありませんから大丈夫です」

 小首を傾げるジェイドの手を取ったユウは、有無を言わせぬままにサムが経営しているミステリーショップに連れ込んだ。

「いらっしゃい。ご機嫌いかが?」
「ジェイド先輩! この中で、好きなものとかってありますか?」
「………………はい?」

 流石に訳が分からない。といった表情を浮かべるジェイドは、そのまま店内を見渡して、再びユウに向かって小首を傾げる。
 ユウの問に対する意図が全くわからない。大体の人間は観察していれば、何を考えているのか分かるジェイドだったが、目を輝かせ己を見上げるユウの思考は読めそうになく、それがジェイドの好奇心に刺激を与えた。

「んふ、監督生さん? どういった意図があるんですか? この僕に教えてください」
「意図も何も……お世話になったのでお礼がしたいんです」
「お礼、ですか?」
「看病してもらったので、そのお礼です!」
「お礼ですか……。分かりました。店内を少し見て回っても?」

 趣旨を踏まえたジェイドの問にユウは大きく頷くと、長身の男はそのままユウの横を通り過ぎて行く。どうせだから自分も見て回ろうかと、店内を歩けば、棚に陳列されている赤い糸が目に入った。
 運命の糸とプレートに書かれている代物は、以前フロイドと売店に来た時に見た物と同じで、こんな学園に需要があるのだろうか……と首を傾げるも、あるから置いているんだろうと思い直し、違うものに目を向けようと右を向けば、すぐ隣にジェイドの姿がそこにあった。

「近っ!」
「運命の赤い糸ですか。いいですね。これにしましょう」
「決まったのかい? ……って、それ小鬼ちゃんこの前も見てたね。大きい小鬼ちゃんと一緒に」
「サムさん、これを一本ください」

 鮮やかな赤い糸を指さしたジェイドは流れるように胸ポケットからマドルを取り出し、サムの掌に置いた。
 取引は当然のように成功。サムは商売人らしく人のいい笑みを浮かべながら運命の糸をジェイドに手渡す。
 目の前で起こっていることについていけていないのはユウだけだった。

 ま、毎日顔を合わせているし、捻じ曲げたい運命すら既に捻じ曲がっている気もするし。
 まぁいいか。なんてジェイドの手に握られている糸を前にユウはそっと苦笑いを浮かべるも、止めることはなかった。