そして、私たちの憐に走る


 小鳥の囀りで目覚めた。見慣れた天井と柔らかい温石——もといグリム。夏が近付く足音が聞こえつつある今日、この動く温石は少々暑く、隙間を開けて眠りに就くのにどういうわけか、朝起きればぴったりとくっついているのだから笑みを零さずにはいられない。

 器用に枕に頭を乗せているグリムを起こそうと腕を上げようとするも、身体が思うように持ち上がらない。寝起き特有の気怠さだろうか。そんなに疲れたことしたっけ? 首を傾げたところで思い当たるものがない。今日はゆっくり休むことにしようと、気怠いまま上半身を起こして肩を解しながらグリムに声を掛けるも、小さな魔獣は全くと言っていいほど起きる気配を見せない。
 いつものことだ。

 抜けきれない疲れを僅かに抱えたまま、ユウはいつもの朝を迎えた。

 ——朝、メインストリートをグリムと共に歩いていれば、後ろから「よう、監督生」と声を掛けられる。
 これは日常の光景であり、逆にこれをかけられなかったら、あぁ彼らは遅刻すれすれでくるのか。と何処か寂しさを連れてくる。

「おはよう二人とも」
「おはようユウ! グリムも」
「朝っぱらから煩いんだゾ〜」
「お前何寝起きみたいなこと言ってんのー?」
「実際グリム寝起きだからね。起きたのだって寮出る十分前とかだし」

 眠たげなシアンの瞳を擦りながら歩くグリムを腕に抱えて歩きだすユウを挟む形で、エースとデュースが並んで歩く。昨日寮内で起こった出来事を、いつもの語り口でエースが面白おかしく話せば、何故かデュースも驚いて話を聞いていた。

「そんなことがあったのか……!」
「デュースはその場にいなかったの?」
「僕はその時間は寝るようにしているんだ……。道理で寮内が騒がしいと思っていた」
「起きてたんかーい! 本当に大変だったんだからな。いきなりリドル寮長に呼び出されて——トランプ兵たち、逃げ出したハリネズミを探し出せ!——って言われて、オレらはもう、必死だったのよ」

 なんでそんなことになったのだろうか。そんなことを考えてもそうなってしまったのだから仕方がない、としか言いようがないのだろう。ハーツラビュル寮は厳格な規則に則って生活しているが、たまにわけのわからない事件が起こったりするのだ。大変だっただのだろうとエースを労わる気持ちで苦笑いを浮かべる。

「それは大変だった——」
「監督生さん、おはようございます」
「うわぁああ!!」

 どこから生えて来たと言わんばかりに、唐突に姿を現したジェイドの存在に驚いたエースが悲鳴を上げて飛び上がり、デュースが息を飲んで顔を青くさせる。両者ともかなり酷いリアクションではあるが、ジェイドは少しも気にした様子を見せることなく、当たり前のようにユウの隣に並んだ。

「おはようございます。先輩」
「今日も会えて嬉しいです」
「毎日会ってますけどね」

 そそくさとジェイドの後ろに回り肩を寄せ合う二人を尻目に、笑みを浮かべているジェイドに挨拶をすれば、長いコンパスがゆっくりとした動きに変わる。こういうさり気ない気遣いに不覚にも胸がときめくのだから悔しい。
 ジェイドの胸の高鳴りがバレてしまわぬよう、俯きグリムの耳元から揺らいでいる青い炎を見ていれば、「すみません」と声を掛けられた。

「今日は急いでいるので、先に行きますね」
「あぁ、はい。気を付けて」
「ありがとうございます」

 そう言ってジェイドは颯爽と校舎に向かって歩いて行った。その大きな姿が人混みに紛れた頃、漸く息を殺していた二人がユウの両隣に並んで一言。

「あの人相変わらずユウのことしか見えてないのな」
「あぁ。完全に僕たちの存在を消していたな」
「んー、二人とも息を殺してるからじゃない?」
「いやいや、普通気配なく後ろ取られたら固まりもするでしょ」
「でも、ほぼ毎日なんだから慣れないと」
「監督生は……なんというか、その、逞しいな」

 何だと失礼な。と喉まで出かかった言葉を飲み込んだユウは気持ち早足で校舎に向かった。

 ——二時間目の体力育成の授業。魔法を使った浮遊術の授業を行う為、魔法が使えないユウはグラウンドの外周を走る。このナイトレイブンカレッジに入学した当初はきつかったものの、月日が経つうちに外周を走る為の体力も持久力も付いてきて、無理のないペースであれば完走することが出来る。——はずだった。
 今日もいつもと同じように自分のペースで走っているのに、どうしてか普段息が上がらないようなポイントで肩で息をし始める。寝たきりになって体力が落ちたから? ここまで極端に体力が落ちるとは思えない。まだ半分も走っていないのだから。

「ユウ! どうした! 筋肉が足りとらんぞ!」
「はい!!」

 腹から声を出したユウは我武者羅に走った。授業が終わる直前にゴールしたものの、普段よりもうんと疲れが襲い掛かっていて、ユウは倒れ込むように芝生の上に横たわった。

 ——昼休み。
 賑わう食堂で一人静かに食事をとっていれば当たり前のようにジェイドがユウの前を陣取った。ジェイドがいるということは、同時にオクタヴィネル寮の二人もいるということだ。ジェイドの隣に当たり前のようにフロイドが腰をかけ、アズールが迷った末にユウの隣に腰をかけた。
 タッパのある男三人に囲まれ何処か圧迫感を覚えたユウは、早くマブが戻って来てくれないか。と本日のランチを買いに行った二人を見つめれば、二人は愛想笑いを浮かべてすぐさま背中を向けた。
 見捨てやがって。それでも私のマブか。と心の内で罵るユウの機嫌なんぞ一ミリも気にしないフロイドがフォークでユウのミートスパゲッティを一口奪っていく。

「んー、オレ作った方が美味くない?」
「そうですね」
「返事適当過ぎじゃねぇ? 絞められたいの?」
「フロイド。僕の監督生さんに触らないでください」
「えぇー! ジェイドの小エビちゃんならオレの妹かお姉ちゃんじゃん! いいじゃん!」
「ダメです。“僕の”監督生さんです」
「二人とも食事くらい静かに食べれないのか」

 私は私のものなのだが。と呆れるユウの眼前で繰り広げられる無意味且つ不毛なやりとりを白い目で見つめていれば、サラダに手を付けているアズールが苦言を呈した。流石寮長と言うべきなのか、その一言で二人はそれぞれの食事に手を付け始める。
 これは幸い。ユウも大人しくフロイドに取られたスパゲッティを口に運べば、アズールがユウに一瞥もくれず声を掛けた。

「貴方も、アレと付き合っているなら慣れた方が身の為ですよ」
「……付き合ってない場合はどうしたらいいですか?」
「諦めることをお薦めします。ジェイドは粘着質で、気に入ったものはとことん追求するような男です。到底貴女を手放すとは思えません。元の世界に帰るだとかなんとかは諦めることを検討した方がいいです」

 それはもう遠回しに諦めろ。と言われているのではないのだろうか。そんな簡単に元の世界に帰ることを諦められるわけもないだろう。
 むくりと湧いて来る遣る瀬無さに肩を落とすユウの向かいで、ジェイドが口元を緩めて目を細めた。

「そんなに褒めて頂けるとは。恐縮ですね」

 この男は相変わらず空気を読みそうで全く読まない。
 
「なんの役にも立たないアドバイス、ありがとうございます」

 皮肉を込めた返しにアズールは営業スマイルを浮かべて「監督瀬さんのお役に立てたようで何よりです」と返し、我関せずを貫いていたフロイドが、フォークの柄を摘まんだまま上下に揺らしながらウツボ自慢の切れ味の良い歯を見せる。
 その表情は何処からどう見ても捕食者の態度だ。

「小エビちゃんさ、もし何もかも嫌になったらアズールに相談しなよー。忘却の薬をくれるからさぁ」
「噂ではリドルさんも入用で自作したとかなんとか」
「リドルさんが? 欲しがっていた素振りはなかったが……惜しい顧客を逃しましたね。彼は中々商売相手になってくださいませんから」

 人の弱みと書いて商売相手と読んだんだろうなぁ。とわかるアズールのあからさまな態度はこの場に本人リドルがいないからだ。この男は客人と見ればどんな相手にだって態度を変える。その商売人魂は見ていて感服すら覚える。

「えっと、その忘却の薬って言うのは簡単に、というか、学生の身分で自作出来るものなんですか?」
「普通は出来ませんよ。寧ろ禁忌とはいかないまでも、それに近い扱いを受けているので基本的にレシピは出回っていません」
「リドルさんは頭が良い。というか、記憶力が並の域を大きく超えていますからね。彼の頭の中に図書館があると思った方がいいです」
「金魚ちゃんの教科書を返すのを忘れた時があったけどー、その時も教科書の内容、ソラで言えてたらしいよぉ」

 そんなことが人間に出来るのか? しかも魔法を使わないでのその記憶力。瞬間記憶なのか映像記憶なのか、ユウには判断が付かないが、生まれた頭に出来の良さでは説明が付かない努力を僅かながらにでも知っている為、何処かそれ以上この話題に触れないようにしたくてそっと話題を逸らした。

「らしいって……ちゃんと返さないと駄目ですよ。リドル先輩が困っちゃいます」
「大丈夫、無断で借りたからオレだってわかってないと思うよ」
「うわ、最低」

 なんてことをしているんだ。この男の常識は一体何処で落としてきてしまったのか。いや、海の中にいた時から常識は持っていなさそうではあるが、兎に角無断で人のモノを借りるのは如何なものだろうか。ユウがフロイドに白い目を向けている傍らで、山盛りになっていたオムライスを綺麗に平らげたジェイドが口の端に付いたデミグラスソースを紙ナプキンで拭いながら問いかけた。

「それにしてもリドルさんが忘れたかったものって何でしょうかね」
「さぁ? あの人にも忘れたいものがあるんでしょう。寧ろ何事も覚えてしまうのだから、あの薬を使うくらいが丁度いいのでは?」
「確かにー、金魚ちゃんすぐ昔の話を掘り出してくるからちょっとウザいー」

 だらりと背凭れに背中を預けて天井を仰ぐフロイドを横目に、ジェイドが目を細めて口の端を上げた。

「ふふ、フロイドは沢山の人に愛されてますからね」
「自分の兄弟に対して贔屓目がえぐすぎませんか?」
「勿論、僕は監督生さんが一番好きですよ」
「いちゃいちゃなら他所でやってくれませんかねぇ」
「アズール嫉妬ですか? すみません、独り身のアズールの前でいちゃいちゃしてしまって」

 悪びれるどころか更に煽りにいくのは流石としか言いようがない。これ以上巻き込まれるのは精神的負担が大きいと判断したユウは、残り少ないミートスパゲッティを半ば口の中に詰め込む形で平らげ席を立った。

「監督生さん、また後で」
「……はい」

 ジェイドとの挨拶もそこそこに皿が乗っているトレーを戻しに行けば、丁度良くエースとデュースに出くわし、なんで見捨てたんだ。と詰め寄れば二人は半歩足を引いてオクタヴィネルの三人を一瞥した。

「普通に考えて関わるの損すぎじゃね?」
「あの三人にはあまりいい思い出がないから、どうも逃げ腰になってしまって……」
「あぁ、イソギンチャク事件」

 あの事件はまだ禍根を残しているらしい。
 少々暴力的なやり方で事件を解決したユウにとって、イソギンチャク事件は思い出と化していたが、二人を含めた犠牲者たちにはまだまだ根深い記憶のままらしい。