そして、私たちの悲に囁く


「だる……」

 朝一発目の一言にしてはネガティブなものだったが、海の魔女に会いに行ってからというもの、ユウの体調は芳しくない。何をするにも身体が重く、頭に靄が掛かっている。
 それはかなり重症で、あまり話したことのないクラスメイトの名前がパッと出て来ないこともしばしある。関りがないから名前が出て来ないのだろうと、結論つけようにもユウの気持ちの整理が追い付かず、不満が溜まるばかりだ。

「んー……、起きないと」

 日に日に体が重くなっていく違和感に、これまた重たい溜息から始まるユウの悩みとは裏腹に爽やかな朝。憎らしいほどに広がる青空と小鳥の囀りが、押し付けがましいと眉間に皺を寄せたところでこの晴天が豪雨に変わるわけでもない。ならば黙って朝の支度をする方がずっと建設的かつ、合理的だ。

「くー……ぁ」

 腕を真っ直ぐ天井に向かって伸ばし、丸まった背中を逸らした。

 さぁ、今日もいつもの日常の始まりだ。

 制服に着替えて昨日と似たような時間にオンボロ寮を出る。足元にはまだ眠たいと文句を垂れるグリムがいる。メインストリートまで歩けば、眠気も覚めるだろうとユウはグリムの頭を撫でた。

「歩けば起きるよ」
「オレ様は今寝たいんだゾ」
「ダメだよ……ね? 頑張って」

 一瞬言葉を詰まらせたユウだったが、眉尻を下げてもう一度グリムの丸みを帯びている頭を撫でつければ、器用に二本足で立っているグリムが片方の前足を空に向かって伸ばした。

「子分のくせに生意気なんだゾ」

 三叉の尻尾を揺らしながら四つ足で先頭を歩くグリムの小さな身体を追いかけるユウは、自分は一体何に言葉を詰まらせたのだろうか、と思考した。今眠たいと寝言を吐く小さな魔獣に呆れたからだろうか。それとも、他に何か原因でもあるのだろうか。
 耳の線の外に燃える青い炎を見つめ、猫のような姿をしている魔獣の名前を呼んでみようか。そして、子分らしく親分に相談でもしてみようか。なんて、冗談交じりの解決策を見出したものの、なんの意味もないだろうとユウはグリムの隣に並んだ。

 ——二時間目の授業は錬金術だった。
 制服から白衣に着替え、錬金術の授業が行われる教室に一人で向かっていると、黒い影が立ち上った。数メートル先にある影は人の形をしていて、ユウは進行方向にいる影を目で追えば、気だるげな瞳と視線が絡んだ。
 グリムよりも一回りも二回りも小さい小ぶりな耳が、何かに反応するようにピクリと動く。

「クセェ」
「……え?」

 翡翠の瞳が嫌らしく歪む。顎を僅かに上げ下賤なものを見る尊大な視線をユウに与える影はレオナだった。
 出会い頭に臭うと言われたユウは、両手に抱えている教科書を力強く握ってレオナを見据える。一瞬何を言われたのかがわからなかったが、何か言い返した方がいいのだろうか。と逡巡している合間にレオナが再び口を開いた。

「ユウよぉ。お前、ちょっと臭うんじゃねぇのか?」
「お風呂には、入ってます」
「だろうな。俺が言いたいのはそうじゃねぇ。随分とマーキングされてるみてぇじゃねぇか。なァ?」
「マーキング?」

 何の話をされているのかいまいち理解出来ないユウが小首を傾げれば、鼻で笑ったレオナが一歩足を前に踏み出した。細い尻尾が歩みに合わせて揺れる。半歩分間を開けて目前に立つレオナを見上げれば、何を思ったのか鼻先をユウに近付けて短く息を吸い込んだ。

「なん——?!」
「やっぱ磯クセェな。強烈な臭いだぜ」

 磯臭いと言われて思い当たることが一つ。ジェイドの存在だ。ジェイド自身から海の匂いを感じたことはないが、人間よりも数倍鼻が利くのであろうレオナが言うのだから、間違いが無いのだろう。
 もう長いこと一緒にジェイドと一緒にいる所為で、もう匂いがわからないのかもしれない。左手首を鼻まで持ってきて匂いを嗅ぐもやっぱりわからない。

「溺れないように気を付けるこったなぁ」

 そう言ってユウの横を通り抜け背中を向け歩いて行く。

「ありがとうございます。ぁ、……先輩」

 振り返ることもしないまま去って行く男の姿を見つめながらユウは、朝から感じていた違和感の正体に辿り着いた。

 ——名前が、出て来ない。

 今だって、朝だって二人の名前が出て来なかった。
 なんで。どうして。知っているのに、目の前にいた人がどんな人なのか。ううん、オンボロ寮を追い出された時凄くお世話になって同じ部屋で寝泊まりした仲なのに、どうして、どうして名前を思い出すことが出来ないの!

 笑う姿だって、皮肉に顔を歪ませる顔だって、マジフトで活躍する瞬間だって思い出せるのに、どうして……。

 力が抜けた手から教科書が廊下に落ちた。それを拾おうとしゃがんだはずみで胃が圧迫されたのか、胃液がせり上がり口の中に胃酸特有の酸っぱさが広がる。
 気持ちが悪い。今にも吐いてしまいそうだ。口元を押さえて、ついでに息も止めると胃の中が歪んだような感覚がした。そのまま蹲って耐えれば、いつかはこの気持ち悪さも過ぎ去ってくれるだろうか。
 そうは言っても、時間で決められた授業がもうすぐ始まってしまう。
 今日に限っていつになく静かな校舎。普段なら屯している生徒が幾人かいるはずなのに、その姿すら見かけない。何か、どこか別の世界に潜り込んでしまったのではないのだろうか。と疑いが頭を過るが、異世界に飛ばされた先でも亜空間に飛ばされるなんて堪ったものではない。
 込み上げる吐き気を溜息と共に吐き出してユウは立ち上がり、錬金術が行われる教室に向かって足を一歩前に踏み出した。
 すると、ドボン、と水の中にユウの身体が落ちていった。服から出ている肌が冷たい水に触れているのに、不快なほど衣服に水が染みていかない。深くどこまでも深く、光が届かない水の底まで身体が沈んでいくのに、苦しいとは思えない。
 ただ見上げた水面が眩しいと目を細めた。

「——と」

 これは誰かの魔法なのか。誰かにこんな大掛かりな魔法を仕掛けられるようなことをした記憶はないが。と瞼を伏せれば、誰かの声がユウの耳殻を震わせた。

「ちょっと、監督生!」
「————ぁ、」

 気が付けば水の中じゃなく、しっかりと廊下を立っていた。
 さっきまで着ていた白衣も制服に変わっている。一体何事なのだろうか。
 目まぐるしく変わる景色に辟易としていれば、再びユウの耳殻が震えた。

「アンタ、人の話を聞いてないでしょ。ダメじゃない。少しは見直したと思ったけど、やっぱり子ジャガなのかしら」
「……先輩」

 あ、まだた。また名前が出て来ない。この美しい人とも面識を持っているはずなのに、どうしてか名前を思い出すことが出来ないのだ。
 誰だ。誰だ。誰だ。どうして私はこの人の名前を思い出すことが出来ないのだろうか。

 眩暈すら覚える気味の悪さに肌の色が失われる。また胃酸が込み上げてくると、ユウが顔を顰めれば、ヴィルの眉間に小さな皺が一瞬出来た。

「体調管理くらいはちゃんとしなさい。それくらいは出来るでしょ」

 ほら。と言ったヴィルが胸ポケットから手鏡を取り出してユウに渡した。シンプルながら細かい装飾がされた、使い勝手が良さそうな手鏡を一瞥したユウが頭を下げると、怪訝な表情を浮かべたままのヴィルが一瞬口を開き、何も言わずに唇を閉じた。

「ありがとうございます。大事にします」
「当たり前でしょ。このアタシが上げたんだから。って、そうじゃないでしょ」
「はい。体調管理、気を付けます」
「そ。それじゃあね」

 歩き姿すら美しい男の背中を見送ったユウはその場で蹲った。

 この吐き気の原因はわかっている。今目の前にいる男の名前を思い出せないことだ。それだけじゃない。慣れ親しんだ人の名前が全く思い出せない。
 この人やさっきの人にしたって、あの二人ほど親しくはないとはいえ……。

 ——待って。私、あの二人の名前、ちゃんと言える?

 テラコッタの髪とネイビーの髪はすぐに思い出せるのに、どうしても名前が出て来ない。

 ——あれ、私、お父さんとお母さんの名前、言える……?

 名前どころか声も顔も思い出せない。どんな声で私を呼んでいたくれたのか、そんな些細なことさえも、何もかも……!

 ユウは恐怖で震える手でヴィルから受け取った手鏡で己の顔を映した。眉間に深い皺を作り、眦に大粒の涙を溜め、幼い子供の顔をしている情けない顔がそこに映っている。
 確か、親戚に親に顔が似ているって言われていたはずだ。目が、口が、鼻が。何処がどっちに似ているんだっけ。思い出せない……。

「お、父さん……お母さん……」

 会いたいと心の底から願っているのに、どうしてかその姿すら追憶することが出来ない。次々と涙が溢れては零れていく。手鏡を濡らして、制服に染みを作り、床に小さい海を作っていく。
 大事にしている人が記憶からも思い出からも消えている事実を目の当たりにしたユウは、込み上げてくる不快感に喉の奥を開く。重油のような重たさを持った吐き気に耐えられず、大きく口を開けば舌に塩辛さを感じた。

「うぇ……ッ!」

 吐き出したものは胃に収めていたものではなかった。磯の匂いを伴った液体——海水がユウの身体から吐き出されたのだ。
 なんで、どうして。と考える暇もなくユウの顔に影が差す。視線を上げれば目と鼻の先にまで迫り来る大波があり、大きく目を見開くと同時にユウの身体が波に飲み込まれた。海の波に流され、右に左に身体が大きく揺さぶられる。
 天地すらわからなくなるほど揺られ、強烈な気持ち悪さがユウの吐き気を促す。

「——はッ!」

 目を開けば見慣れたオンボロ寮の天井が見えた。
 何度も短い呼吸を繰り返しながら起き上がれば、背中にシャツが張り付いた。首筋や額から異様に重い汗が肌を伝う。

「子分、大丈夫か? 魘されてたんだゾ」
「……大丈夫。起こしちゃったね、ごめんね」

 耳元で青い炎を灯している魔獣の頭を撫でながらも、ユウの心臓は大きく跳ねている。不規則な心音が耳元で大きな音を立てている所為で、息苦しく、薄っすらと瞳に水の膜を張る。

「今のは……夢?」
「オマエ、真っ青で寮に帰って来たかと思ったらそのまま寝ちまったんだゾ」
「そのまま……じゃあ!」

 あの先輩から貰った手鏡がなければ、今まで見ていた映像は夢で間違いないはずだ。
 そんな淡い期待を込め制服のポケットの中に手を入れれば、指先が硬い何かと触れた。恐る恐る取り出せば、己の顔を映しだしている小さな鏡が一つ。歪む表情を一瞬だけ映した手鏡の上に雫がぽつりぽつりと降る。

「ユウ?」
「何ともないよ。大丈夫。おやすみ」

 グリムの頭をもう一度撫でたユウの脳裏に女の声が響いた。

 ——お前は孤独だよ。この世界はお前を受け入れない。お前がこの世界を受け入れないように。
 ——対価の心配は要らないよ。お前の中からもらって行くからね。

 たった一度だけ顔を合わせたあの海の魔女の声だと気が付くのに時間はかからなかった。
 深海の中で言われた時、深海の真珠の取引に言われた時は何を意味しているのか、全く分からなかったけど、今ならわかる。
 これが対価なのだと。

 このまま何もかもを忘れてしまうのかもしれない。
 何もかもを忘れて、この世界で見つけた繋がりを全て失くして、そうしてあの魔女の言うように孤独のまま生きていくのかもしれない。

 ——だって、私はこの世界で唯一の一人ぼっちだもの。

「せんぱい、先輩……会いたい……!」

 コバルトブルーの髪に切れ長のヘテロクロミアの瞳。常に笑みを絶やさない表面とは裏腹に何を考えているのかもわからない、そんな人。
 私が名前を呼べば笑って返事をしてくれる人。私に沢山のことを教えてくれた人。

 ——私が好きになった人。

 なのにどうして私は、そんな大切な人の名前さえ思い出すことが出来ないの!

 指先を真っ白にしながらユウは手鏡を握り絞めたまま、幾つもの涙を流した。

 ——さぁ、あと少しだよ。

 海風に乗って女の声が届いた夜。ユウは一つの決断を下したのだった。