そして、私たちの幸に慟哭する


「ユウー、どうした? 元気ねぇじゃん」
「そうだな。昨日も途中から顔色悪かったし……もしや、リーチ先輩と何かあったのか?!」
「何もないよ」

 HRが始まる十分前。教室で窓の外を眺めながら一息ついていると、ぼんやりとした視界に黒いものがひらりと遮った。何かと同じ色を辿っていくと、テラコッタの髪と左の目元にハートのメイクを施している男の子が、小首を傾げながらユウを見下ろしている。
 その隣にはネイビーブルーの髪をして、右の目元に黒いスペードのメイクをしている男の子が立っている。
 二人ともちゃんと知っているはずなのに、やっぱり名前が出て来ない。
 きっと名前以外にも忘れてしまっていることもあるのかもしれないけど、今はそんなことを見つけたくはない。

「それより二人とも、おはよう」
「おはよう。今日の一時間目って確か占星術だっけ?」
「体力育成じゃなかったか?」
「違うよ。魔法史だよ」

 もう学校が始まって何か月も経っているのに、未だに時間割を把握してないのか。と肩を落としながらユウが答えれば、テラコッタの髪をした少年がネイビーブルーの少年を肘で軽く突きながら揶揄う。

「体力育成はデュースくんがやりたいだけじゃないの〜?」
「んな! エースだって間違ってたじゃないか」

 デュースとエース。漸く出た二人の名前を忘れないように、何度も口の中で二人の名前を呟く。呪文のようだと笑っている暇すらない。クルーウェルが教室に入るや否や、黒板で教鞭を叩きつける。騒がしかった教室に渇いた音が響いた瞬間に静けさを取り戻した。
 今日の予定を詰まることなく話していくクルーウェルを他所に、ユウは鞄から取り出したノートにエースとデュースの名前を書き出す。

 昨日、海の魔女の声を聞いた時に確信した。
 多分残された時間はもうない。きっと明日には名前だけじゃなくて、此処で経験した全てを忘れてしまう。そうしたら私にとって大好きな人たちは赤の他人になってしまう。
 そうなるのは酷く、悲しい。

 忘れてしまう側だと言うのに。

 ユウは隙を見てはノートに二人へのメモを書き連ねた。休み時間は教室移動で失い、書く暇がない為授業の合間しか書けないから、本当に二、三行の短いメモになってしまったが、それでもユウには満足の出来になった。ルーズリーフを半分に折って強く跡を付けて二つに割く。それを更に二つ折にしてエース、デュースとそれぞれに名前を書いておけば完成だ。

 その日の晩、オンボロ寮に一人の男が現れた。
 グリムも眠り、ユウももうそろそろ寝てしまおうか。とホットミルクが入っているマグカップを傾けている時。オンボロ寮に来訪者を告げる音が聞こえたのだ。
 誰が来たのだろうか。と時計を見ながら首を傾げるユウの傍らで、ゴーストが「彼が来たんじゃないかな」と緩やかな笑みを浮かべて言った。

 彼——と言われて思い浮かぶ人物はたった一人だ。
 名前も浮かばない彼の姿を思い出したユウは、マグカップを足の低いローテーブルの上に置いた。玄関まで歩く度にスリッパが気の抜けた音を奏でる。気持ち早歩きで玄関まで行けば、外から「こんばんは」といつもの穏やかな声が聞こえ、ユウは手早く開錠してドアノブを捻る。

「いらっしゃい。……先輩」
「はい。貴方のジェイドですよ」
「外は寒いですから、早く中にどうぞ」
「ありがとうございます。もう寒くて寒くて凍えてしまうところでした。監督生さんは僕の命の恩人ですね」

 冬休みに入る直前、実家がある珊瑚の海は寒くて分厚い氷に覆われると言っていた。そんな地域出身のジェイドがこの夜空を寒いと感じるわけがないだろう。なのに寒さで身震いする素振りを見せるものだから、ユウは小さく笑いながらも寮の中にジェイドを招き入れた。
 勿論、口の中で何度もジェイドの名前を呟きながら。

 談話室に入ると、部屋の中を一瞥したジェイドがローテーブルの上に放置されているマグカップを見てユウを見下ろした。

「もうお休みをする予定だったんですか?」
「はい。やることもないので」
「そう、ですか。珍しいですね、貴方がこんなに早く寝るなんて」

 何か府に落ちないところがあったのか、言葉を詰まらせながらも一応納得という形を見せたジェイドは、二人掛けのソファに腰をかけ足を組んだ。
 その隣に腰をかけ、壁に掛かっている時計を見れば夜の八時。確かに寝るにはまだ少し早い時間だ。
 普段であれば勉強を教えてもらうところなのだが、生憎と先が見えないユウは勉強に打ち込む気力もない。明日、何もかも忘れてしまっているかもしれないのだ。今日くらい勉強をサボったって罰は当たらないだろう。

「ジェイド先輩、お話を聞いてください」
「はい、喜んで。どんなお話を聞かせてくれるんですか?」
「ふふ、大した話ではないんですけど——」

 今日あった出来事を話せば、ジェイドは微笑ましいものを見る目付きでユウを見つめる。それが少しだけ擽ったくて、視線を彷徨わせれば不意にジェイドの顔を近付く。ゆったりと、たっぷりと間をかけながら近付く造形美を前に目を伏せれば、コツン、と額が触れ合った。

「せ、んぱい」
「はい」
「……近い、ですね」
「そうでしょうか。このくらい普通ですよ」

 今にもキス出来てしまいそうなこの距離が普通なのだろうか。ううん、そんなことはない。これは、きっと“恋人の距離”だ。目を逸らしながら頭を少し後ろに引けば、離れまいとジェイドも付いて来る。
 どうしよう。心臓の音が煩い。顔を巡る血が上昇して頬が熱くなっているのがわかる。思考がどろりと溶けて消えていってしまう感覚がどうしようもなく怖いのに、微塵とも不快だとは思えない。

「あの、ほんとに——」
「黙って」

 重なっていた額に僅かな隙間が出来て、すぐにまた肌が触れ合った。鼻先でキスをして、頬同士が寄り添って、瞼に唇が重なった。唇の隙間から零れ出た吐息すら肌に感じる距離はユウの心臓を早鐘に変える。ヘテロクロミアの瞳を縁取る睫毛の長さを観察している余裕なんて何処にもない。ただユウはに膝の上に置いている握り拳に力を入れ、衣服に皺を作れば大きな手が握り拳を包み込んだ。

「緊張、されているんですね」
「しない方が、どうかしてます」
「はい」

 ——否定、しないんだ。

 ジェイドの思わぬ返答にユウは瞬きを二度繰り返した。
 てっきり緊張なんてものはしない。寧ろ心臓に毛が生えているどころか毛皮で覆っているんじゃないかと思うくらい、何事にも動じない人だと思っていたから、この状況にだってそう言った緊張を感じていないと思っていたのに。
 ただ、頷いただけなのかもしれない。
 でも、それでも、ジェイドが少しでも自分と同じ息苦しさを感じているのなら——。

「私の心臓の音、聞こえてますか? バクバクって」
「どうでしょう。僕の心臓の音かもしれませんよ」
「ジェイド先輩も?」
「はい。監督生さんに触れるだけで、こんなにも心臓が愉快になってしまいます」
「愉快」

 包まれた握り拳をそっと持ち上げられ辿り着いた先は心臓の上。服越しにでも感じる鼓動の大きさに目を大きくさせたユウは、震える手をゆったりと持ち上げて心臓に触れていない手で己の心臓の上に手を添えれば、ジェイドの心臓に負けず劣らず愉快な音を立てている心臓が一つ。

「私の心臓も愉快になっていますよ」
「お揃いですね」
「はい。お揃いです」

 己の胸の上に置いた手の上に大きな手が重なる。掌を返して指を絡めれば、もう片方の手もジェイドと指が絡まる。もう一度額が重なって熱を共有し合えば、繋がった手や糸から生を刻む音が共鳴し合う。

「好きです」
「知っていますよ」
「はい。知っていてください。僕が監督生さんのことを想っていることを」

 二人の間で交わる吐息はオンボロ寮の一室に融けて消えた。

 時計の針が本格的な夜であることを指した頃、ジェイドはオンボロ寮を後にしてオクタヴィネル寮に戻って行った。
 放置していたホットミルクはただのミルクに変わってしまってる。
 蜂蜜の甘さがいやに舌に纏わり着くが、気にせず一気に飲み込んでシンクに置いて自室に戻る傍らで、目を細めたゴーストが身体を浮かせながら口元を緩ませる。

「おやすみ。ユウ」
「おやすみなさい」

 金切り音を上げながら扉を締めるも、ベッドを占領しているグリムは反応の一つも見せやしない。
 動物的にそれでいいのか。と首を傾げてしまうも、それだけリラックスしているということだと考えれば愛おしさも募るわけで、ユウは足音を立てないようにグリムに近付き、丸まっている背中を撫でつけた。

 必要最低限の明かりを灯して鞄の中からルーズリーフを一枚取り出す。
 明日の朝にでも今持っている記憶の全てが失われてしまうかもしれない。そうなってしまった時、何も残せないのは嫌だから、手紙を残しておこう。
 日中の内にエースとデュースにはメモ程度の手紙を残した。後はグリムとジェイドとお世話になった先輩方や友人だけだ。
 この夜の間に全てを書き切ることは難しいわけじゃないだろう。

 グリムが寝息を立てている後ろでユウは机に向かってペンを走らせた。
 何度か書き損じては紙を丸めてゴミ箱に捨て入れる。丁寧に、一文字づつ、感謝の気持ちを込めながら。

 全てを書き終えたユウは、グリムが丸まって寝ているベッドに潜り込めば、振動で起きたグリムが寝ぼけ眼のまま近付きユウの腕の中で再び丸まった。

「おやすみ。私の親分」

 月明かりだけ差す暗闇の部屋の中でユウも目を閉じた。深く沈んでいく意識の中で遠くから漣の音が聞こえた。

 ――あぁ、もう、終わりだ。

 その日、ユウは深海よりも深い眠りについた。
 口元に笑を浮かべながら、永遠の眠りについたのだった。