それは、私たちの愛に吐露する


「フロイド起きて、朝ですよ」
「んー……まだ昼〜」
「んふ、それだと朝を越えてしまっていますよ。ほら、アズールに怒られる前に起きた方がいいです」
「やだぁ」

 うつ伏せのまま枕を抱き締めて眠っているフロイドに声を掛けるも、額を枕に擦り付ける動きを見せるだけで起き上がる気配がまるでない。小さな唸り声を上げているフロイドを他所にジェイドは淡々と準備を進めていく。皺なく制服を着こなし、いざ胃袋を満たそうと部屋を出れば、寮内が随分と騒がしいことに気が付き、扉の外に首を出せば、慌ただしく廊下を走る下級生が一人。

「副寮長も来てください! オンボロ寮のあの魔獣が暴れてるんです」
「魔獣、というとグリムさんでしょうか」
「あぁ! そんな名前の奴です! 兎に角大変なんです!」

 グリムが一体こんな朝早くになんの用でオクタヴィネル寮に来ているのだろうか。と考える傍らで下級生に促されるまま談話室に向かえば、人垣が出来ていた。
 その中心にはアズールがいて、その足元には渦中の魔獣がいる。

「何事ですか」
「それはこちらの科白ですよ。ジェイド」
「遅れてしまったようで。それで? グリムくんはどうして此処へ?」

 状況を読み込めないジェイドが小首を傾げながら近付けば、グリムが四つ足を付いたまま低い唸り声を上げ、うんと背の高いジェイドを睨みつける。人語を話せるはずだが。と切れ長の目を細めていつだって返り討ちに出来る魔獣を見下ろせば、グリムは漸く口を開いた。

「オマエの所為なんだゾ!」
「……はて、何が?」
「ユウが、ユウが、目を覚まさないんだゾ!!」

 シアンの大きな瞳を歪ませながら叫ぶグリムを前に、アズールを含めた幾人かの生徒が怪訝な表情を浮かべた。

「寝坊、をしているのでは?」
「子分は寝坊をするヤツじゃないんだゾ」
「そうですね。その意見には賛成です。だからと言って、グリムくんがウチに来る理由がわかりませんが」
「何をしても反応しないんだゾ! 突いてみても、名前を呼んでも反応がないから……オレ様……」

 三角に尖っていたシアンの瞳が情けなく歪み、遂にはその瞳から大粒の涙が零れた。談話室の床に小さな海を作っていくグリムの様子を見たジェイドが、これは只事ではないと目を細めれば、グリムは二足歩行でジェイドに近付き脛を何度も前足で殴る。

「オマエの! オマエの所為だ! ユウが目を覚まさないのも、全部! オマエの所為なんだゾ」
「ジェイド、お前……」
「確かに監督生さんの意識を奪って好きなようにするもの魅力的ですが、それでは僕がつまらないですからね。そんな惜しいことはしませんよ。あの人は、あの性格だから面白いんです」

 アズールの虫を見るような視線を受けたジェイドは、困り顔を浮かべながら否定してみせるが、その内容は酷く、アズールを抜かした寮生が無意識にジェイドから距離を取ったが、異変に気が付かないグリムが蚊帳の外にするなと再びジェイドの脛を前足で殴った。

「いいからさっさとユウを元に戻すんだゾ!」
「と言われましても、僕には何のことなのかさっぱりで……兎に角オンボロ寮に行きます」

 グリムの様子で只事ではないことだけは理解したジェイドは、足の長さを活かして素早く寮生で出来た人垣を通り抜ける。オクタヴィネル寮を後にしてオンボロ寮に向かって走り、普段では考えられない乱雑さで扉を開ければ、すすり泣く声が幾つも聞こえた。不規則で不安定な音楽のような泣き声はジェイドの不快感を煽ると同時に、グリムの話しに信憑性が増す。

 本当に監督生さんの身に何かが起こっている。それは病気とかではなく、恐らく——。

 悪い予感がジェイドの心臓に不協和音を齎す。息苦しいほどの早鐘に思わず足を止め胸騒ぎを代弁している胸部を服の上から握り締めるも、静まることを知らないらしく、今にも口から吐き出してしまいそうなほど騒いでいる。

「監、督生さんは、今、どちらに……?」
「あの子はベッドの上さ。声を掛けても反応しないんだ。こんなこと言いたくはないけど、きっと、もう——」
「そんなはずはありません!!」

 まるで葬儀のような雰囲気を纏うゴーストの言葉を遮ってジェイドが吠えた。
 一瞬でも予想した。だが、そんな事実はあってはいけないと、認めて堪るか。と頭を振って軋む廊下を無遠慮に駆け抜け、痛んでいる踏面を駆け上がる。何度か訪れた部屋の扉を開ければ、感情に任せた所為で大きな音を立てる。だと言うのに、ベッドの上で横たわっているユウは何の反応も見せない。
 まるでそこだけ世界から切り離されているみたいだった。

「監督生、さん……」

 泣き出す前の子供みたいな声だった。
 さっきまでの勢いが完全に死に絶え、幽鬼のような頼りない脚でたどたどしくユウが寝そべるベッドに近付いて床に膝をつける。震える手でユウの頬に触れれば、全く体温を感じられず、顔を顰め手袋を脱ぎ捨てた。
 手袋越しだったから、だから体温を感じないんだ。そうに決まっている。
 そんな淡い期待を抱いたまま、ジェイドはもう一度まろみを帯びている頬に触れた。

 ——冷たい。

 ユウと手を重ねた時、いつも己よりも高い温度が伝わって来ていた。頬に触れれば恥ずかしそうに、擽ったそうにはにかむのが愛おしくて、上気する頬が熱くて、慣れないその肌の熱に何度浮かされたことだろうか。
 だったと言うのに、どうして今、監督生さんの体温はどこにもないのだろう。

 頬に触れた手を首筋に移して、脈を図るも指の腹になんの振動もない。
 項に手を回して持ち上げ、何度もユウを呼ぶも反応らしい反応を見せない。

「ユウは、どうしちまったんだ?」

 もう一人の子どもが問うた。

「わかりません。ただ、呼吸も脈もなく、身体は冷たい。グリムくん、学園長を呼んでください」
「わかったんだゾ」

 暫くして学園長がクルーウェルを連れてやって来た。状況を一目で把握したクルーウェルがユウの身体に触れ、何かを確かめていく。大きな鞄の中から幾つかの魔法薬を取り出してはユウの肌に塗り込む。その作業を繰り返し、十を超えたあたりからジェイドは数えることを止め、祈るように冷え切ったユウの手を取り、己の額に冷たい指の背を重ねた。

「どうですか?」
「……魂がごっそりないですね。誰かに持っていかれたようです。リーチ兄、グリム、監督生周りで何か心当たりはないか?」
「……そういえば子分、疲れやすくなったって言ってた」

 その一言でユウの異変を思い起こしたジェイドが、グリムの発言を補完するように口を開いた。

「先日、監督生さんが畑仕事をした後、珍しく昼寝をしていたようでした。普段の彼女であれば、待ち合わせがある状態で疲労困憊になるまで動いたりしません。恐らく、自分の体力が落ちていることに気が付かず、いつも通りに動いていたのかも知れません」
「バルガス先生も最近監督生の筋力が落ちたようだ。と報告を受けたな……いつものくだらん話かと思ったが……」
「体力が落ちて眠る……これだけじゃ、彼女の身に何が起こっているのか判断が出来ませんね」

 鉤爪の付いた指先を顎に当て、何かを考えている素振りを見せる学園長を一瞥したジェイドは、何を言うでもなくユウの頬に掌を当て、依然として冷たい肌に少しでも温もりが移るようにと願っていれば、ユウの寝室前の廊下が軋み来訪者を告げた。
 誰なのかと推察する暇もなく、ノックもなしに扉が開くと同時にテラコッタの毛先が扉越しに跳ねた。

「ユウー? 寝坊かぁ? なんか知らねぇけど、クルーウェル先生も遅れてるみたいだからさぁ、今なら遅刻になんねぇじゃね?」
「というか、スマホにもメッセージ来てなかったけど、具合でも悪いのか? グリムも来てないし……」

 何も知らない二人が部屋に入れば、学園長とクルーウェルとジェイドと魔獣が一匹。この部屋はオンボロ寮ではなかっただろうか。と小首を傾げたデュースとは反対に、徐に顰め面を浮かべたエースは、内情を隠す気もなく「え!」と声を上げた。

「なんでオンボロ寮にクルーウェル先生が……それに学園長まで」
「詳しく話している暇はない。と言いたいところだが、そういうわけにもいかないか。お前たちはユウと仲が良かったしな」
「仲良かったってなんすか」
「いいか。今から話すことは他言無用だ。いいですね? 学園長」
「仕方がありません」

 渋々頷いた学園長の様子に只事ではないと悟った二人は、何かに怯える素振りを見せたものの、大人しくクルーウェルの話しに耳を傾けた。ジェイドの陰に隠れて見えなかったユウは未だに寝坊をしているのだと信じ切ったまま。

 ——ことのあらましを聞いた二人はまさに抜け殻と呼ぶに相応しいものだった。
 放心、あるいは理解不能。表情がごっそりと抜け落ちている。心境的に立っている自覚すら曖昧になっているに違いない。己がそうだったから。
 ジェイドは一学年下の顔見知りに共感を覚えながらも、眠り続けているユウに寄り添っている。

「…………ユウは……これから、どう、なるんですか……?」

 長い沈黙を破ったのは意外にもデュースだった。
 右目に大きく描かれた黒いスペードのスートを滲ませながら、懸命に一縷の希望に縋る様は、力のない自分を見ているようで、ジェイドは酷く腹が立った。
 成す術があれば、既に手を施している。そうして今頃、幼い少女は自分の意思でこの背中に腕を回していたに違いない。

「七日。七日呼吸が確認されなければ……死亡したと認識し——」
「待ってください!!」

 誰だって学園長が言わんとしていることに察しは付いた。いち早くジェイドが声を上げただけの話しだ。
 これ以上聞きたくない。耳を塞ぐよりも先に制止の声を発するも、淡々と、まるで業務連絡のように酷く温度の無い事務的作業の一環のような口振りで、ペストマスクから覗く薄い唇が音を紡ぐ。

「——埋葬します」

 確固たる意志を持っていた。
 それは決定事項であり、覆せない重圧を伴っていた。学園長にとっても辛い判断な筈だ。それをおくびにも出さない態度は流石腐っても教育者と言うべきなのか、大人と言うべきなのか。
 はたまた、身寄りのない小娘を一人埋葬したところで学園の醜聞は広がらないと考えているのか。
 ——事実、ユウの存在と言うのは蝋燭の炎よりも頼りのないものだった。

 これ以上話すことはない。と学園長は無言のまま部屋を出て行き、クルーウェルは流石にこれ以上クラスの生徒を待たせるわけにはいかないと、顔を顰めて徐に舌打ちをすれば、その音に反応したのかエースはふらりとこの部屋に備え付けられている机に向かって歩き出した。
 その足取りはおぼつかなく、何かのはずみで転んでしまいそうなものだ。

「エース?」
「机、机の上に、メモが残ってるんだ。もしかしたら、ユウが、残したのかもしれないだろ」

 その言葉にジェイドが机に視線を寄こせば、丁度エースが二つ折りになっているメモ紙を開いている瞬間だった。

「なんて書いてあったんだ?」
「……ありがとう。楽しかった、って」
「ユウ……僕、お前に、魔法執行官になるところを見てもらいって約束したのに……! なんで、なんで!」
「オレだって、もっともっと監督生といたかったよ!」

 限界に達したらしい二人が俯き流す涙を見せまいとするも、古めかしい床に次々と小さな雫が落ちていく。

「お前たち、今日は寮に帰れ。いいな?」

 クルーウェルの言葉に頷いた二人は、メモ紙を握り締めながらクルーウェルに背中を押される形で部屋から出て行き、扉が閉まる前にクルーウェルがジェイドを一瞥した。

 何も言わなかったのは、かける言葉が見つからなかったのか、ジェイドの耳にクルーウェルの言葉が届いていなかっただけなのか。
 少なくともジェイドの意識は引き寄せたメモに向かっていた。

 “ジェイド先輩へ”。幾つかあるメモの中から、己の名前が書かれた二つ折りのメモを見つけたジェイドは震える指先で開いた。

 “ありがとうございました。大好きでした”

 たった二行のメッセージ。
 あまりにも短いユウの本心。

「足りません。これじゃ足りません。大好きじゃ足りないんです。愛してます。愛しています。——ユウさん」

 人形かと紛うほど、動かないユウの頬に涙が伝った。